思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 「たき火」

www.youtube.com

作詞:巽聖歌 作曲:渡辺茂  昭和16年(1941)

かきねの かきねの まがりかど
たき火だ たき火だ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている


さざんか さざんか さいたみち
たき火だ たき火だ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい


こがらし こがらし さむいみち
たき火だ たき火だ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

巽聖歌(たつみせいか)  (明治38~昭和48年・1905―1973)

童謡詩人、歌人岩手県生まれ。本名野村七蔵。北原白秋に師事して『赤い鳥』に詩、童謡を発表。「水口」は白秋の絶賛を得た。早くから与田凖一(よだじゅんいち)と親交を結び、上京後は、凖一、佐藤義美(よしみ)らと、戦前戦後にかけて童謡の一時代をつくる。戦後は児童詩教育にも力を注ぎ、新美南吉(にいみなんきち)の作品を世に広めることにも努めた。童謡「たきび」は有名で、『巽聖歌作品集』2巻がある。『多磨(たま)』に拠(よ)る歌人でもあった。 日本大百科全書(ニッポニカ) 

  渡辺茂(わたなべ しげる大正元年~平成14年・1912 - 2002)は、日本の童謡の作曲家、教育者。「たきび」「ふしぎなポケット」の作曲で知られる

12月に入っても、25度以上の夏日を観測したところがあったというニュースを聴いたのは十日ほど前だったように思いますが、月の半ば以降はこの時期らしい寒さが続く毎日です。
  介護ベッドで横になっている老母に、昔の童謡・唱歌をダウンロードして聴かせている中に、この歌がありました。
  そいういえば、小学校の低学年の頃、家の隣の田んぼで大人たちが落ち葉や枯れ枝を燃やしているところで、しばらく暖をとってから登校したものでした。
  その頃から、60年ほどが過ぎました。そこにいた上級生の中には、故人や消息不明の人も数名あります。
  冬から春先にかけての風のない天気の良い日には、畦の枯れ草を燃やす農家の人たち(自分もその一人ですが)はよく見かけますが、さすがにたき火にあたって暖を取る様子を見かけることはなくなりました。
  
  この歌は調べてみると、東京の住宅地でのたき火を詠んだものだそうで、法令で規制されていなくても、現代では隣近所から苦情が殺到することでしょう。(その前に消防署が飛んでくるでしょうが・・・・笑(^0^)

 

歌ができた背景は次のように説明されています。

  

【歌詞の誕生は散歩中】
 <「ケヤキ屋敷」はサザンカと茶の木の生け垣だった> 

 ※上の写真と違って当時は屋敷もまばらだったのでしょうか・・・・。

 
 東京都中野区上高田三丁目に鈴木宅があります。千五百坪という広大な敷地に、ケヤキやカシ、ムクなどの屋敷林があり、中でも樹齢三百年を超す六本の大ケヤキが目立つ。戦前からケヤキ屋敷と呼ばれた。
 たくさんの木々が落とす枯れ葉は、かつては畑の肥料として取り置き、一部は焚火にした。それを、聖歌が散歩の途中で見て「たきび」になった。昭和十六年(1941年)三十六歳の時の作品です。
 聖歌は昭和初期、鈴木宅から歩いて十分ほどの、現在の上高田四丁目に住み、この屋敷のわきの農道をよく散歩したそうです。
 (中略)
 現在、この「ケヤキ屋敷」は、生け垣に代わって、一辺の長さが百メートル余りもある竹を組んだ垣根に囲まれている(吉田悦男著『うたの里を行く』(舵社)を参考にしました)。
     (池田小百合 なっとく童謡・唱歌    https://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00sentyu.htm

なお、この歌は戦時中の作だったために、たき火が攻撃目標になることや落ち葉も貴重な資源であることなどから軍部からのクレームを受け、早く放送が打ち切りになってしまったそうですが、戦後の1949年に同じくNHKのラジオ番組『うたのおばさん』で松田トシ安西愛子が歌ったことで全国に広まったということです。

 

贔屓の落語家のひとり、桂雀太さんがいつか自分たちで「上方落語 たき火部」というのをつくってキャンプの中での「たき火」の楽しさを語っていたのを思い出しました。
非日常の雰囲気の中、色々と面白い話題が次々に湧いてくるそうです。

ホントにキャンプかバーベキューでもなければ、直に燃える火を見るなどということもなくなってしまいましたね。