思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 滝廉太郎「花」

組歌《四季》より 花 - YouTube

組歌《四季》より 花 · 藤原伊央里・紀野洋孝

組曲」ではなく、「組歌」というのを初めて知りました。

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現在の墨田河畔

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「写真の中の明治・大正」より「墨堤花見之図」!?

服装から時代を判別する知識はありませんが、4月上旬(?)にしては厚手の着物の人が多いように思います。3月末に満開で、昼間は20度を上回る、温暖化の現在よりもやはり気温は低かったのでしょうか。

 

作詞:武島羽衣 作曲:瀧廉太郎

春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂(かい)のしずくも 花と散る
ながめを何に たとうべき


見ずやあけぼの 露あびて
われにもの言う 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく青柳を


錦おりなす 長堤に
暮るればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとうべき
※1900年(明治33年)同年11月1日歌曲集(組歌)『四季』の第1曲

 

 

 先日購入した半藤一利『歴史探偵 忘れ残りの記』(文春新書)を読んでいたら、「春はうららかにあらず」という項があり、その中に「昔、田辺聖子さんから『花』の歌詞のもとが『源氏物語』胡蝶の巻にあると聞いて、それが『六条院の宴』にあるのを見つけた」という下りがありました。

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 この件に関する分かりやすいコラムを、同志社女子大学のホームページで見つけました。

「花」と『源氏物語
吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

 滝廉太郎作曲の「花」ができたのは明治33年のことでした。作詞は、日本女子大学教授で歌人武島羽衣(はごろも)が担当しています。その一番の歌詞は、

    春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が
    櫂のしづくも花と散る ながめを何にたとふべき

となっています。のどかな隅田川の春の光景が、七五調で見事に描写されていますね。「うらら」は「うららか」でしょう。(中略)

 それだけではありません。実はこの歌詞には、どうやら『源氏物語』胡蝶巻が踏まえられているようなのです。胡蝶巻というのは、光源氏が築いた六条院の春の御殿が舞台となっています。その女主人である紫の上が龍頭鷁首(げきしゅ)の船を池に浮かべて船楽を催し、そこに秋好中宮付きの女房を招待し、春のすばらしさをこれでもかと見せつける趣向になっています。見物にやってきた女房達はただもううっとりとして、本来はライバルであるはずの春の御殿を讃える和歌を詠じてしまいます(春秋優劣論としては秋の敗北を意味します)。その最後の歌こそが、

    春の日のうららにさしていく船は棹の   しづくも花ぞ散りける

でした。いかがですか。一見しただけで、「花」の一番の歌詞と類似していることがわかりますね。
(中略)
 ただし「棹のしづく」が「櫂のしづく」に変っています。もちろん「棹」より「櫂」の方が、「花のように散るしずく」がたくさん散るはずです。というより『源氏物語』では、「さす」に「日射す」と「棹指す」が掛けられているので、どうしても技法的に「棹」でなければならないのです。
 あるいは「のぼりくだりの舟」そのものが、「櫂」を用いる西洋的なボートをイメージしているのかもしれません。もしこれがボートレース(早慶レガッタ)の光景だとすると、従来想像されていた古風なイメージは、それこそ幻想だったことになります。さて、いかがでしょうか。

https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2015-03-13-09-00

 

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 引用したコラムにもありますが、これまでは、いくつかの参考文献やネット上の記事から、作詞の武島羽衣氏が隅田川で繰り広げられるボートレースを観て書いたものかなと思い込んでいましたが、必ずしもそうではないようですね。
 下のように宮内省御歌所寄人も務めた」著名な歌人だったのですから、「源氏」のこの場面もよくご存知だったことでしょう❗️

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武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月2日[1][2][註 1](1872年12月2日) - 昭和42年(1967年)2月3日)は、日本の国文学者、歌人、作詞家、日本女子大学名誉教授。宮内省御歌所寄人も務めた。本名は武島 又次郎。瀧廉太郎の歌曲「花」の作詞者として知られる。(Wikipedia

 

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 墨田河畔には遠く及びませんが、昨日近くにある千鳥川桜堤公園に初めて行ってきました。山の桜もいいでしょうが、清流に沿って咲いている桜は格別ですね。遠くに源平古戦場の三草山も見えていました。

♪ 「東京五輪音頭」(三波春夫)

www.bing.com

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作詞:宮田 隆
作曲:古賀政男
歌:三波春夫

ハアー
あの日ローマで ながめた月が (ソレ トトントネ)
今日は都の空 照らす (ア チョイトネ)
四年たったら また会いましょと かたい約束 夢じゃない
ヨイショ コーリャ 夢じゃない
オリンピックの 顔と顔
ソレトトント トトント 顔と顔

 

ハアー 待ちに待ってた 世界の祭り (ソレ トトントネ)
西の国から 東から (ア チョイトネ)
北の空から 南の海も こえて日本へ どんときた
ヨイショ コーリャ どんときた
オリンピックの 晴れ姿
ソレトトント トトント 晴れ姿

 

ハアー 色もうれしや かぞえりゃ五つ (ソレ トトントネ)
仰ぐ旗みりゃ はずむ胸 (ア チョイトネ)
すがた形は ちがっていても いずれおとらぬ 若い花
ヨイショ コーリャ 若い花
オリンピックの 庭に咲く
ソレトトント トトント 庭に咲く

 

ハアー きみがはやせば わたしはおどる (ソレ トトントネ)
菊の香りの 秋の空 (ア チョイトネ)
羽をそろえて 拍手の音に とんでくるくる 赤とんぼ
ヨイショ コーリャ 赤とんぼ
オリンピックの きょうのうた
ソレトトント トトント きょうのうた

 

  一昨日から、オリンピックの聖火リレーが始まりましたが、開会まで4ヶ月を切っても、依然不透明な部分も多く、国民的な機運の盛り上がりにはほど遠いように感じます。
 57年前のときは、小学校3年生でした。10月の農繁期の最中、農家でもマラソンの中継などは農作業を休んで、小さな白黒テレビを皆で観ていた、そんな記憶があります。
 また、開会のずいぶん前から、テレビやラジオを通して、この東京五輪音頭」がさかんに流れてきたものでした。

 いわゆる高度経済成長期にあたり、東海道新幹線の開通も、たしかオリンピックの直前だったと思いますが、まさに”イケイケドンドン”の時代でした。

 

贔屓の落語家・瀧川鯉昇さん定番のマクラに、こういうのがあります。

「昨日の晩何食べたかは覚えていないのに、何十年も前の子どもの頃のことはよく覚えている」という語り出し。

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  瀧川鯉昇 昭和27年・1952、静岡県浜松市生まれ)

 前の東京オリンピックの時は小学6年生でした。当時、航空自衛隊浜松基地に所属していたブルーインパルスの部隊が何ヶ月も前から、浜松市の上空で開会式当日に上空で五輪を描く訓練を重ねていました。
 

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 山下少年(本名・山下秀雄)たちは、そうした事情を知らないまま、日を重ねる毎に五つの輪の完成度が高まるのを「すごいな!俺たちも大きくなったらやってみたいな!」と言いながら空を見上げていました。
 そんなことで、その頃の自分たちは、将来の夢を聞かれると、きまって「編隊(変態)となって飛行(非行)に走る」と言っていましたが、後に友達の何人かは望みが叶って、刑務所に入りました。

 

 さて、三波春夫さんの、この東京五輪音頭」なのですが、意外にも多くの歌手が歌っていました。(Wikipediaで知りました)

藤山一郎橋幸夫三橋美智也坂本九北島三郎畠山みどり大木伸夫・司富子、つくば兄弟・神楽坂浮子菅原洋一、初音家賢次
失礼ながら、初めて見るお名前の方も何人かありますね。

 歌詞の特徴や音頭という性格上、この歌はやはり、民謡系か浪曲系の方には似合っていても、洋楽、クラシック系の歌い手さんには向かないかも知れませんね。

 リアルタイムにこの歌を聞いていた、現在60以上の世代でも、三波さん以外の方が歌っていたのを知っているという人はあまりいないのではないでしょうか。

 「ハアー」という明るく張りのある美声の歌い出し。これ一つとっても、他の方には真似できないことでしょう。


 「国民的歌手」という言葉がありますが、私など、まず頭に浮かぶのは三波さんと藤山一郎さんですね。
 中でも、三波さんは昭和39年(1964)の東京オリンピックに続き、昭和45年(1970)の大阪万博でも「世界の国からこんにちは」(作詞:島田陽子、作曲:中村八大)を歌われています。
 戦後の国家的規模な二大イベントのテーマソングを、(競作ではありますが、実質は独占状態)見事に歌い上げられたという意味でも、「国民的歌手」と呼ぶのに最適の方だと思います。

    ネット検索をしていて、東京五輪音頭2020」東京2020大会開催されることを機に、パラリンピックの要素を付加し、歌詞と振り付けをリメイク)というのがあるのを知りました。

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 竹原ピストル 石川さゆり 加山雄三 

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踊りの振り付けビデオがいくつもYouTubeには投稿されていますが、今の状況では広めるのは難しいでしょうね(;。;)

♪ 『陽は舞いおどる甲子園』(旧・選抜高等学校野球大会歌)

選抜高校野球 旧大会歌 「陽は舞い踊る甲子園」 - YouTube

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 一昨日の3月19日(金)から、「春のセンバツ選抜高等学校野球大会)が始まりました。
 今年は、同じ東播磨地区から公立高校が21世紀枠で出場しているので、テレビ観戦を楽しみにしていましたが、生憎の雨で明日に順延となりました。
 小学生のころから、何度か訪れた甲子園今年30になる息子が小学生の時に連れて行った記憶がありますが、それ以後は長らくご無沙汰。
 久しぶりに訪れた8年前の夏は、生徒引率の出張でした。
2020-07-21
♪ 「栄冠は君に輝く」(古関裕而
♪ 「栄冠は君に輝く」(古関裕而) - 思い出の中のあの歌この曲 (hatenadiary.com)

 

 昨晩、テレビやネットニュースで、選抜の記事を見ていて思い出したのが、この「大会歌」のことでした。

 今は、第65回大会(1993年)からの3代目大会歌として、作詞・阿久悠、作曲・谷村新司「今ありて」という曲が演奏されています。もちろん、これも素晴らしい曲なのですが、我々世代には旧・大会歌(正式には一つ前の2代目大会歌)のメロディーが忘れられません。
 この2代目は、勇ましい感じのメロディー(作曲者は陸軍軍楽隊員ですから!)で印象に強く残っているのですが、歌詞の方はと言うと、初めの方しか思い出せません。
 このたびWikipediaなどで調べてみると、結構難解な用語になっています。(作詞が薄田泣菫と知って納得!)
 これでは覚えられないのも無理もありませんし、時代にそぐわないと言われても仕方はなかったでしょう。
 そうは言っても、やはり子どもの頃にしみこんだ歌の記憶には、やはり根強いものがありますね。

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※「ララララ」の終わり方が,この時代にしては洒落た感じになってます。

1、
陽は舞いおどる 甲子園
若人よ 雄々しかれ
長棍痛打(ちょうこんつうだ)して 熱球カッととぶところ
燃えよ血潮は 火のごとく
ラ大毎(後に毎日) ラ大会 ラララララ

2、
戦塵あがる 春なかば
選士らよ 雄々しかれ
輝く王冠の 誉(ほまれ)に酔うは何人(なにびと)ぞ
あげよ凱歌を 波のごと
ラ大毎 ラ大会 ラララララ

 

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薄田泣菫

 昭和9年(1934)に制定された「選抜中等学校野球大会」(現在の選抜高等学校野球大会)の2代目大会歌である。「陽は舞いおどる甲子園」は通称であり、正式には「全国選抜中等学校野球大会歌」(後に「選抜高等学校野球大会歌」)と呼ばれる(初代大会歌も同様である)

 作詞は主催者・大阪毎日新聞社学芸部部長で詩人の薄田泣菫、作曲は陸軍戸山学校軍楽隊。なお、この頃から軍楽隊や東京音楽学校の人物による作品については作曲者の名前は伏せられるようになった

 この曲は全国高等学校野球選手権大会栄冠は君に輝くとは対照的に忘れられた存在となってしまった。
また歌詞の中に「選士」など軍国主義時代を彷彿とさせる時代にそぐわない言葉がある他、「毎日」と入っている関係上NHKテレビの開会式中継でも歌詞の字幕スーパーが表示されないなど、それらも世間にほとんど浸透しなかった一因となってしまい1992年(平成4年)の第64回大会限りで姿を消した。(Wikipedia

  

 ここからは話がそれますが、春夏の甲子園の野球というのは、戦前の「中等学校野球の振興」という大義名分がたしかにあったものの、元々は夏の朝日春の毎日という両新聞社(どちらも大嫌いですが・笑)の販売戦略の一環という面もあったようです。

 私のブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」では、以下の記事で少しふれています。

2019-02-25
コラム6 「校友会の運動部活動」
https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/02/25/105842
 運動部の活動は、そうした社会の風潮を背景に発展していったわけですが、反面で過熱化にともなう弊害も指摘されるようになっていきます。「選手制度の弊害」、「勝利至上主義」、「過剰な学校対抗意識」などといった言葉で表されるものでした。

 中でも、東京朝日新聞は「野球害毒論」の論陣を張り、執拗に野球批判を行いました。さすがに当局も看過できず、北海道では明治四十三年(一九一○)年、庁立の中等学校野球の対外試合が禁止されてしまいました。それは十年近く続いたということです。
 ところが、皮肉なことに、大正四年(一九一五)に、今度は大阪朝日新聞が主催して「健全な教育活動の一環としての中等学校野球の確立」を目指して、夏の甲子園大会(全国中等学校優勝野球大会)を始めています。どうも、このあたりは、背後に「大人の事情」とでも言うべきものがあったのではと思われて仕方ありません。

  実際、大正から昭和の初め頃にかけて、「大阪朝日」と「大阪毎日」は、中等学校野球を初めとするスポーツイベントを通じて、購読者の増加を図ろうという経営戦略を積極的に展開していたと言われています。(西原茂樹「東京・大阪両都市の新聞社による野球(スポーツ)イベントの展開過程―1910~1925年を中心に―」)

 

♪ 「村の少女」(国民歌謡)

 

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 陽気に誘われて、土木係としての受け持ち区域の見廻り旁々、30分ほどの散歩途中に、付近の藪や雑木林の中から、鶯の鳴き声が聞こえてきました。
 ふと思い出したのは、昔よく車の中で聴いていた鮫島有美子さんのCDにあった歌で、歌詞に「藪の鶯鳴きそめぬ」という文句がありました。
 

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 帰宅後に曲名を探しあてるのに手間取りました。「山の乙女」?「村の乙女」?それらしい曲はありましたが、どうも違います。
 曲の雰囲気から、ひょっとして戦前の「国民歌謡」?と思い、Wikipediaの一覧から、この「村の乙女」(喜志邦三作詞 /富永三郎作曲)を見つけました。
 昭和12年(1937)5月20日に放送され、ソプラノ歌手の関種子さんが歌っていました。

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「村の少女(おとめ)」
喜志邦三:作詞 富永三郎:作曲

 

1 
囲炉裏を閉ぢて 早や七日 藪のうぐひす 鳴き初めぬ  納屋の南の 

荒壁に もたれて見れば 麦青し

2
都の紅き ともしびの 便り恋しき 春なれど われは少女(おとめ)の 夢捨てて さびしく咲ける 山椿

3
錦の衣はまとはねど 父と母との ふるさとの 村に埋もるる うれしさを 雪どけ水よ 歌へかし

 

『国民歌謡』は、戦前の1936年から1941年の期間、月曜から土曜の午後0時35分から5分間、新しく作った曲を1週間連続して流した、日本のラジオ番組である。今日のヘビーローテーションに当たる。
1941年2月12日から同年12月8日の期間は名前が「われらのうた」と変わり、さらにその後の、1945年8月15日までは「国民合唱」となり、戦後は「ラジオ歌謡」となった。
Wikipedia

  これまでにも取り上げた「椰子の実」東海林太郎)を初めとして、「春の唄」(月村光子)、「愛国の花」(渡辺はま子)「めんこい仔馬」(二葉あき子、高橋裕子)などが、有名なところではないでしょうか。あの海ゆかば(日本ビクター混声合唱団)も、なんと国民歌謡のうちの一曲だったのですね。

 

 作詞の喜志邦三さんには、「ラ~ラ~ラ~、赤い花束 車に積んで 春が来た来た 丘から町へ・・・」という歌い出しで有名な「春の唄」があります。

 

■喜志邦三 明治31~昭和58(1898~1983) 詩人 大阪府堺市生まれ
兵庫県西宮市に居住。兵庫県が舞台の作品に「海港の秋」がある。
明治31年(1898)大阪堺市生まれ。早稲田大学英文科卒業後、大阪時事新報社で新聞記者を勤め、のちに神戸女学院大学で教壇に立った。三木露風に師事し、第三次「未来」に参加。麦雨の号で抒情詩を発表。後には人間の内面を追究する作風へと深化していった。積極的に後進の育成にも尽力し、戦後になって「交替詩派」を主宰。のちに「再現」「潅木」へと名前を変えながら発展していく。西宮北口並びに甲子園口に長く居住した。NHK放送文化賞、西宮市民文化賞を受賞。
一方、詩作の拡がりを目指して、国民歌謡,ラジオ歌謡,歌謡曲にも創作活動を続け、多くの作品を世に送り出した。中でも「春の唄」「踊子」「お百度こいさん」等は今でも歌い継がれている。神戸淡路震災復興のシンボルマークの一つであるアクタ西宮には「春の唄」の歌碑が建立されている。 (兵庫県文学館ホームページ)

  さて、この「村の乙女」。ゆったりと優しいメロディーで懐かしい感じを与えてくれますが、大詩人には失礼ながら、ちょっと気になるのが「父と母との ふるさとの 村に埋もるる うれしさ」という三番の歌詞です。

 いったい、少女のどういう境遇を想定しているのでしょうか。

 「埋もれる」は「価値が人に知られずにいる」と辞書にはありますが、どうも腑に落ちません。理解力、想像力不足なんでしょうか?(;。;)

 

 鮫島さんのCDがたくさんあるのですが、整理が出来ていなくて、まだ現物がみつかっていないというお粗末。

♪ 「旅立ちの日に」 卒業式ソングの今

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(東京混声合唱団)

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 3月11日が近づいてきて、新聞、テレビ、ラジオなどでも東日本大震災の話題が多く取り上げられるようになってきたように感じます。特に、今年は10年という大きな節目でもあって、注目の度合いも高いようです。
 10年前のその時は、校区内の中学校の卒業式に来賓(校長代理)で出席し、10時から2時間半ほどの長い(失礼!)式が終わって帰校し、遅い昼食の後、ほっとしている時間帯でした。
 兵庫県の内陸部にある当地方でも、震度2を計測したようで、職員室の蛍光灯がしばらく横に揺れていたことをはっきりと覚えています。

 そういうわけで「思い出の中のあの歌」となると、「群青」(有名な合唱曲ではなく、若い人の間で流行っている曲もあるようですが)旅立ちの日にの二曲がどうしても思い出されてきます。
 「群青」のほうは、迂闊にも数年前に近隣の町の混声合唱団が歌っているのを聴いたのが初めてでした。YouTubeでいろんな団体のを聴き比べたりはしていますが、今回はパスしておきます。

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(パナムジカホームページ https://www.panamusica.co.jp/ja/appeal/gunjo/ 

 前述のように、校区内の中学校の卒業式には、50歳前後から毎年のように来賓で出席していました。公立高校入試の2日前に行われることが多いのですが、市内・郡内で同じ日に実施されるために、校長、教頭以下、部長クラスまで手分けして出席するのが通例でした。
 各中学校のぼんやりとした印象は残っていても、どこの学校でどんな歌を合唱していたかまでは思い出せませんが、この旅立ちの日にが一番多かったのは間違いないと思います。

作詞:小嶋登
作曲:坂本浩美

白い光の中に 山並みは萌えて
はるかな空の果てまでも 君は飛び立つ
限りなく青い空に 心ふるわせ
自由をかける鳥よ 振り返ることもせず

勇気を翼に込めて 希望の風に乗り
この広い大空に 夢を託して

懐かしい友の声 ふとよみがえる
意味もないいさかいに 泣いたあの時
心通った嬉しさに 抱き合った日よ
みんな過ぎたけれど 思い出強くだいて

勇気を翼に込めて 希望の風に乗り
この広い大空に 夢を託して

今 別れの時 飛び立とう 未来信じて
はずむ 若い力 信じて
この広い この広い 大空に

今 別れの時 飛び立とう 未来信じて
はずむ 若い力 信じて
この広い この広い 大空に

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 『旅立ちの日に』は、1991年に埼玉県の秩父市立影森中学校の教員によって作られた合唱曲である。作詞は当時の校長であった小嶋登、作曲は音楽教諭の坂本浩美(現・高橋浩美)による。編曲は、松井孝夫他、複数の作曲家によるものがある。近年では卒業ソングの定番として認知され、原曲の変ロ長調の他にハ長調などの様々な調で歌われている。また、混声三部版、混声四部版、女声三部版、同声二部版と複数のアレンジが存在する。

Wikipedia

  作曲されてから、もう30年にもなるのですね。 今や、「卒業式ソング」では定番中の定番と言ってもいいことでしょう。

 

 2011年に四国新聞社が香川県の300の小中高校で行った調査では、約三分の一の96校が「旅立ちの日に」で、二位の「YELL」(いきものがかり)18校を大きく引き離している。このほか5校以上が歌う予定として挙げたのは、「大地讃頌」「ありがとう」(いきものがかり)、「栄光の架橋」(ゆず)、「最後のチャイム」(山本恵三子作詞、若松歓作曲)、「大切なもの」(山崎朋子作詞作曲)、「ベストフレンド」(kiroro)、「手紙~拝啓 十五の君へ~」(アンジェラ・アキ)、「巣立ちの歌」、「道」(EXILE)(中略)一校だけが選んだものが三十二曲あり、オリジナルソングを歌う学校も十一校あった。特定の曲に集中する反面、実に多様な歌が歌われているのである。四国新聞によれば、「子ども主体」の選曲で、毎年固定はせず、子どもの意見を反映して決めている学校が多く、最近のヒット曲が目立つという。

有本真紀『卒業式の歴史学講談社メチエ、2013年より第6章「卒業式歌の現在」より

 

仰げば尊し」は歌わない “卒業ソング”今どきの人気番付

旅立ちの日に 18人
大地讃頌 7人
・証(flumpool) 6人
・道(EXILE) 3人
・群青 3人
・YELL(いきものがかり) 2人
・遥か(GReeeeN) 2人
・大空賛歌 1人
 ・道(GReeeeN) 1人
栄光の架橋(ゆず) 1人
・3月9日(レミオロメン) 1人
・最後の一歩最初の一歩 1人
・BELIEVE(NHK「生きもの地球紀行」テーマ曲) 1人
・ともだちはいいもんだ 1人
・明日の空へ 1人
・桜ノ雨(初音ミク) 1人
・COSMOS(アクアマリン) 1人
・手紙~拝啓 十五の君へ~(アンジェラ・アキ) 1人

 

2019/03/17  「日刊ゲンダイDijital」

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/249801/3

 記事から、32人がどういう人たちなのか読み取れませんでしたが、おそらく小中学生の保護者ではないかと思われます。私たちから見ると、子の世代です。 はっきりと知っていると言えるのは4曲(太字)だけでした。

 

■ 合唱指導は大変!?

 独唱でなら、そんなに難しい歌ではないでしょうが、これを学年全部でとなると、相手は生意気盛りの中3ですから、とても音楽の先生一人の手には負えないことでしょう。

 YouTubeにはパート毎の練習用の動画がありますが、これもその大変さを表しているのではないでしょうか。

 2,3年前に私たちの混声合唱団でも歌いましたが、なにせ半ばシルバーコーラスなものですから、例えば下のようなリズムになると、なかなか揃いません。(私は一応、背楽譜通りに歌いましたが😀)指揮者から何度も指摘されたことを覚えています。 

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  既に高校の卒業式は終わっていますが、新聞報道では式において歌唱はとりやめ、CDを流したというところも、結構あったようです。

 これからの小中学校でも、おそらく似たような実施形態になるのではないでしょうか。当事者にとっては、一生に一度のことですから、「こういう状況ではやむを得ない」とはいうものの、本当に残念なことです。

♪ 「祝典行進曲」(團伊玖磨)

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指揮:手塚幸紀
演奏:東京佼成ウィンドオーケストラ

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    日本の作曲家・團伊玖磨が、1959年に皇太子の成婚を祝して作曲した行進曲である。楽曲は吹奏楽編成で書かれている。同年4月10日の結婚の儀の一連の式終了後に行われた馬車による祝賀御列の儀の際に演奏されたと思われることが多いが、実際には当時の音楽隊の技術的問題で演奏されていない。

    戦後日本を代表する行進曲であり、海外の軍楽隊等が日本において演奏会を行う場合には、瀬戸口藤吉の「軍艦行進曲」とともに必ずといって良いほど演奏される。現在は入学式や体育祭、卒業式などに使われることが多い。また、テレビで皇太子明仁夫妻の成婚パレードが映る際にもよくBGMとして流れる(作曲者によれば、パレードで演奏されたとよく誤解されるのはこのためである)。

    1964年の東京オリンピック及び1984年のロサンゼルスオリンピックの開会式、1990年(平成2年)の即位の礼、1992年の天皇訪中の際、中国側の歓迎として晩餐会で、2005年(平成17年)の黒田慶樹紀宮清子内親王との結婚式で演奏された。(Wikipedia

 

    テレビで普通に番組を観ているよりも、YouTubeで音楽、落語、古い邦画、鉄道関連の動画などを観ているほうが長いというのが最近の生活です。
 あなたへの「オススメ」と次々にいろんな動画を紹介してくれている中に、この「祝典行進曲」がありました。
 中学3年生の時、ちょうど大阪で万博が開かれた昭和45年(1970)のこと、田舎中学のブラスバンド(当時は吹奏楽部とは言いませんでした)でも、この曲を夏の定期演奏会で演奏しました。
 1,2年生の間は、行進曲といえば君が代行進曲」「錨を揚げて」「士官候補生」など、以前からあった古い楽譜を使って練習していたものですが、この年、「ナイルの守り」(K. アルフォード)とともにこの曲を練習するようになって、よく分からないうちにも、「曲のレベルが違うな!」(自分たちも少しは上手になったのかな?)と思ったものでした。

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出だしのトランペット。切れのいいタンギングでないと、ぶち壊しですね(笑)
一転して、クラリネットとサックスの第一旋律に(ソ~~ラ~ド~ /シッソラ~ミ~~)つい引き込まれていきます。
全体は、なかなかに手の込んだ構成ですが、何よりも印象的なのは、トリオの部分の木管で演奏される旋律の美しさです。聴いているうちに、各パートの面々の顔と名前が思い出されてきます。

 

 この曲などは、実際の行進の場面で演奏されるよりも、コンサートマーチというのでしょうか、ホールでの演奏を主にした曲だと思います。
 「祝典」ですから、もちろん華やかさと気品は十分に備えているのですが、適度に抑制の利いた部分が、特に木管楽器の受け持つメロディーの部分に見られて、(それがその後も長らく愛される理由の一つかもしれませんが)大変素晴らしい曲です。

 古関裕而さんの東京オリンピックマーチ」と並ぶ、戦後の我が国の行進曲では「双璧」といえる傑作ではないでしょうか。
 後に「新・祝典行進曲」が平成5年(1993)に同じく團伊玖磨さんによって、皇太子徳仁親王今上天皇)と小和田雅子(皇后)さん のご成婚を祝して作曲されていますが、失礼ながら、やはりこの曲には及ばないような気がします。
 今度の東京オリンピック(現時点では、どうなるのか分かりませんが・・・)でも、使ってほしい名曲です。

 

團伊玖磨さんは、あらゆるジャンルに後世に残る作品を多数書いておられます。

童謡のぞうさん」(まど・みちお作詞)といえば、知らない人のない歌でしょう。

合唱をやった者には、「岬の墓」、それに筑後川が忘れられない名曲です。

♪ 「吉本新喜劇 もう一つのオープニングテーマ」

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    毎週木曜日の夜は、布団に入ってからラジコでラジオ大阪噺家の時間」を聴いています。

    木曜の担当は笑福亭鶴二さんと女道楽内海英華さんです。鶴二さんは、ああ見えて(失礼!)なかなか噺のお上手な方で、口八丁手八丁の英華姐さんとの掛け合いの面白さにハマっています。

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 毎回、番組の最後に、英華さんが「思い出の芸人さん」を紹介するコーナーがあるのですが、昨夜は、花紀京さんでした。

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 内容は、昔から関西のお笑いに興味のあった私にとっては、特に目新しいというものではありませんでしたが、その後にかかった吉本新喜劇のオープニングテーマ」が印象的でした。

 というのも、関西人なら誰でも知っている(?)あの『フンワカパッパ』の他にもう一つあるというのです。聴くと、確かに聞き覚えのある軽快なメロディーです。

 調べると、これは『生産性向上のためのBG音楽 工場向け第一集その5』(作曲:山根正義)というのだそうで、とてもコメディーのオープニングテーマとは思えません。

「生産性向上のためのBG音楽 工場向け第一集その5」(作曲:山根正義 演奏:コロムビア・オーケストラ 1962年ごろに日本コロムビアから発売されたアルバム「生産性向上のためのBG音楽 工場向け第一集」収録 1980年代まで)
※放送では、この曲をBGMに、吉本興業所属の漫画家・木川かえるの描くうめだ花月周辺の風景画(人物は蛙によって擬人化されていた)を背景に、出演者とスタッフ名がテロップで流された。
うめだ花月では、この曲が実際の舞台でも緞帳を上げるときに流れていた。 Wikipedia

 初任地が伊丹だったので、「うめだ花月」にも何度か行きましたし、テレビの生中継でも、この音楽を聴いた記憶がよみがえってきました。

 

 ご多分に漏れず、私も昭和40年代の小中学生の頃から、土曜日の昼下がりに放送されている吉本新喜劇を、よく観ていました。

 今でもお顔とお名前が懐かしく思い出されるのは、次のような方々でしょうか。

 花紀京  岡八郎 平参平  原哲男  船場太郎 桑原和男  間寛平等々

 

 さて、関西人なら誰でも知っているという「ホンワカパッパ  ホンワカホンワカ」のほうですが、これも意外でした。

 CMの作曲で知られる「浪速のモーツァルトキダタローさんあたりの作曲かなと思っていたら、元々は「Somebody Stole My Gal」(女を誰かにとられてしまった)という題名の1918年(大正7年)のアメリカの歌だそうです。

吉本新喜劇のオープニング曲として有名になったのは、トロンボーンプレイヤーであるPee Wee Hunt氏のデキシーランドジャズ・スタイルの演奏です。ベニー・グッドマンによるスウィングジャズの名演奏もあります。 https://www.music8.com/products/detail4616.php

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 話は、「もう一つの」ほうに戻りますが、あのコテコテのどぎつい関西風お笑い番組のオープニングテーマが、元は「生産性向上のための・・・」だったなんて・・・。そのギャップにちょっと違和感を覚えたりもします。

 ですが、考えようによれば、上演開始から60年以上にわたり関西人に親しまれているこの番組も、視聴者のストレス解消という意味では間接的に「生産性向上」に寄与しているとは言えないでしょうか!?

 

 今回は、「インダストリアルミュージック」というジャンルがあるのを知りました。

 直訳は「工業音楽」ですが、要するに生産性向上のためのBGMのことです。

 第二次世界大戦中、アメリカは戦備を整えるために、兵器開発の効率運営を追求しました。そのために実践された方法が「インダストリアルミュージック」(工業音楽)でした。工場員の作業能率を上げる目的で、アップテンポな音楽をBGMとして活用したのです。その効果により労働生産性は著しく上昇したといわれています。
 https://sound-design.usen.com/feature/office-bgm/office-bgm127.html

 この手法は戦後日本にも入ってきたそうです。

 1960年頃に松下電器(現パナソニック)でBGMと生産性の関連を研究した方の報告がありました。やはり、一定の効果が得られたそうです。

「BGM で生産性があがる ?というむかしの話」
『日本音 響学会誌 63 巻 7 号 』(2007)
   https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasj/63/7/63_KJ00004621130/_pdf

 今回は、思いがけず、「オープニングテーマ」から「インダストリアルミュージック」へと発展してしまいました。

 ちょっとネタ切れを意識していた最近ですが、「オープニングテーマ」なら、以前に「巨人の星」のそれをとり上げましたが、他にもたくさんありそうです(笑)