思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 「いつくしみ深き」(「星の世界」「星の界」)

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演奏者:東京オペラシンガーズ
ピアノ(伴奏と独奏):岡本佳子
テーマ:「にほんのうた」
讃美歌「いつくしみ深き」編曲:寺嶋陸也
NPO法人 音楽は平和を運ぶ
http://music-peace.jp/index.html

 讃美歌312番 いつくしみ深き

いつくしみふかき ともなるイエス
つみ とが うれいを とりさりたもう
こころのなげきを つつまず のべて
などかは おろさぬ おえる おもにを

 

いつくしみふかき ともなるイエス
われらのよわきを しりて あわれむ
なやみ かなしみに しずめるときも
いのりに こたえて なぐさめたまわん

 

いつくしみふかき ともなるイエス
かわらぬ あいもて みちびきたもう
よの とも われらを すてさるときも
いのりに こたえて いたわりたまわん

 

作詞

 この歌を作詞したのはアイルランド人ジョセフ・スクライヴェン (1819 - 1886) 。スクライヴェンはアイルランドのシーパトリックに生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジを卒業して、25歳の時にカナダに移住し、オンタリオの学校で教鞭を取った。彼は、プリマス・ブレザレン派に属して、一生を不幸な人や貧しい人への奉仕活動に捧げた。1886年にライス・レイクで溺死した。この歌は闘病生活をしていた母親を慰めるため、自らの婚約者を事故、病気で2度も失った絶望の中でもイエスを信頼する気持ちを綴った詩と言われている。
 Hasting, Social Hymns, 1865に匿名で収録されて、その後福音唱歌系の歌集に転載された。その後一般の礼拝用歌集に必ず収録されるようになった。1920年には彼が溺死した場所に記念碑が建てられた。

作曲
作曲者はチャールズ・コンヴァース。この曲は、1910年(明治43年)に文部省唱歌となった「星の界(よ)」杉谷代水作詞)、また「星の世界」川路柳虹作詞)にも用いられている。また、「母君にまさる」その他の題名で母親の情愛を歌った日本語歌詞も複数存在する。

出典:Wikipedia

 これまでにお葬式に参列した回数はいったいどれぐらいになるでしょうか。親戚関係だとなんとか計算できそうですが、40年近い現役生活の中での、同僚の父母、(少数ですが)同僚当人となると、とても計算は無理です。
 親しい間柄の方の場合は、情景の一部をぼんやりと思い出せるものもありますが、まず殆どは忘却の彼方と言ってよいでしょう。
 

 そんな中で唯一、キリスト教式のお葬式に参列したのは、もう20年あまりも前のことだったでしょうか、当時の同僚のK氏のお父さんのご葬儀で、たしか神戸市西区西神中央駅近くの葬儀会館においてでした。
 式の途中、この「いつくしみ深き」を式場の皆で歌うシーンがあり、たぶん歌詞を書いたものを見たのでしょうが、周囲の参列者とともに口ずさんだ思い出があります。
 一般にお葬式というと、大概はわからないお経を延々と聞かされて・・・というのが定番ですが、キリスト教式というのはなにしろ初めてのことでしたので、印象深く今も記憶に残っています。

 

 その後、YouTubeで様々な音楽を楽しむようになって、「いつくしみ深き」という賛美歌の替え歌が、小学校の高学年で習った「星の世界」であることや、古くは「星の界(よ)」という難解な歌詞の曲になっていたことを知りました。

 星の世界

作詞:川路柳虹 作曲:コンヴァース

かがやく夜空の 星の光よ
まばたく数多(あまた)の 遠い世界よ
ふけゆく秋の夜 すみわたる空
のぞめば不思議な 星の世界よ

 

きらめく光は 玉か黄金(こがね)か
宇宙の広さを しみじみ思う
やさしい光に まばたく星座
のぞめば不思議な 星の世界よ

(「 広島大学図書館教科書コレクション画像データベース」より
  https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/text/

   『教科統合中学唱歌 第二巻』(1910年)
(第六)星の界

 杉谷代水

(一)月なきみ空に、  きらめく光、
嗚呼その星影、  希望のすがた。
人智は果(はて)なし、  無窮のをちに、
いざ其星の界(よ)、  きはめも行かん。

(二)雲なきみ空に、  横たふ光、
あゝ洋々たる、  銀河の流れ。
仰ぎて眺むる、  萬里のあなた、
いざ棹させよや、  窮理の船に

 明治の終わり頃の中学校唱歌の教科書に掲載されていますが、「無窮の遠(おち)」(=遙かかなた果てしなく遠いところ)「窮理の船」(=星の世界を探求する船)「いざ棹させよや」(=さあ船を漕ぎ出そう)等々、とても後世の義務教育では扱えないような難解な用語が見られます。
 

 さて、実は私は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」というマニアックな(笑)本を自費出版し、アマゾンでも販売しています。(同名のブログもあります)

 この本を書くために色々調べる中で分かったことですが、当時の中学校で唱歌」(音楽)の授業はごく一部の先進的な学校を除いては実施されていなかったと見てよいと思います。

アマゾンで販売中の拙著!



 というのは、明治32年(1899)に改正された「中学校令」の施行規則において、唱歌という教科は「当分之ヲ欠クコトヲ得」とされていたからです。したがって、随意科目である唱歌を実施しない中学校はごく普通に存在したのでした。(昭和 6年に中学校令施行規則が改正され、教科名も「音楽」と改まり一応必修になりました)

 どうも、あの「むくつけき明治の中学生」が学校で(キリスト教徒は別ですが)「もと賛美歌唱歌」を歌う姿が想像できません。

 

 余談ですが、日露戦争の出征兵士を駅頭で見送るのに、軍歌が歌えないというので女学校から音楽の先生来てもらい、慌てて特訓したというエピソード(上掲拙著中の「コラム 日露戦争と中学生」)があるくらいですから・・・・・・。

 

上記拙著から明治30年代半ば頃の盛岡中学生(現・盛岡一高

 アメイジング・グレイスAmazing Grace)という曲はもちろん知っていましたが、あれも元は賛美歌だったのですね!

 キリスト教と切っても切り離せないなのが西洋音楽の歴史ということはわかっていても、何しろ世界史(西洋史)に疎いもので・・・・(;。;)

 特に近年はカタカナ語、横文字、なかなか覚えられません!

♪ 「ふるさとの四季」 ウクライナのオーケストラと合唱団による演奏

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Shunichiro Genda - Four Seasons in My Hometown.
(Traditional Japanese choral songs)
Academic symphony orchestra "Philharmonia", Chernihiv, Ukraine.
The Chamber Choir "Tsurumi", Osaka, Japan. 
The Chamber Choir named after Dmytro Bortnyansky, Chernihiv, Ukraine.
Mitsunobu Takaya - conductor (Japan)
recording 08.07.2018

高谷光信さん
ウクライナ北部の都市チェルニヒウを拠点とするチェルニヒウ・フィルハーモニー交響楽団常任指揮者(日本国内でも多くのオケ合唱団の指揮をされています)

 コロナ禍のなかのゴールデンウィーク、3年ぶりに全国各地の観光地では、多くの人出でにぎわう様子が毎日ニュースで報じられていますが、所属する合唱団は活動休止から2年と3ヶ月が経過しようとしていますが、再開の見通しは立っていません。
 そんな状況でも、各地でアマチュア合唱団の定期演奏会などが開かれているようですが、なにせ高齢者の多い、「ほぼシルバーコーラス」の我が団では慎重な姿勢をとらざるを得ないようです。
 毎日のようにYouTubeでいろいろなお気に入りの合唱曲などは聴いているのですが、私が定年退職後すぐにこの団に入って初めての定期演奏会で歌ったのが、この源田俊一郎編曲による「ふるさとの四季」でした。
 メドレーの曲順は下記のようになっており、歌う方も聴く方も飽きないような、それぞれの歌の特長を活かしたすばらしいアレンジがなされています。

1    故郷    岡野 貞一
2    春の小川    岡野 貞一
3    朧月夜    岡野 貞一
4    鯉のぼり    文部省唱歌
5    茶摘    文部省唱歌
6    夏は来ぬ    小山 作之助
7    われは海の子    文部省唱歌
8    村祭    文部省唱歌
9    紅葉    岡野 貞一
10    冬景色    文部省唱歌
11    雪    文部省唱歌
12    故郷

 あちこちの合唱団やプロの方々のアンサンブルなどがYouTubeにはアップされていますが、先日偶然に高谷光信さん(高谷氏の指揮による東京混声のコンサートは大阪で3回聴きに行きました)が常任を務められているウクライナのオーケストラと現地の合唱団(前列は大阪の女声コーラス)が演奏されている、今から4年ほど前の動画に出会いました。
 日本語の歌詞を外国人特有の深い響きで歌われているのが印象的ですが、何よりも時節柄貴重な動画ということで、所属しているFacebookのグループ「集まれ合唱!」に冒頭の動画を投稿したところ、すぐに50人近いグループのメンバーから「いいね!」のリアクションやコメントをいただきました。
 

 繰り返し聴いているうちに、早く活動が再開された日には、もう一度この曲が歌いたいなと思い続けている今日この頃です!

 

 今日は「こどもの日」!

 以前は、あちこちで緑の風に吹かれて泳ぐ鯉のぼりが見られたものですが、テレビや新聞などの報道を除けば、私の住む播州の田舎でも、実際に見かけることは少なくなりました。

 そういう自分も、4年前に今年5歳になる孫に買って贈ったのは、マンション暮らし用のミニ鯉のぼりでした。

 住宅事情だけでなく、そもそも田舎では近所にこどもの姿はありません。

 月に一度の「見守り隊」で交差点に立っていますが、小学生の数も年々減ってきて・・・・(;。;)

 

♪ 「ブルーシャトウ」(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)

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 先日、某地方紙の夕刊のコラムで、 ジャッキー吉川とブルー・コメッツの大ヒット作である、この「ブルーシャトウ」のことを取り上げている記事を見て、すぐさま頭の中にメロディーが浮かんできました。
   「シャトウ」が、身分の高い人が暮らす「城」「宮殿」ということなど、何も知らず聴いたり歌ったりしていた、50数年前の田舎の小学生時代のことが次々と思い出されてきました。

「ブルー・シャトウ」橋本淳作詞・井上忠夫作曲    

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

 

森と泉に かこまれて
静かに眠る ブルー ブルー
ブルー シャトウ

 

あなたが僕を 待っている
暗くて淋しい ブルー ブルー
ブルー シャトウ

きっとあなたは 紅(あか)いバラの
バラのかおりが 苦しくて
涙をそっと 流すでしょう

 

夜霧のガウンに 包まれて
静かに眠る ブルー ブルー
ブルー シャトウ ブルー

ブルー ブルー ブルー ブルー
ブルー シャトウ

きっとあなたは 紅いバラの
バラのかおりが 苦しくて
涙をそっと 流すでしょう

夜霧のガウンに 包まれて
静かに眠る ブルー ブルー
ブルー シャトウ ブルー

ブルー ブルー ブルー ブルー
ブルー シャトウ

 

昭和42年(1967)3月15日に発売され、レコード売上150万枚の同グループ最大のヒット曲となり、第9回日本レコード大賞を受賞した。またこの曲は『第18回NHK紅白歌合戦』(1967年)の際の出場曲で、同時にグループとして2回目の出場曲でもある。橋本淳作詞、井上忠夫(後に井上大輔)作曲、森岡賢一郎編曲。(Wikipedia

 

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若い人たちには,右上の「45」の意味はわからないでしょうね(笑)

 昭和39年(1964)の東京オリンピックが終わった後、40年代に入ると、(自分の記憶の中では)グループサウンズの大ブームとムードコーラスグループの流行があったように思います。
 前者で覚えているのは、ヴィレッジシンガーズザ・タイガース、ザ・テンプターズザ・ワイルドワンズなどですが、よく聴いたのは、このジャッキー吉川とブルー・コメッツが一番でしょうか。
 グループサウンズには、若い女性を中心に熱狂的なファンが多かった中で、ジャッキー吉川とブルー・コメッツは、ザ・タイガースと比較するとよくわかりますが、少し大人っぽく、真面目な感じのスーツにネクタイという衣装に歌っている曲の雰囲気もあってでしょうか、もう少し広い世代に好まれていたように思います。

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ザ・タイガースのメンバー、中央が沢田研二

 

 後者では、内山田洋とクール・ファイブ黒沢明ロス・プリモス鶴岡雅義と東京ロマンチカ和田弘とマヒナスターズなどのヒット曲が今でも鮮明に思い出されます。

 

 それまでの謡曲では、歌い手の背後でフルバンドが演奏するという形態が一般的でしたが、グループ・サウンズの登場は、当時小学6年生でしたが、子ども心にかなりインパクトのある出来事でした。
 既にビートルズベンチャーズなどに影響された若者たちは、すぐさまエレキギターの虜(とりこ)になっていましたが、グループサウンズの登場で、さらに範囲が拡大したと思います。
 純農村地帯に育った私ですが、同級生には商店の跡継ぎやサラリーマンの子女も多く、そんな「町の子」の中でちょっと生意気な(?)男の子が一人エレキギターを買ってもらっていました。

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当時のエレキギター



 エレキギターをみせたろうか!?」というので、商店街の一角にある、その子のうちに同級生と行ったこともありましたね。
 ただ、一般には長らく「エレキ=不良」というイメージが、特に田舎ではつきまとっていましたし、その後、中高と吹奏楽部に入ったこともあり、クラッシックには少し親しみましたが、エレキも含めてギターには、とうとう縁がないままでした。

 

 さて、「ブルーシャトウ」ですが、間奏の中で作曲者である井上忠夫(後に井上大輔)さんが、フルートを少し吹いてから歌に入るというのが、斬新でカッコよく見えたものでした。(冒頭の動画では、フルートをバトンのように回しています・笑)
 また、前奏も歌謡曲や演歌に慣れていた少年にとっては、半世紀以上経っても忘れられないメロディーとして耳の奥に残っています。

 

 その頃、よく流行った替え歌「森トンカツ、泉ニンニク~♪」を歌っていた小学生たちも、もう60代後半!多くはジイジ、バアバになってしまいました(;。;)
  

 エレキギターを見せてくれたH君は、地方紙の三面記事で久しぶりに名前を見かけた(たしか覚○剤所持だったかな?)後は消息不明でしたが、40代で亡くなったと風の便りで聞きました。

♪ 合唱曲「群青」

https://www.youtube.com/watch?v=hwWIBwaXkUs

先日、高校の同級生のLINEグループに、「娘の卒業式に出席して感動した」という内容の投稿がありました。
私も遅かったですが、この投稿者A君の場合は、48歳の時の子どもさんということで、もうお孫さんに近く、可愛くてしかたないのでしょうね(笑)

去年の今頃に投稿しましたが、卒業式の歌も時代の流れにつれて変わってきているようです。
「卒業式ソングランキング30」
 https://www.uta-net.com/user/close_up/graduation2014/

この中に、それほど多くはないのですが、合唱曲「群青」があります。

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パナムジカホームページより https://www.panamusica.co.jp/ja/appeal/gunjo/

作詞:福島県南相馬市立小高中学校平成24年度卒業生(構成:小田美樹)
作曲:福島県南相馬市立小高中学校音楽教諭 小田美樹
編曲:信長貴富

 ああ あの町で生まれ
君と出会い
たくさんの思い抱いて
いっしょに時を過ごしたね

 

今 旅立つ日
見える景色は違っても
遠い場所で 君も同じ空
きっと見上げてるはず

 

「またね」と手を振るけど
明日も会えるのかな
遠ざかる君の笑顔 今でも忘れない

 

あの日見た夕陽 あの日見た花火
いつでも君がいたね
あたりまえが 幸せと知った
自転車をこいで 君と行った海
鮮やかな記憶が
目を閉じれば群青に染まる

 

あれから2年の日が
僕らの中を過ぎて
3月の風に吹かれ 君をいまでも思う

 

響け この歌声
響け 遠くまでも
あの空の彼方へも
大切なすべてに届け

 

涙のあとにも 見上げた夜空に
希望が光っているよ
僕らを待つ群青の町で

 

きっとまた会おう
あの町で会おう
僕らの約束は
消えはしない 群青の絆

 

また 会おう 群青の町で・・・

この歌の成り立ちについては、東日本大震災との関連でよく知られてはいますが、念のために・・・。
 

 福島第一原子力発電所から半径20km圏内に位置する福島県南相馬市小高(おだか)区は、東日本大震災による原発事故のため全住民が今なお避難生活を余儀なくされており、小高中学校も市内の別の学校に間借りをして授業を行っています。「群青」は、その小高中学校の生徒たちが、離ればなれになってしまった仲間を思って、つぶやいたり、書き留めた言葉の数々を同校の小田美樹教諭が綴って曲をつけた作品です。
 2013年3月に行われた復興支援コンサート「Harmony for JAPAN 2013」で同校合唱部によって演奏され、 会場に大きな感動を呼び起こしました。その「群青」が、やはりそのコンサートに居合わせて曲に感銘をうけた作曲家・信長貴富氏の編曲を得て 3種の合唱編曲版となりました。子どもたちのこれ以上ない正直な気持ちと、 彼らを一番近くで見守り共に歩んできた小田先生が作り出した音楽が放つ強いメッセージは、私たちの心に深く突き刺さります。
 どうぞ皆さん歌ってください!ご自分の中にある大切な友やふるさとを思いながら…
 そして「群青の子」らがいつの日か「群青の町」で再会する日を願いながら…。
(パナムジカホームページより)

さて、この曲との出会いですが、数年前の9月に隣の市で開かれた混声合唱フェスティバルという、近隣三つの市の混声合唱団の発表会でした。

主催者の代表が40年来のコーラス仲間のSさんということで聴きに行ったのですが、そこで初めてこの曲を知りました。

30代後半から定年までの間は合唱と縁が切れており、この間に結構知られていたはずですが、私には初めてでした。

大変失礼ながら、もう少し大編成で上手な演奏をとYouTubeでさがして色々聴いているうちに、じわじわとこの曲の素晴らしさがわかってきたような気がしました。

 

これを学年の全員で卒業式で歌うとなると、相当な練習が必要です。コロナ禍以前はどこの中学校でも、時間をかけて練習されていたようですが、今や音楽室から歌声が聞こえてこないという異常事態が2年も続いています。私たちのほぼシルバーコーラス(笑)も同様で、練習休止が2年を過ぎました(;。;)
同級生A君が出席した母校では、録音した音源を流していたということですから、きっと全国的にも同じようなことなのでしょう。

 

有本真紀『卒業式の歴史学』(講談社選書メチエ 2013年)によれば、小学校の卒業式が定型化して、式中に君が代」「蛍の光」「仰げば尊しがセットで歌われるようになったのは、明治30年前後(1890年代後半)ということです。それから120年ぐらいは必ず何らかの式歌を歌ってきたわけですが、ここに来て初めて(100年ほど前のスペイン風邪の時のことは不明ですが)「歌わない卒業式」が続いているのですね!!

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※前回の記事からちょうど一月経ってしまいました。別のブログに忙しくというのが言い訳ですが、少しは暖かくなってきているので、折に触れて思い出した楽曲のことを、またとりとめもなく書いてみたいと思います。

 

♪ 「わが里程標」(わがマイルストーン)

 

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1981年(昭和56年)度NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部【優良校】兵庫県立赤穂高校(指揮・赤松秀幸)

「わが里程標(マイルストーン)」片岡輝作詞・平吉毅州(たけくに)作曲

 

時を追いかけ 駆けて行けば 光る街角で出会う まぶしい愛
生きるよろこびを 心にこめて 石に積もう   石に積もう
それは青春の日々の 里程標マイルストーン

 

時に抗(さから)い立ち止まれば 闇の沈黙(しじま)に深まる永遠の謎
生きるのぞみさえ 見失って 悩み惑う
それは それは それは 青春の日々の迷い路(みち)

 

けれどふたたび 陽はのぼり 行く手に並ぶ里程標マイルストーンを照らし出す
それは 先に歩いていった人々の 勇気のあかし
さあ さあ 一歩をふみだして 明日に石を積もう 明日に石を積もう
小さな 小さな 小さな石を積もう

1981年(昭和56年)度のNHK全国学校音楽コンクール高等学校の部の課題曲として、混声四部版・男声四部版・女声三部版が同時に発表された。イ長調の歌いだしに始まり、終盤ヘ長調に転じる。片岡・平吉コンビの曲は3年前の「ひとつの朝」に続く。その後コンクールを離れて広く歌われるようになり、中学生向けに混声三部合唱にも編曲された。(ウィキペディア

 

 どこかの国で冬季オリンピックが始まっているらしいのですが、全く見る気がしなくて、相変わらずYouTube三昧の日々を過ごしています。
 昼食後は鉄道路線前面展望がメインで、九州、四国を経て、今やっと地元兵庫県内を進行中(笑)
 夜は、落語、音楽、市況、たまに農業関連など様々ですが、賢い(?)YouTubeは私の好みを熟知していて、次々と「オススメ」動画を紹介してくれます。
 昨夜偶然に出てきたのが、冒頭の兵庫県立赤穂高等学校が今から41年前にNコンで優良賞(全国3位)を受賞されたときのものです。
 以前に、この動画に感想のコメントを書いていたのをすっかり忘れていましたが、いつだったか、30年余前に音楽部(コーラス部)にいた人(現在は小学校教師の男性)が、それを偶々見つけて、年賀状の添え書きに書いていたことがありました。

 

 Nコンの課題曲が近年どんな風なのかよくは知らないのですが、私が関係していた期間のそれを調べてみると、以下のような曲名があがっていました。

 

第45回    1978年
       ひとつの朝
第46回    1979年
       冬・風蓮湖
第47回    1980年
       走る海
第48回    1981年
       わが里程標(マイルストーン
第49回    1982年
       水のうた
第50回    1983年
       みぞれ
第51回    1984年10月24日
       A    君は夕焼けを見たか
    B  ひとつの朝
    C    男声合唱組曲『月光とピエロ』から「秋のピエロ」
第52回    1985年
       A    青春のノートブック
    B    混声合唱のための組曲『旅』から「行こうふたたび」
       C    男声合唱組曲『柳河風俗詩』から「柳河」
    D    落葉松
第53回    1986年
          A    さようならの季節に
    B    混声合唱組曲筑後川』から「河口」
       C    男声合唱のための組曲『蛙の歌』から「小曲」
    D    海はなかった
第54回    1987年10月25日
    A    巨木のうた
    B    わが里程標(マイルストーン
       C    ともしびを高くかかげて
    D    赤い機関車
第55回    1988年
       A    時代 -飛び立つ鳥は-
    B    冬・風蓮湖
    C    日本のみのり
    D    ねむの花

 「さようならの季節に」兵庫県予選に出場したのは間違いないのですが、翌年に「わが里程標(マイルストーン)」が再び課題曲の一つとなっていますから、この曲でも出場したかもしれません。(資料などの保管がきちんとできていなくて・・・・・)

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毎年Nコンが開催されていた明石市民会館
合唱に最適の音響のように思われました

 「ひとつの朝」わが里程標(マイルストーンもともに、片岡・平吉という素晴らしいコンビで出来上がった曲で、間違いなく後世に残る名曲だと思います。

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平吉毅州(作曲家、神戸市出身、1936-1998))

 さて、冒頭動画の穂高ですが、私などの若い頃は、兵庫県内では「西の赤穂、東の神戸(高校)」と並び称されるほどの合唱の名門校でした。

 指揮をされている赤松秀幸先生は、長らく同校に勤務された後、定年後は市のハーモニーホールの館長をされていましたが、程なくお亡くなりになりました。

 没後に先生を追悼する音楽会も開かれていたようで、その功績の偉大さがしのばれます。

 

 昨日もニュースで、文科大臣が「音楽の授業で合唱は控えるように」と言ったというのを報じていましたが、コロナ禍の2年あまり、高校合唱の現場はどうなっているのでしょうか。

 私たちの「ほぼシルバーコーラス」(笑)もまるまる2年の間休止状態ですが、3年という限られた期間のある高校生にとっては、なんともやりきれないのではと察します。

 

♪ 「通りゃんせ」 歌詞の謎

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通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して くだしゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ

この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ

『通りゃんせ』(とおりゃんせ)は、江戸時代に歌詞が成立したと見られる日本のわらべうた(童謡)。遊び歌として知られ、その遊戯もいう。
作詞者不明、本居長世編・作曲、あるいは、野口雨情作とも伝えられる。(Wikipedia

 先日の日曜日、2年余ぶりに旧友と三宮で会い、昼食を共にしながら、近況を語り合いました。

 駅前の横断歩道で聞こえてきたのは、「ピヨピヨ」という鳥の鳴き声の擬音で、ふと「昔は『通りゃんせ』がよく流れていたがな・・・」と調べてみたら、20年近く前から置き換えられているのだとか。
 「通りゃんせ」といえば、この歌にも歌詞によく意味のわからない部分があります。
ネットで「通りゃんせ」を調べようとすると、後に「意味」とか「怖い」などとくっついてくるので、世間にはやはり同じように思う人がたくさんいらっしゃるのでしょう。

 まず、なぜ門番は「御用のないもの 通しゃせぬ」と言うのでしょうか。
お宮に門番もちょっと気になりますが、何か事故があるか、または相当に混雑でもしていない限りは参詣者に対して、普通はそのようには言わないものでしょうに。
 また、これが一番の謎ですが、「行きはよいよい 帰りはこわい」
なぜ、「帰り(道)は怖い」のでしょうか。

 あれこれとネット検索の結果、「神奈川県小田原市南町の山角天神社、および同市国府津の菅原神社や、埼玉県川越市三芳野神社が舞台であるという説があり、共に発祥の碑がある」ということがわかりました。
 中でも、「埼玉県川越市三芳野神社」説というのに、説得力があるように思います。

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 童歌「とおりゃんせ」は三芳野神社の参道が舞台と言われています。

 川越城内にあったため、一般の人は許可がないと参拝できませんでした。たとえ参拝できたとしても、帰りには所持品を厳しく調べられたといわれており、その様子が歌われていると伝えられています。
 当時の川越は新河岸川の船運で江戸と結ばれていたため、江戸を通じて童歌が広まっていったといわれています。

https://kawagoe-blog.com/miyoshino-temple/#index_id2

 この神社が城内にあって、通行制限があったという点がポイントです。
 写真で見ると、参道もかなり長く、夕方には薄暗くなるように見えます。  
  というわけで、とりあえずは納得できました。

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 ただ、「そんな厳しいところへ参らなくても、他に自由にお参りできるところもあったろうに」などと言われると、反論はできませんが・・・・。

 

※ 「この歌詞の意味に神隠し伝説や人柱、埋蔵金伝説の関連付けをする人は多く」とか「被差別部落への一本道を意味しているとする説があるため、東京では放送できるが大阪では放送できず排除される形となっている」とか色々とあるようですが、興味本位の悪ノリというか、根も葉もな都市伝説と言うべきではないでしょうか。

 

♪ 「My Old Kentucky Home」とバルサモ氏のこと

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(Stephen Collins Foster、1826年7月4日 - 1864年1月13日)

The sun shines bright in the old Kentucky home,
Tis summer, the people* are gay;
The corn-top's ripe and the meadow's in the bloom
While the birds make music all the day.
The young folks roll on the little cabin floor
All merry, all happy and bright;
By'n by hard times comes a knocking at the door
Then my old Kentucky home, Good-night!
Weep no more my lady. Oh! Weep no more today!
We will sing one song for my old Kentucky home
For the old Kentucky home, far away.
* 元の歌詞では「darkies」(黒人への当時の呼称で、現在は差別的とされる)
 

 ケンタッキーの我が家は、1852年に スティーブン・フォスター(Stephen Foster)によって作詞・作曲され、1853年に出版された。1928年3月19日には公式州歌としてケンタッキー州議会により採用される。 州北部の町バーズタウンにあるフォスターの従兄弟で法律家のジョン・ローアンの家が、この「我が家」のモデルといわれる。しかし、フォスターがその時期に彼の家を訪れたという証拠がなく、これを疑問視する声もある。「ケンタッキー」の名称の採用は「故郷の人々(スワニー河)」と同様に語呂の良さで選んだのではないかとする説もある。1852年には、黒人奴隷問題に大きな影響を与えた「アンクル・トムの小屋(Uncle Tom’s Cabin)」が出版されており、作曲の動機になったのではないかとの説も有力である。

Wikipedia

 

 テレビにもYouTubeにも飽きた正月の二日。久しぶりに「レコード鑑賞」と、多くもないLPレコードを探していると、ロジェワーグナ合唱団のフォスター曲集がありました。

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 ふと、思い出したのは、30数年も前のこと。当時の勤務校にALT(外国語指導教員)として来られていたウィリアム・バルサモ氏(William BALSAMO)のことでした。 

 研究者情報のサイトで確認すると以下のような記述があり、当時すでに40代半ばだったでしょうか。

J-GLOBAL ID:200901057796452420  更新日: 2008年02月14日
BALSAMO William
バルサモ ウィリアム| William BALSAMO
所属機関・部署: 旧所属 賢明女子学院短期大学 英語科
職名: 教授
ホームページURL (1件): http://www.geocities.com/yamataro670/Asiahelp.htm
研究分野 (3件): 文学一般  ,  中国文学  ,  宗教学 
  学歴 (5件):
- 1985 ニューヨーク大学大学院 アジア史
- 1985 NEW YORK UNIVERSITY ASIAN HISTORY
- 1965 セントバーナード大学 哲学
- 1965 ST. Bernard's College PHILOSOPHY
ST. John's University Asian Theology

 イタリア系のアメリカ人だという氏は、とてもシャイな感じの方で、物腰の柔らかく、温厚なお人柄から、生徒教師ともに人気がありました。ご先祖はイタリア系の移民で「バルサモ」はマフィアの名前だと、苦笑いをされていました。いずれにしても、田舎の高校にはもったいないような方でした。

 片言の英語で話した中で、氏がニューヨークで教員をしながら、夏休みなど長期の休暇はアルバイトとして歌劇場のコーラスの一員として歌っていたということを聞き、ぜひ文化祭での音楽部の発表時に、一緒に歌ってくれるようお誘いしたのでした。

 楽譜や関係資料がなく、うろ覚えなのですが、たしか、この「ケンタッキーの我が家」を含むメドレー曲で、氏にはソロ部分をお願いをしました。

 練習では、やはりテノールの素晴らしいお声を聴かせてくださり、部員たちにとてもよいお手本になってくださいました。
 ただ、大変残念なことに、久しぶりのステージで緊張されたのか、指揮者の指示がまずかったのか、本番では練習のようには上手くいきませんでした((;。;))

 ステージが終わった後の申し訳なさそうなお顔が忘れられません。

 

 その後彼はALTを辞めて短大にお勤めになり、私も他校へ転勤をしたのですが、その後一度だけバルサモ氏に偶然お会いしたことがありました、

 姫路の駅前にあるメインストリート御幸通りにおいてでした。片言の英語で、私が「結婚して(氏は当時も独身でした)男の子が生まれたばかり、名前を「ナオヤ」という」と言ったつもりが、氏は「ナゴヤ?」と返されました。
 ネットで検索すると2003年頃までに、何冊か本を出されているようです。勤務されていた短大も今はなく、その後どうされたのでしょうか。日本に痕跡を見つけられないということは、母国にお帰りになったのかもしれません。

 40年近くの間に、多くのALTを見てきましたが、忘れられないお一人です。今でも素晴らしいテノールのお声とあの優しい面差しがよみがえってきます。