思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 「月の沙漠」

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(加藤まさを画、藤枝市立博物館・文学館)

作詞:加藤まさを  作曲:佐々木すぐる

月の砂漠を はるばると
旅のらくだが 行きました
金と銀との くら置いて
二つならんで 行きました


金のくらには 銀のかめ
銀のくらには 金のかめ
二つのかめは それぞれに
ひもで結んで ありました


先のくらには 王子さま
あとのくらには お姫さま
乗った二人は おそろいの
白い上着を 着てました

 

ひろい砂漠を ひとすじに
二人はどこへ いくのでしょう
おぼろにけぶる 月の夜を
対のらくだで とぼとぼと
砂丘を越えて 行きました
だまって越えて 行きました

 

 

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佐々木 すぐる

(本名:佐々木 英、1892年4月16日 - 1966年1月13日)は、日本の作曲家である。童謡をはじめとする2000曲もの楽曲を作曲し、中でも「月の沙漠」「お山の杉の子」が有名。三男の佐々木行綱は元童謡歌手、声楽家(バス)、音楽評論家、元山形大学教授。
生涯
兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)出身。元は士族であり、父親が郡役所に勤務する家庭に育つ。幼い頃に近所の住人から笛を貸してもらったことで、音楽に興味を抱く。しかし、家庭が貧しかったことから学費のことを考え、音楽学校ではなく姫路師範学校(現在の神戸大学の前身の一つ)へと進学。在学中は生活費を得るためにボイラー技士として働きながら勉学に励む。卒業後しばらく郷里の小学校で教鞭をとるが、後に東京音楽学校に進学し、甲種師範科を卒業。

東京音楽学校卒業後は、浜松師範学校(現在の静岡大学)で教員として働く傍ら「青い鳥」や「じゃんけんぽん」などの童謡を発表する。1922年(大正11年)に師範学校を退職し、上京。作曲家に専念する。1923年には「月の沙漠」を作曲。1924年大正13年)には、自分の作品を掲載した「青い鳥楽譜」を発刊し、昭和初期まで自費で出版する。また、青い鳥児童合唱団を主宰し、精力的に全国を回った。1932年(昭和7年)には日本コロムビアの専属作曲家となる。1930年代には唱歌や「兵隊さんよありがとう」のような愛国歌を数多く発表し、当時の子供たちの間に広く知れ渡った。後に音楽の教科書の編纂を行い、日本作曲家協会理事を務めるなど子供のための音楽や歌曲の普及に貢献した。浦和市立(現さいたま市立)針ヶ谷小学校の校歌が最後の作品であると考えられる(1966年2月27日に校歌制定発表会)。

 

主な作曲作品
月の沙漠
昭和の子供
ひょうたんぽっくりこ(昭和8年、久保田宵二作詞)
兵隊さんよありがとう(橋本善三郎作詞、歌・松原操、飯田ふさ江)
お山の杉の子(1944年、吉田テフ子作詞 / サトウハチロー補作(戦後改作))
赤ちゃんのお耳
日本教職員組合組合歌(Wikipedia

昨夜、以下のような内容のニュースを見て、図書館の開館直後に借りに行ったところ、最寄りの中央図書館は貸し出し中。検索で5キロほど離れた市立の別の図書館にあるとわかり、直行しました。

  米国で最も権威のある文学賞の一つ、全米図書賞が18日夜(日本時間19日朝)発表され、翻訳文学部門に福島県南相馬市在住の作家、柳美里さん(52)の長編小説「JR上野駅公園口」の英語版が選ばれた。

 

1冊だけでは遠くまで来た甲斐がないと、音楽関係の書棚で見つけたのが、長田暁二「心にの頃日本の歌101選」ヤマハミュージックメディア、2007年)という本でした。目次に上がっている曲目を眺めていて、目にとまったのがこの「月の砂漠」でした。
101の歌の殆どは知っている(メロディーが浮かぶ)ものですが、忘れられない思い出と結びつくというのは、ごく限られた曲です。

 

あれは(不確かな記憶ですが)小学校の低学年の頃だと思うのですが、従兄妹が子供会のバス旅行に行くのに、誘ってもらったことがありました。
純農村地帯でありましたが、従兄の住む地区には、我が村にはまだなかった子供会が組織されていたのです。
行き先は、たしか芦屋の奥池遊園地(今は別荘地になっているようですが)だったと思います。
バス旅行と言えば、車中でカラオケ(おちろんその頃はまだありません)がつきもの。
順番がある母子(従兄の家の二軒となり)に回ったとき、そのお母さんが「なくなった○○(男の子の名前でした)の好きだった月の沙漠を歌います」と言ってから、この歌を切々と唄われました。
あとで母親に聞くと、その方は終戦直後、小学校の代用教員をされていたとか。
童謡とはいえ、なかなか難しい歌です。
60年近くが経っても覚えているのは、さきほどの言葉(「なくなった○○(男の子の名前でした)の好きだった月の沙漠」)とやはり上手な歌いぶりが、子供心によほど印象的だったからだと思います。

同じ年頃の子供が亡くなるというのは、他では見聞きしたことがなかっただけに、強く心に刻まれたものと思われます。

 

さて、この歌ですが、題名からしてロマンチックです(上述の本には「エキゾチックなメルヘンの世界」とあります)が、よく考えてみると不思議な歌詞ですね。

長田暁二「心にの頃日本の歌101選」には、この曲の成立事情が次のように書かれていました。

 

エキゾチックなメルヘンの世界

 

加藤まさをは、竹久夢二蕗谷虹児とともに「抒情画三羽がらす」と称されました。大正末期から昭和初期にかけて、少女雑誌で、憂いを含んだ額の美しい少女の絵と、そのそばに添えた数行の詩によって、乙女たちを甘い陶酔に誘った人気画家でした。
夏になると毎年のように、加藤は病気療養のために千葉県外房の御宿海岸を訪れましたが、この詞は立教大学在学中の大正10(1921)年、砂丘の幻想から生まれました。
王子も王女も黙って、一対のラクダさえ足音を立てずひたすら歩くといったエキゾチックな情景を、ズームカメラの望遠で見ているような描写が、メルヘンの世界を浮かび上がらせています。

 

熱心か歌唱指導が実を結ぶ


大正中期から新しい童謡運動に加わった佐々木すぐる(当時31歳)は、この詞を読むなりインスピレーションが沸いて、弱起の美しい東洋的な曲を付けました。自ら謄写版刷りの楽譜を作って持ち歩き、小学校の先生たちの音楽講習会で配っては、どこへ行っても「月の沙漠」を中心に歌唱指導したのです。そのためもあって、関東大震災の直後あたりから次第に知られるようになり、特に少女たちが愛唱した。
昭和44年の7月上旬に、御宿海岸に、ラクダに乗り砂漠を旅するかのような王子と姫の像と、三日月形の記念像が建てられました。(下の写真)

 

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童謡歌手といわれる方を初めとして、多くの歌い手さんの歌唱がYouTubeなどにはアップされていますが、女優としてはもちろん歌手としても大のファンである倍賞千恵子さんのを選びました。

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30数年も前でしょうか、まだ独身時代に大阪のサンケイホールへ倍賞さんのリサイタルを聴きに行ったこともありました。

松竹歌劇団(SKD)で鍛えられた、明るく伸びやかで素直な発声には素晴らしいものがあります。

多くの方々が、国民的な映画「男はつらいよシリーズ」で寅さんの妹「さくら」を演じていらっしゃることはご存じでしょうが、「下町の太陽」に始まり、様々なジャンルの歌を見事に唄いこなしておられることも知ってもらいたいですね。。

♪ 行進曲「大空」

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陸上自衛隊中央音楽隊

 

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例年なら、秋の取り入れの終わったこの11月は、所属する合唱団の発表のステージはありますが、一年で最も気候の面でも気分においても落ち着いた月になります。

還暦前後から、弱小ミリオタになりまして、(もっとも子どもの頃から零戦、戦車、戦艦などのプラモデルは好きでよく作ってはいましたが)自衛隊の公開イベントに行くようになりました。

陸自では駐屯地祭。福知山(普通科連隊)、姫路(特科)、青野ヶ原(高射)、今津(戦車大隊)それに伊丹にある中部方面隊ぐらいでしょうか。
海自では、護衛艦の一般公開で「いせ」(姫路港)「きりしま」(神戸港)の艦内に入ったことがありました。
空自では、小松基地岐阜基地と2回泊まりがけで出かけました。

 

さて、音楽との関連で言いますと、この自衛隊の音楽隊ですが、初めて聴いたのはいつ頃だったでしょうか。
もうすぐ取り壊しになる隣の西脇市の市民会館だと思うのですが・・・。
なにせ、今から50年前に田舎で市民会館のあるところは、昔播州織りで景気の良かった西脇ぐらいでしたから、たぶん間違いないでしょう。
県警音楽隊も中学の頃聴いて憧れてましたね。中学の一年後輩でほんとうに音楽隊に(若い頃ですが)いた人もありました。

 

今回取り上げた陸自の公式(?)行進曲である「大空」(なんで陸やのに「大空」?)は、駐屯地祭の初めに、音楽隊(普通は師団所属の第○音楽隊で20数名でしょうか)この曲を演奏しながら入場してきます。(その後「陸軍分列行進曲」と交互に演奏)

大変、明るく軽やかな曲調で、その点は「陸軍分列行進曲」と全く対照的ですね。
この曲は、陸上自衛隊中央音楽隊初代隊長であった須摩洋朔(明治440年~平成12年・1907~2000年、元陸軍軍楽大尉、元NKH交響楽団)が1951年(昭和26年)に作曲したものです。

昭和30年頃には全日本吹奏楽コンクールの課題曲にもなったとか。

 

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(福知山駐屯地での第3音楽隊)

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(山の中腹にあってロケーション抜群!)

 

自衛隊では、陸海空それぞれに制式または公式行進曲というのがあるようです。

陸自はこの「大空」が制式。海自は言わずと知れたあの行進曲「軍艦」(「儀礼曲」としているサイトもありました)

そして、空自は「空の精鋭」矢部政男、元空自音楽隊のフルート奏者)が公式行進曲となっています。

いま、その作曲年次を比べてみると

「軍艦」 明治33年(1900)

「大空」 昭和26年(1951)

「空の精鋭」 平成6年(1994)

ということで、これは先入観かもしれませんが、曲のスタイル、曲調、あるいは醸し出す雰囲気ともでもいいましょうか、それぞれの時代を反映しているように感じます。

また、それぞれの時代の作曲の流行、作曲技法のレベルもあったことでしょう。

「空の精鋭」は、曲の感じが、昔よくあった全日本吹奏楽コンクールの課題曲のマーチとどことなく似ているなと思っていたら、作曲者の矢部さんは、その前年1993年の課題曲を書いた方でもありました。

3曲を聞き比べての正直な感想ですが、この際、海自の「軍艦」は恐れ多いので言及しませんが、陸自のほうは、どうでしょうか、(この曲の素晴らしさを否定するものではありませんが)ぼちぼち新しいのを・・・と思うのは私だけでしょうか?

陸自の関係者が閲覧されていましたら、ごめんなさい!!

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福知山駐屯地祭では、例年海自の舞鶴音楽隊も観閲行進(もちろん「軍艦」の演奏です)のみですが登場。

地方の駐屯地祭で、陸海の二つの音楽隊を見ることが出来ます!!

♪ 犬童球渓「旅愁」

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作詞: 犬童球渓(1884 - 1943)
作曲: ジョン・オードウェイ(1824 - 1880) 原曲: 「家と母を夢見て」(Dreaming of Home and Mother、1868年)

1.
更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに 一人悩む
恋しや故郷 懐かし父母
夢路にたどるは 故郷(さと)の家路
更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに 一人悩む
2.
窓うつ嵐に 夢も破れ
遥けき彼方に 心迷う
恋しや故郷 懐かし父母
思いに浮かぶは 杜(もり)の梢
窓うつ嵐に 夢も破れ
遥けき彼方に 心迷う

 

朝のラジオで天気予報を聴いていると、11月7日(土)は立冬とか。
たしかに、内陸部の当地では朝方2度とか3度とか冷え込む日もありましたが、農繁期も終わった今日この頃は、7時以前に起きることもなく、そんな冷え込みは実感してはいません。
紅葉のたよりが聞かれるこの時期になると、「更け行く秋の夜~」で始まるこの歌が思い出されます。
長い間、犬童球渓作曲と思っていました。犬童が音楽教師だと知っていたからでした。
ところが、昨年まとめた自費出版『「坊っちゃん」に見る明治の中学校あれこれ』amazonで好評?発売中)の中で、犬童がわが兵庫県下旧制中学初の音楽教師だということを載せたときに、これは作曲ではなく、「訳詞」と知ったのでした。

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二 音楽教師・犬童球渓のこと

 表の中には、「唱歌」(音楽)が週に一時間設定されていますが、これには「法制及経済」とともに、「当分之ヲ欠くコトヲ得」(当分はこの科目を開設しなくてもよい)という但し書きがついていました。
 したがって、男子ばかりで進学指向の強い中学校にあっては、英語、数学などに振り替えられるのが普通で、東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高等学校)のように、明治二十年代から「唱歌」の授業を実施していた学校は希(まれ)でした。
  そんな中、「故郷の廃家」、「旅愁」などの訳詞で知られる犬童球渓(いんどうきゅうけい)(本名・信蔵、明治十二年~昭和十八年・一八七九~一九四三)は 、明治三十八年(一九○五)東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)甲種師範科を卒業後、「兵庫県下中学校初の唱歌科教師」として県立柏原(かいばら)中学校(現在の県立柏原高等学校)に赴任しました。同校同窓会「柏陵会」のホームページでは、その頃の様子を次のように紹介しています。

    当時の校長、平沢金之助が、日露戦争で荒れる生徒の心をやわらげ、情操教育に役立てるため、音楽科を設け、犬童を招いたのだが、生徒たちは「音楽は女子がするもの」として反発。授業中、やじを飛ばし、机をたたくなど、授業を妨害した。犬童は心身ともに疲れ、赴任した年の十二月、辞職願を提出。新潟高等女学校に転任した。
                                
 傷心を抱きながら柏原を去った犬童ですが、次の赴任先となった新潟県立新潟高等女学校で「旅愁」や「故郷の廃家」を作りました。
 犬童にとって、柏原町は失意の赴任地ではありましたが、故郷の熊本県人吉の山河に似た土地に愛着があったのでしょうか、後に依頼されて柏原中学校の校歌を作曲しています。
 この「唱歌」が「音楽」と改称され、一応必修科目となったのは昭和六年(一九三一)のことでした。
『「坊っちゃん」に見る明治の中学校あれこれ』第6章 「学科目あれこれ」より)

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(昨年、この丹波市柏原町に「旅愁」の歌碑が建立されたと、地元の新聞が伝えていました。「旅愁」歌碑 | 丹波新聞

 

旅愁を取り上げたブログをいくつか拝見すると、この柏原での出来事を紹介しているものが2,3ありました。
ただ、どれも西洋音楽排斥運動」といったとらえかた(おそらくコピーでしょうが)となっているのに違和感がありました。
やはり、ここは日露戦争の真っ最中、明治時代の田舎中学(失礼)の生徒気風などを考慮すべきだろうと思います。
「唱歌」(音楽)=軟弱というのが、一般の受け取り方だったのでしょう。

 

犬童は熊本県人吉市に生まれ、東京音楽学校を卒業した。大学卒業後、音楽教師として各地を転々とし、新潟高等女学校に勤務していた期間中に、ジョン・P・オードウェイの『家と母を夢見て』の曲を知り、故郷の熊本県から遠く離れた自分の心情と重ね合わせながら訳詞した。明治40年(1907年)8月に発表された「中等教育唱歌集」において、犬童の訳詞曲として『旅愁』と『故郷の廃家』の2曲が採用された。これはすべて日本国外からの翻訳唱歌を集めた音楽教科書であったが、当時としては画期的な試みのひとつとして各曲にピアノ伴奏楽譜がついていた。当時の翻訳唱歌の大半は「学校唱歌校門を出ず」のレベルにとどまっていたが、犬童球渓の訳詞による『旅愁』はアメリカの曲にも関わらずすっかり“日本の歌”として広く親しまれている。(Wikipedia

国立国会図書館デジタルコレクションで上記の「中等教育唱歌集」を見ると、歌詞が次のようになっていました。

(一)更け行く秋の夜よ、 旅の空の、
わびしき想ひに、 ひとりなやむ。
戀しやふるさと、 なつかし父母、
夢路ゆめぢにたどるは、 故郷の家路。
更け行く秋の夜よ、旅の空の、
わびしき思ひに、ひとりなやむ。


(二)窓うつ嵐に、 夢もやぶれ、
はるけき彼方に、 心運ぶ
戀しやふるさと、 懷かしちゝはゝ、
思ひに浮ぶは、 杜のこずゑ。
窓うつ嵐あらしに、 夢もやぶれ、
はるけき彼方に、 こゝろはこぶ

掲載: 山田源一郎編『中等教育唱歌集』共益商社楽器店、1907年(明治40年)8月
底本: 『中等教育唱歌集』再版

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元の詩にある「心運ぶ」という言い方は聞いたことがありませんね。

言葉のつながりから言うと、たしかに「遥けき彼方に 心迷う」よりも「彼方に」「運ぶ」のほうが理屈は合っているように思いますが・・・・?
著作権というものがあまり意識されていない当時のことですから、文部省のお役人か、ひょっとして楽譜の出版関係者が、勝手に書き換えた可能性はあると思います。

以前、「浜辺の歌」を取り上げたときに作詞の林古渓氏の話の中に、同じようなことがありました。

 

いずれにせよ、遠い異郷(兵庫県柏原、新潟)での犬童の音楽教師としての挫折と失意の経験から生まれた詩であると知ると、名曲の味わいがさらに深まるのではないでしょうか。

何かで読んだのですが、オードウェイの元歌は母国ではすっかり忘れられているとか。

他にもこうした例はあるようですが、 やはり訳詞意訳でしょうが)のすばらしさということになると思います。

 

※「広報ひとよし」2011年12月号に「愛郷詩人 犬童球渓」として特集されていました。

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♪ 古関裕而「長崎の鐘」

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東京混声合唱団(立川澄人)

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長崎の鐘
サトウハチロー作詞・古関裕而作曲     昭和24年(1949)藤山一郎

こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
 うねりの波の 人の世に
 はかなく生きる 野の花よ
 なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
 かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る

 こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る

 

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秋の取り入れも無事終わり、快晴の秋晴れの休日。
刈り取りの終わった田んぼや遠くの山々を眺めながら、ふと思い出したのは「こよなく晴れた青空を」で始まる、この「長崎の鐘という名曲でした。

放映の中断があってから、NHKの朝ドラ「エール」を観なくなってしまいましたが、
現在は、この「長崎の鐘」を書き上げて、話題は栄冠は君に輝くに移っているようです。

 

さて、この長崎の鐘については、このたびの朝ドラでより多くの方々がその歌の存在、素晴らしさを知ったのではないかと思われます。
私は、高校生の頃には知っていて、例のごとく風呂で練習(?)していたんではないかと思います。
たぶん、その頃はテレビで懐メロの番組が定期的にあって、それを観て聞き覚えたのではないのでしょうか。
なにせ、もう50年近くが経っていて、自信ありませんが・・・。

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(絵心のある方でもあったのですね!!)

もちろん、この歌と言えば藤山一郎さんの十八番で間違いないのですが、今回はあえて立川澄人さん(どうも別の人ではないかというコメントもありますが)東京混声の演奏をあげさせてもらいました。
他にもいろんな方がカバーされていますが、はっきり言って演歌系の歌手の方には似合いませんね。(正直言って聴きたくありません)
かといってテノールのMAさんは、ドラマチック過ぎて鼻につくし・・・・(😀)

 

この歌を注意して聴いていると、歌の途中(「なぐさめ はげまし~」)で転調があることに気がつきます。
これは、クラシック系のいわゆる芸術歌曲ではあるのかもしれませんが、こうした大衆音楽に属する歌曲では珍しいのではないでしょうか。

 

もう一つ、気になっていたのは藤山一郎さんが歌うときに、上記三番の後に、さらに転調して四番にあたる部分(「新しき朝の光のさしそむる/あれ野にひびけ長崎の鐘」)を歌っていることです。(カバーしている歌手には歌っていない人もいます)
 

実は、藤山一郎さんが病床の永井隆博士のもとを訪れた時に、博士からこの短歌を贈られて、藤山さんが後にメロディーをつけて歌うようになったというエピソードがあることを最近知りました。
YouTubeの視聴者の中には、オリジナリティーとか著作権とか言って、そのことを云々する向きもあるようですが、私はこの曲を締めくくるにふさわしい旋律だと思っています。

YouTubeでいろんな歌手の歌唱を聴いていて、気になったこと、それは「が」の発音です。

なまじ長らくコーラスをやっていると、こういうことが気になります。
さすがにほとんどの方は、「なさき」「鐘鳴る」の「が」を鼻濁音で歌っていますが、中には少数ですが、若いクラシック系でない歌手の方に、そうではない「が」があって、やはり気になりますね。

 

終わりにもう一つ。

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古関さんの関連の本が、朝ドラ人気から相次いで出版されました。
私は刑部芳則古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』(中公新書、2019年11月)、辻田真佐憲『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』(文春新書、2020年3月)、菊池清麿『評伝 古関裕而』(彩流社、2012年)の3冊を買って読みました。
中でも、菊池さんのは375ページもの力作で読み応えがありました。
この「長崎の鐘」が藤山一郎さんによってレコードの録音がされた当日のエピソードがなかなか興味深いものでした。

吹き込み当日、藤山一郎は、高熱でとても歌える状態ではなかった。スタジオでは関係者が藤山一郎の歌を生で聴けるということでその期待感が溢れており、オーケストラもいつでも演奏できる用意が調っていた。意識が朦朧としながらも藤山一郎は録音マイクの前に立った。
藤山は「長崎の鐘」のようなクラシック歌曲の場合は、声量豊かに澄んだ透明感のある美しい音色で格調と気品をもって歌うが、この時は高熱に耐えながら情感の溢れる悲壮に満ちた歌い方だった。(中略)藤山は、感情移入しながらも声を張らずにファルセットにして切々と歌ったのだ、古関は藤山の絶唱に感動した。スタジオにいる関係者一同も同じだった。当初は再録音するという約束で藤山は吹き込みを了承したが、コロムビアのスタッフはこの悲壮感溢れる藤山一郎の歌唱にすっかり魅了され、そのまま発売した。

 この歌にまつわる話は、その他たくさんあるようで、ここには紹介しきれませんが、50年近く前に、きっかけは忘れましたが、偶然の出会いがあったことに感謝です。

♪ 「広島高師 山男の歌」

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(歌:緑咲香澄)

https://home.hiroshima-u.ac.jp/kyo2/history/yamaotoko_full.mp3

広島大学教育学部音楽科による混声合唱

 

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広島高等師範学校 山岳部第一歌 山男 「廣島高師 山男の歌」

神尾明正 作詞 武山信治 作曲

1. 同じ山への 憧れを 胸に抱きて 行く道は  教への道ぞ 山男 広島高師の 山男

2. 人みな花に 酔ふときも 残雪恋ひて 山に入り  涙を流す 山男 雪解の水に 春を知る

3. 広島の山 低くとも 夏は故郷の 山が待つ  岩をよづれば 山男 無我を悟るは この時ぞ

4. 深山紅葉に 片時雨 テント濡らして 暮れてゆく  心なき身の 山男 もののあわれを 知る頃ぞ

5. 町の乙女ら 想ひつつ 尾根の処女雪 け立てては  シュテンボーゲン 山男 浩然の気は 言ひ難し

6. 同じ教への 道を行き まぶたに浮かぶ 山の道  道は一つぞ 山男 広島高師の 山男 広島高師の 山男

 

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連日のように、ニュースで取り上げられている日本学術会議の問題。
いったい、どんな人たちが会員なのか、中に我が母校の研究者はいるのかと検索してみると、3名の方の名前がありました。
言うまでもなく、東大、京大を初めとする旧帝大の方々が大半を占めていました。
その3人の中に、4年間の学生時代を過ごしたオンボロ下宿昭和50年前後で、2食風呂付きで月額17500円という格安の下宿代!)で、私が4年生の時に1年生だったSSさん(3名だから、イニシャルにしても同じことかもしれません😀)のお名前があってビックリ!!

SSさんとは、学年も離れているし、ほとんど話したことがなく、同じ兵庫県加古川東高の出身であるぐらいしか知りませんでしたが、後になって、これも奇遇ですが、私の高校2,3年時のS校長の息子さんだと分かりました。
その方が40年余り経って、「学者の国会」の一員になられていたのです。

 

今回取り上げるのは、そのオンボロ下宿で聞き覚えた「山男の歌」です。
単に、「山男の歌」で検索すると、ダークダックスが歌った「娘さんよく聞けよ 山男にゃ惚れるなよ・・・」というあの歌が出てきますが、それではありません。
前に「広島高師」が付きます。
ある年代以上の方々には、「芹洋子が昔歌ってヒットした『坊がつる賛歌』と同じメロディーではないか」と気がつかれるはずです。

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それもそのはず、実は「坊がつる賛歌」の元歌は、旧制の広島高等師範学校広島大学の教育・文・理学部の前身校)山岳部の歌だったのです。

たしか2年生の時だったと思います。その当時、下宿の部屋にテレビがある学生はほとんどなく、夕食後のひとときは、ラジオ、読書、洗濯、たまに麻雀(私はルールを覚えるのが面倒で加わりませんでしたが)などと思い思いに過ごしていたものでした。
同じ2階で廊下を隔てた広い部屋(4畳半+3畳)にいた岐阜県出身で教育学部高等学校教員養成課程理科のさんという2年先輩の方が、ギターをかき鳴らしながら、この歌を口ずさんでいました。
私は漏れ聞こえてくるメロディーが気になり、思い切って部屋を訪れ、この歌の曲名と歌詞を教えてもらいました。

3年生の後半になって、研究室(教育学科の教育経営学に所属すると、研究室単位のコンパがありましたが、やはり、その締めくくりはいつもこの歌の斉唱でした。

どうやら、その時代にはまだ旧制の高師、文理大ご出身の先生もおられ、特に教育学部では伝統的な「アイデンティティ・ソング」(こんな用法があるかどうか自信ありませんが・・・)であったようです。

就職した後も、尚志会という文理教育学部同窓会の兵庫県支部や地区の総会、懇親会などで、きまって最後にはこの歌を声高らかに歌ったものでした。

 

時間が前後しますが、広く世間に知られている芹洋子さんの「坊がつる賛歌」は昭和53年(1978)にヒットしましたが、そのとき「あれっ?『山男の歌』と同じだな!」と思い、当時の45回転のレコードを買って聴いたことがありました。

このたび、そのあたりを調べてみると、次のようなことが分かりました。

この歌は,広島高等師範学校の山岳部第一歌として作られたものであるが,その後山岳部のメンバーが多く所属していた広島大学内の理学部植物学教室や教育学部などで歌い継がれてきた.なお,現在唱われている歌詞や楽譜にはいくつか細かい違いがあるものが存在する.また,芹洋子のヒット曲「坊がつる讃歌」は本歌の替え歌であり,広島大学がオリジナルである.広島大学デジタル博物館)

 

『坊がつる讃歌 誕生物語 ~広島高師をめぐる人と人のつながりを追って~ 』という本を出されている山本明正さんのブログからの引用です。(「団塊の世代一代記」https://dankai.akimasa21.net/bougatsuru-sanka/

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広島高師「山男の歌」は、全国から広島に集まった教師志望の学生の間で歌われ、やがて、高師卒業とともに全国の中等学校(旧制)に拡散していきました。
そうしたルートの中から、「坊がつる賛歌」が生まれることになります。
まず、広島高師を卒業(昭和17年卒)した葱花勲(ぎぼう・いさお)が、大分県立日田中学校(旧制中学校)に赴任します。葱花は同校で山岳部顧問になり、広島で覚えた「山男の歌」をみんなに教えました。
そこに梅木秀徳が入学(入部)してきて、今度は梅木が「山男の歌」を覚えました。戦後間もなくの頃で、旧制中学から新制高校に変わっていました。
梅木が覚えた「山男の歌」をベースにして、坊がつる(大分県竹田市)にある山小屋(あせび小屋)で、九州大学の学生3名によって替え歌の「坊がつる賛歌」が作られました。1952年7月(昭和27)のことです。
あせび小屋は九州山小屋の会所有であり、九州大学の学生3名はいずれも同会に所属していました。「坊がつる賛歌」を作った時は3人で小屋番をしており、雨続きで登山客が途切れたため、暇に任せて作った歌の一つが「坊がつる賛歌」だったのです。

 

定年後は同窓会に行くこともなく、この歌を唄う機会もなくなりましたが、ネット万能の時代になって動画サイトなどで聴くことができるようになりました。

ちょっと堅苦しい学歌よりも、我々世代の者には、やはりこの歌に愛着がありますね。

 

今回は、「学術会議」に始まり→SSさん→下宿→辻さん→「山男の歌」と、記憶が記憶を呼んだそんな経験をつづってみました。

♪ 「里の秋」

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「里の秋」
作詞:斉藤信夫 作曲:海沼実      昭和20年(1945)
1
静かな静かな里の秋 お背戸に木の実の落ちる夜は 

ああ母さんとただ二人 栗の実煮てますいろりばた

2
明るい明るい星の空 鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は 

ああ父さんのあの笑顔 栗の実食べては思い出す

3
さよならさよなら椰子の島 お舟にゆられて帰られる 

ああ父さんよ御無事でと 今夜も母さんと祈ります

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あんなに暑かった8月が、ずいぶんと前のことのように思える今日この頃。
暑かった分、稲の成長も早く、今年は我が家史上最速の稲刈りとなりました。
まもなく籾すりも終了して、その後出荷を終えると農閑期に入ります。

今年は3月からコロナで休止している合唱団の活動ですが、昨年は9月から11月にかけて、市内4地区の公民館にでかけて、「うたごえ広場」(敬老会などに出向き、会場の方々と懐メロ・童謡・唱歌などを歌う)を開催しました。
会場の方から必ずリクエストの出るのが、この「里の秋」でした。
季節的なものもあると思いますが、やはり出席者の多くが前期高齢者ということもあって、皆さんそれぞれにこの歌についての思い出があるのだろうなと想像していました。

 

さて、昔から気になっていたのが、3番「さよならさよなら椰子の島 お舟にゆられて帰られる ああ父さんよ」の部分ですが、以下のようなことを知って納得!

この歌は戦地から復員する父親を思って娘(の立場で)が唄う歌なのでした。
歌が出来るまでの経緯は次のようでした。

1945年(昭和20年)12月24日、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。
放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。
1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では出征中の父親を夜空の下で思う様子、3番では父親の無事な復員(ここでの椰子の島、船という言葉から父親は南方軍麾下の部隊にいることが窺える)を願う母子の思いを表現している。

 

「里の秋」と『星月夜』
『星月夜』(ほしづきよ)は、斎藤信夫がまだ国民学校(小学校)の教師をしていた1941年(昭和16年)12月に作られた、1番から4番までの歌詞で、後に童謡の雑誌に掲載された。
太平洋戦争の始まりを報せる臨時ニュースに高揚感を覚え、その思いを書き上げたと言われている。
1,2番は「里の秋」と同じ歌詞だが、続く後半の3,4番は「父さんの活躍を祈ってます。将来ボクも国を護ります」という様な内容で締めくくられている。
早速、童謡にしてもらうため海沼に送ったものの、曲が付けられる事はなかった。
やがて終戦を迎え、海沼は放送局から番組に使う曲を依頼され、要望に合った歌詞を探して見つけたのが「星月夜」だった。
そのままの歌詞では使えないと判断した海沼は、斎藤に東京まで出てくるように電報を打つ。
戦争で戦う様に教えていた事に責任を感じた斎藤は、終戦後、教師を辞めていた。
電報を受けた斎藤はすぐに海沼に会いに行き、「星月夜」の歌詞を書き変える作業を始めたがなかなか進まず、曲名が「里の秋」に変えられたのも放送当日だった。      (Wikipedia

 

「星月夜」という題名からは、ロマンチックな内容を想像してしまいますが、上記の傍線部のようになかなか勇ましい内容だったのですね。

初めに、後期高齢者の方々に、この歌のリクエストが多いと書きましたが、幼いころにラジオから流れていたこの歌を懐かしむ気持ちがあるのではないでしょうか。
また、中にはほんとうに南方の戦地に赴いた父親の帰りを一日千秋の思いで待ち焦がれた人もいらっしゃったことでしょう。

そうした時代背景を知ると、単なるノスタルジーでは済ますことが出来ない一面をもつのがこの歌だと分かります。

なお、今回も歌唱は鮫島有美子さんです。日本歌曲ではこの方の右に出る人はないと、自信をもって言えます!!

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なお、合唱曲としてはYouTubeには平吉毅州(ひらよしたけくに)さん編曲のものがアップされていてそれも良いのですが、わたし的には青島広志さん編曲のものが(ちょっと歌うには難しい編曲ですが)気に入っています。

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♪ 「あざみの歌」

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「あざみの歌」  (昭和24年・1949)
作詞  横井 弘
作曲  八洲秀章 



山には山の 愁いあり
海には海の 悲しみや
まして心の花園に
咲きしあざみの花ならば


高嶺の百合のそれよりも
秘めたる夢を 一筋に
紅燃ゆるその姿
あざみに深き我が想い


いとしき花よ汝はあざみ
心の花よ汝はあざみ
定めの径は果てなくも
香れよせめて我が胸に

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この歌を知ったのは、高校に入ってからだと記憶しています。
歌に興味が向いてきた頃でした。
高1の時の担任が音楽の先生で、しかも声楽がご専門。
長年にわたり、各地の第9合唱団や一般合唱団の指導を務めてこられた坂下功一先生でした。
その頃の授業は、鑑賞か理論か歌唱(独唱、斉唱)が主で、合唱の体験はなんと大学に入るまでありませんでした。
1学期末のテストももちろん独唱で、何の歌か忘れましたが、坂下先生から「藤原よ、おまえ音楽部(コーラス部)に入らへんか?」と誘われたときは、正直うれしかったのを覚えています。※部の登録は新聞部でしたが、幽霊部員!
ただ、当時は女子部員ばかりで、女の園に一人飛び込む勇気のあろうはずもなく、3学期に、中学と同じく吹奏楽部に入ってしまいました。

しかし、まあ不思議なもので、勧誘を断ってから11年後に私は母校に転勤し、その音楽部の顧問吹奏楽は副顧問)を以後9年間務めることになりました。

 

話が横道にそれましたが、この歌にはちょっぴり甘酸っぱい思い出もありまして・・・。
それは、高2の秋の南九州への修学旅行のときのことでした。

たしか、宮崎交通の観光バスだったと思いますが、まだ入社してそれほど経っていないガイドさんが、九州地方の民謡を始め、いろんな歌を唄ってくれた中に、この「あざみの歌」がありました。ハスキーな声の持ち主でした。

私はそれまでに、主に我が家の風呂場でしたが(笑)、この歌をよく練習(?)していたものですから、観光バスの中で次々に歌の指名が回ってきたときに、(ガイドさんが歌ってから少し時間は経過していたでしょうが)、失礼にも、この「あざみの歌」を歌ったのです。

歌い終わったときに、斜め前の席に座っていたC子さん(旧姓が私と同じで、吹奏楽部でクラリネットを吹いていました)が「私、その歌気に入ったわ!」と言ってくれました!!

(可愛い顔に似ず、ストレートな物言いをする人でした)

 

ただ、その後の高校生活の中で、C子さんと何があったわけではありません。同じクラブの部員というだけでした。

大学3年の時でしたが、高2のそのクラスだけのクラス会があり、C子さんが短大を出て栄養士として、県の給食センターに勤めているということがわかりました。
その給食センターが私の住む地区のはずれにあり、そんなこんなで(途中経過は省略ですが)、その後半年あまりお付き合いさせていただいたことがありました。

といっても、中国地方の某大学に行っていた筆者とは、主に文通(懐かしい響きですね!)で、春休みに映画(「青春の門」)を観に行ったり、土曜の午後に喫茶店で逢ったりしたぐらいの仲でした。
下宿のおばさんは、頻繁に来る郵便も差出人が同じ名字なので、「家族からだろう」とあまり気にしていなかったように思います。

(携帯のない時代は、なかなか今の方にはわかってもらえない気苦労がありました(;。;))

 

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(別府から阿蘇に向かう途中「やまなみハイウエイ」を通りましたが、それ以外の所では、道路が未舗装で道がかまぼこのようなところもありましたね。)

 

その後は、同窓会で二三度一緒になったぐらいで、昔話をしたことはありませんでした。

卒業後45年が経過した昨年春の同窓会では、幹事から「藤原君に校歌の指揮を頼む」といわれて、恥ずかしながら20年ぶりぐらいに棒(テーブルの上の菜箸だったか?)を振りました。
あとで、C子さんが「藤原君の指揮は47年ぶりやわ」と声をかけてくれました。

47年前の車中のことが思い出された瞬間でもありました。

 

今回は、40数年前のほろ苦い思い出を長々と書き綴ってしまいました。
肝心の歌の由来などは、次回にしたいと思います。

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 関西汽船の別府航路「むらさき丸」
夜に神戸港を出発、翌朝に別府に到着。阿蘇、宮崎の青島、鹿児島の磯庭園などをめぐり、西鹿児島から夜行列車(座席車)で明石へ帰る四泊五日の行程でした。
その頃、私の母校で伝統的に言われていたのが、修学旅中に急ごしらえのカップルがよくできるということ。

カップルは夜の海を眺めながら語らう→デッキ組
私などそれ以外の者は船室でトランプなどしている→船底組

そんな言葉もついでに思い出されてきました。