思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪  「鯉のぼり」(甍の波と~)

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 ゴールデンウィーク間近ではありますが、世間は3度目の緊急事態宣言で、行楽の自粛を余儀なくされ、たまの農作業の他はテレビやスマホ、パソコンに向かうことが多い日々が続いています。
 薫風香る好季節のこの頃になれば、広い村のあちこちに鯉のぼりが風に泳ぐ姿が見られたのもずいぶんと昔になりました。(今年30になる息子が幼い頃はうちでも上げていました)
 近年は近所に子どもの姿は見られず、聞くところでは地元の公立小学校への新入生はたった一人とか。(60年前の私の同級生は10人。さらに上の団塊の世代は20人ぐらいはいたそうです・・・)

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 この時期に思い出す歌と言えば、やはり「鯉のぼり」でしょうか!
 ただ、下のように同じ曲名で三つもあるそうで、最近は3の歌が歌われることが多いようですが、やはり我々世代には2が懐かしいですね。近年では混声合唱組曲「ふるさとの四季」(源田俊一郎)の中で歌いました。
(1については今まで知りませんでした)
1 作詞・東くめ、作曲・瀧廉太郎 『鯉のぼり』
2 作詞者不詳、作曲・弘田龍太郎 『鯉のぼり』1914年(大正3年
3 作詞・近藤宮子、作曲者不詳 『こいのぼり』1931年(昭和6年

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広島大学教科書コレクション画像データベース」より 

上は昭和16年(1941)の教科書


こいのぼり 作詞:不詳/作曲:弘田龍太郎

1

(いらか)の波と 雲の波
重なる波の 中空(なかぞら)
(たちばな)かおる 朝風に
高く泳ぐや 鯉のぼり

2
開ける広き 其の口に
舟をも呑(の)まん 様見えて
ゆたかに振(ふる)う 尾鰭(おひれ)には
物に動ぜぬ姿あり

3
百瀬(ももせ)の滝を 登りなば
(たちま)ち竜に なりぬべき
わが身に似よや 男子(おのこご)
空に躍るや 鯉のぼり
1913年(大正2年)に刊行された『尋常小学唱歌 第五学年用』が初出

  小学校5年生ぐらいに習ったでしょうか、1番の歌詞が印象深いのです。
 というのも、 「橘(たちばな)かおる 朝風に」というところを、休み時間に替え歌風に「森本(もりも~と)馨(か~お~る)」(同級生の男子の名前)と友達が歌っていたことが思い出されてくるからです。
 彼は家業の石屋さんを継いでおり、我が家のお墓でもお世話になりました。

 

 ちなみに、3の歌詞は鯉が滝を上って竜になる中国の伝説「登竜門」が元になっているといわれ、男の子が「こいのぼりのように雄大な姿に成長するように」という立身出世の願いが込められているということです。
 「登りなば」とか「なりぬべき」という文語調の歌詞から、戦後は歌われなくなったのではないしょうか。
 この歌を思い出すと、いつもこの部分のメロディー(ラララーソ ファラソファミ)と森本君のふっくらとした優しい顔つきが脳裏に浮かんできます。

 

 実は私の住んでいる加東市のうち、旧東条町域の一部では鯉のぼり作りやひな人形作りが今も行われているのです。

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加東市の鯉のぼりは「播州鯉」とよばれ、写実的で格調高く品質のよさが高い評価を得ています。明治30年頃から東条地域で始まりました。ひな人形とともに節句を祝う品としてこの地で定着しています。(加東市観光協会ホームページ)

  初めての孫(男の子・葵)の生まれたときに鯉のぼりをプレゼントしましたが、マンション住まいのために、ミニチュアのようなのをネットで探して送りました。

 本格的な鯉のぼりを買って上げられる家も少なくなってきています。

♪ 「ハイケンスのセレナーデ」

https://www.youtube.com/watch?v=8cXqwAJLQOo

(ウィーン管弦楽団)

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    今年に入ってから、昼食後の寛ぎの時間は、「家鉄」として全国各路線の前面展望動画を地図帳を片手に視聴しています。
 四国は一周して、今は九州は佐賀県筑肥線)あたり。
 あるとき、オススメ動画に上がってきたのは、今はほとんど絶滅した夜行寝台列車でした。
 かつての国鉄時代に、「銀河」(大阪ー東京)、「筑摩」(大阪ー長野)、「なは」(姫路ー西鹿児島)に乗ったことがありました。

ふと、思い出したのは車内放送のチャイムに使われているハイケンスのセレナーデの旋律でした。

 【車内放送】寝台特急はやぶさ(24系 ハイケンスのセレナーデ 東京発車前) - Bing video

 スマホの着信音はこれまではデフォルトの中から「発車メロディー」にしていましたが、昨夜少し手こずりながらも、この「ハイケンス」に変更したところです(笑)
 作曲家のハイケンスについては、下のような説明がありましたが、なぜチャイムに採用されたのかは不明です。

ジョニー・ハイケンス(Jonny Heykens, ヨハネス・ヤコブス・ハイケンス オランダ語: Johannes Jacobus Heijkens, 1884年9月24日 フローニンゲン - 1945年6月28日 ヒルフェルスム)は、オランダの作曲家。

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人物・来歴
ベルギーに留学し、ブリュッセル音楽院でウジェーヌ・イザイにヴァイオリンを学ぶ。その後、自ら楽団を設立し、指揮者としてヨーロッパ中で活躍した。
ハイケンスは、ナチスの忠実な支持者であった。新聞紙上などでアドルフ・ヒトラーを賞賛し、ユダヤ人や黒人に対する人種差別的な見解を表明していた。ハイケンスは、第二次世界大戦終結後までドイツで演奏家として活躍していたが、戦争末期にオランダに帰国後、連合軍にナチス・ドイツに対する協力的な姿勢を問われて、ヒルフェルスムの監獄に収監され、間もなくして獄中にて死去した[2]。60歳没。
以降、オランダにおいて、ハイケンスの名は重要な音楽家とは見なされることなく、忘れ去られた。
ハイケンスは「ハイケンスのセレナーデ」(Ständchen, Op.21-1)の作曲者として知られる。ハイケンスは他にも多くの楽曲を作曲したが、戦争などでほとんどの作品は消失し、現在ではハイケンスのセレナーデ以外は全くと言ってよいほど知られていない。
日本において、この曲は1943年に日本放送協会のラジオ番組『前線へ送る夕』(ぜんせんへおくるゆうべ)のテーマ曲として採用されたことで一般に知られるようになり、戦後は旧日本国有鉄道国鉄)の客車の車内放送用チャイムに第一主題の旋律の末尾部分が採用された。現在でもJR各社の客車やその譲渡車、JR北海道の特急列車、高速乗合バスJAMJAMライナーの新日本観光自動車運行便などに搭載・使用されている。(Wikipedia)

 太平洋戦争たけなわの頃に、連合国側のオランダ人の作った「敵性音楽」をNHKが流していたというのは、違和感がありますが、上記のように「ナチスの忠実な支持者であった」ということから、大目に見てもらっていたのでしょうか!? 

 

 いつ頃からか、あちこちの駅で発車メロディーを競うかのように設定するようになりました。

 関西では大阪環状線がよく知られています。贔屓の落語家の桂雀三郎さんのヨーデル食べ放題が鶴橋駅で使われているのを、ご本人がマクラでよく話していますね。

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 鉄ちゃんにも、ホントに色々なタイプがありまして、よく知らないのですがひょっとして「発車メロディー」あるいは「社内放送」専門の人もあるのでしょうね。
 私の場合は、家鉄、またはYouTube鉄とでも言うんでしょうか。

 なかなか、気ままに列車旅というような状況ではなく、日に日にコロナ陽性者が増えてきています((;。;))

 まだまだ「家鉄」が続きそうな予感。

♪ 「東京ラプソディー」(藤山一郎)

https://www.youtube.com/watch?v=mfB_UAwcXhA

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「東京ラプソディ」
門田ゆたか作詞・古賀政男作曲/昭和11年
1.
花咲き花散る宵も
銀座の柳の下で
待つは君ひとり 君ひとり
逢えば行く ティールーム
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

2.
現(うつ)つに夢見る君の
神田は想い出の街
いまもこの胸に この胸に
ニコライの かねも鳴る
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

3.
明けても暮れても歌う
ジャズの浅草行けば
恋の踊り子の 踊り子の
ほくろさえ 忘られぬ
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

4.
夜更けにひととき寄せて
なまめく新宿駅
あのこはダンサーか ダンサーか
気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

5.
花咲く都に住んで
変わらぬ誓いを交わす
変わる東京の 屋根の下
咲く花も 赤い薔薇
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

 

 

 平日の昼食時には、毎日のようにラジオでNHKのニュースの後、「昼のいこい」を聴いています。
 先日、藤山一郎さんの「東京ラプソディ」がかかっていました。
 ふと思い出したのは、4年前に所属する混声合唱団(コロナ禍で一年あまり活動を休止中)の定期演奏会でこの曲を歌ったことでした。
 改めて、歌詞を見ると1番2番は何と言うこともないのですが、3番では「恋の踊り子の」という文句がちょっと気になります。
 そして、一番気になるのが4番です。
 「夜更けにひととき寄せて なまめく新宿駅の~」という一節。
 「ひととき寄せる?」何を寄せるのでしょうか?
 「なまめく新宿駅?」
 その昔、地下鉄ネタで知られた東京漫才の三球照代さんのセリフではありませんが、考えれば考えるほど夜も寝られない(笑)

 こういう用語に意味的な飛躍がある(?)独特の歌詞は、あの西条八十さんかなと思って調べると、違っていましたが、作詞の角田さんは、西条さんの直弟子でした。
やっぱり、師の薫陶の成果でしょうか?

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門田 ゆたか(かどたゆたか、1907年(明治40年)1月6日-1975年(昭和50年)6月25日)は昭和期の作詞家。本名門田穣。
経歴
福島県信夫郡福島町(現・福島市)出身。早稲田大学文学部仏蘭西文学科中退。
西條八十に師事、後に作詞家となり、1933年(昭和8年)、ビクターレコードより「東京祭」でデビュー。 1936年(昭和11年)、藤山一郎の「東京ラプソディ」が大ヒット。 その他の代表作には、灰田勝彦・大谷冽子「ジャバのマンゴ売り」、岡晴夫「東京の花売娘」(佐々詩生名義)、藤山一郎「ニコライの鐘」、美空ひばり「私のボーイフレンド」、「ひばりが唄えば」、コロムビア・ローズ「プリンセス・ワルツ」、「ロマンスガイド」などを作詞。
ハワイアンを多数作詞したことでも有名で、「小さな竹の橋で」、「月の夜は」、「林檎の木の下で」などを作詞。(Wikipedia

  yahoo知恵袋では1件質問がありましたが、回答も1件であまりに馬鹿馬鹿しいので転載はやめておきます。

はてなブログ 日本百名曲20世紀編」(https://songs20thcentury.hateblo.jp/entry/2016/03/26/011049)にあった次のような解釈が無難なところでしょうか。

「夜ふけにひと時寄せて なまめく新宿駅

深夜にちょっと立ち寄った 夜の顔を見せる新宿駅
今も昔も新宿の夜はなまめかしい。

 【参考】なま‐め・く【▽艶めく】 の解説
[動カ五(四)]《「なま」は未熟の意》
1 異性の心を誘うような色っぽさが感じられる。また、あだっぽいふるまいをする。「―・いたしぐさ」
「このくるまを女車とみて、寄り来てとかく―・くあひだに」〈伊勢・三九〉
2 若々しく美しく見える。清新である。
「その里に、いと―・いたる女はらから住みけり」〈伊勢・一〉
3 しっとりとして、品がある。優美である。
「高麗 (こま) の紙の…色などは華やかならで―・きたるに」〈源・梅枝〉
4 物や情景などが、美しく趣がある。風流である。
「秋の野のいと―・きたるなど見給ひて」〈源・賢木〉
出典:デジタル大辞泉小学館

 

 歌詞もさることながら、昭和11年(1936)といえば、あの二二六事件のあった年で、殺伐とした世相からいうと、こういう明るい歌が大ヒットしたのが、ちょっと不思議ですね。

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♪ 滝廉太郎「花」

組歌《四季》より 花 - YouTube

組歌《四季》より 花 · 藤原伊央里・紀野洋孝

組曲」ではなく、「組歌」というのを初めて知りました。

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現在の墨田河畔

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「写真の中の明治・大正」より「墨堤花見之図」!?

服装から時代を判別する知識はありませんが、4月上旬(?)にしては厚手の着物の人が多いように思います。3月末に満開で、昼間は20度を上回る、温暖化の現在よりもやはり気温は低かったのでしょうか。

 

作詞:武島羽衣 作曲:瀧廉太郎

春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂(かい)のしずくも 花と散る
ながめを何に たとうべき


見ずやあけぼの 露あびて
われにもの言う 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく青柳を


錦おりなす 長堤に
暮るればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとうべき
※1900年(明治33年)同年11月1日歌曲集(組歌)『四季』の第1曲

 

 

 先日購入した半藤一利『歴史探偵 忘れ残りの記』(文春新書)を読んでいたら、「春はうららかにあらず」という項があり、その中に「昔、田辺聖子さんから『花』の歌詞のもとが『源氏物語』胡蝶の巻にあると聞いて、それが『六条院の宴』にあるのを見つけた」という下りがありました。

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 この件に関する分かりやすいコラムを、同志社女子大学のホームページで見つけました。

「花」と『源氏物語
吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

 滝廉太郎作曲の「花」ができたのは明治33年のことでした。作詞は、日本女子大学教授で歌人武島羽衣(はごろも)が担当しています。その一番の歌詞は、

    春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が
    櫂のしづくも花と散る ながめを何にたとふべき

となっています。のどかな隅田川の春の光景が、七五調で見事に描写されていますね。「うらら」は「うららか」でしょう。(中略)

 それだけではありません。実はこの歌詞には、どうやら『源氏物語』胡蝶巻が踏まえられているようなのです。胡蝶巻というのは、光源氏が築いた六条院の春の御殿が舞台となっています。その女主人である紫の上が龍頭鷁首(げきしゅ)の船を池に浮かべて船楽を催し、そこに秋好中宮付きの女房を招待し、春のすばらしさをこれでもかと見せつける趣向になっています。見物にやってきた女房達はただもううっとりとして、本来はライバルであるはずの春の御殿を讃える和歌を詠じてしまいます(春秋優劣論としては秋の敗北を意味します)。その最後の歌こそが、

    春の日のうららにさしていく船は棹の   しづくも花ぞ散りける

でした。いかがですか。一見しただけで、「花」の一番の歌詞と類似していることがわかりますね。
(中略)
 ただし「棹のしづく」が「櫂のしづく」に変っています。もちろん「棹」より「櫂」の方が、「花のように散るしずく」がたくさん散るはずです。というより『源氏物語』では、「さす」に「日射す」と「棹指す」が掛けられているので、どうしても技法的に「棹」でなければならないのです。
 あるいは「のぼりくだりの舟」そのものが、「櫂」を用いる西洋的なボートをイメージしているのかもしれません。もしこれがボートレース(早慶レガッタ)の光景だとすると、従来想像されていた古風なイメージは、それこそ幻想だったことになります。さて、いかがでしょうか。

https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2015-03-13-09-00

 

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 引用したコラムにもありますが、これまでは、いくつかの参考文献やネット上の記事から、作詞の武島羽衣氏が隅田川で繰り広げられるボートレースを観て書いたものかなと思い込んでいましたが、必ずしもそうではないようですね。
 下のように宮内省御歌所寄人も務めた」著名な歌人だったのですから、「源氏」のこの場面もよくご存知だったことでしょう❗️

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武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月2日[1][2][註 1](1872年12月2日) - 昭和42年(1967年)2月3日)は、日本の国文学者、歌人、作詞家、日本女子大学名誉教授。宮内省御歌所寄人も務めた。本名は武島 又次郎。瀧廉太郎の歌曲「花」の作詞者として知られる。(Wikipedia

 

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 墨田河畔には遠く及びませんが、昨日近くにある千鳥川桜堤公園に初めて行ってきました。山の桜もいいでしょうが、清流に沿って咲いている桜は格別ですね。遠くに源平古戦場の三草山も見えていました。

♪ 「東京五輪音頭」(三波春夫)

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作詞:宮田 隆
作曲:古賀政男
歌:三波春夫

ハアー
あの日ローマで ながめた月が (ソレ トトントネ)
今日は都の空 照らす (ア チョイトネ)
四年たったら また会いましょと かたい約束 夢じゃない
ヨイショ コーリャ 夢じゃない
オリンピックの 顔と顔
ソレトトント トトント 顔と顔

 

ハアー 待ちに待ってた 世界の祭り (ソレ トトントネ)
西の国から 東から (ア チョイトネ)
北の空から 南の海も こえて日本へ どんときた
ヨイショ コーリャ どんときた
オリンピックの 晴れ姿
ソレトトント トトント 晴れ姿

 

ハアー 色もうれしや かぞえりゃ五つ (ソレ トトントネ)
仰ぐ旗みりゃ はずむ胸 (ア チョイトネ)
すがた形は ちがっていても いずれおとらぬ 若い花
ヨイショ コーリャ 若い花
オリンピックの 庭に咲く
ソレトトント トトント 庭に咲く

 

ハアー きみがはやせば わたしはおどる (ソレ トトントネ)
菊の香りの 秋の空 (ア チョイトネ)
羽をそろえて 拍手の音に とんでくるくる 赤とんぼ
ヨイショ コーリャ 赤とんぼ
オリンピックの きょうのうた
ソレトトント トトント きょうのうた

 

  一昨日から、オリンピックの聖火リレーが始まりましたが、開会まで4ヶ月を切っても、依然不透明な部分も多く、国民的な機運の盛り上がりにはほど遠いように感じます。
 57年前のときは、小学校3年生でした。10月の農繁期の最中、農家でもマラソンの中継などは農作業を休んで、小さな白黒テレビを皆で観ていた、そんな記憶があります。
 また、開会のずいぶん前から、テレビやラジオを通して、この東京五輪音頭」がさかんに流れてきたものでした。

 いわゆる高度経済成長期にあたり、東海道新幹線の開通も、たしかオリンピックの直前だったと思いますが、まさに”イケイケドンドン”の時代でした。

 

贔屓の落語家・瀧川鯉昇さん定番のマクラに、こういうのがあります。

「昨日の晩何食べたかは覚えていないのに、何十年も前の子どもの頃のことはよく覚えている」という語り出し。

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  瀧川鯉昇 昭和27年・1952、静岡県浜松市生まれ)

 前の東京オリンピックの時は小学6年生でした。当時、航空自衛隊浜松基地に所属していたブルーインパルスの部隊が何ヶ月も前から、浜松市の上空で開会式当日に上空で五輪を描く訓練を重ねていました。
 

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 山下少年(本名・山下秀雄)たちは、そうした事情を知らないまま、日を重ねる毎に五つの輪の完成度が高まるのを「すごいな!俺たちも大きくなったらやってみたいな!」と言いながら空を見上げていました。
 そんなことで、その頃の自分たちは、将来の夢を聞かれると、きまって「編隊(変態)となって飛行(非行)に走る」と言っていましたが、後に友達の何人かは望みが叶って、刑務所に入りました。

 

 さて、三波春夫さんの、この東京五輪音頭」なのですが、意外にも多くの歌手が歌っていました。(Wikipediaで知りました)

藤山一郎橋幸夫三橋美智也坂本九北島三郎畠山みどり大木伸夫・司富子、つくば兄弟・神楽坂浮子菅原洋一、初音家賢次
失礼ながら、初めて見るお名前の方も何人かありますね。

 歌詞の特徴や音頭という性格上、この歌はやはり、民謡系か浪曲系の方には似合っていても、洋楽、クラシック系の歌い手さんには向かないかも知れませんね。

 リアルタイムにこの歌を聞いていた、現在60以上の世代でも、三波さん以外の方が歌っていたのを知っているという人はあまりいないのではないでしょうか。

 「ハアー」という明るく張りのある美声の歌い出し。これ一つとっても、他の方には真似できないことでしょう。


 「国民的歌手」という言葉がありますが、私など、まず頭に浮かぶのは三波さんと藤山一郎さんですね。
 中でも、三波さんは昭和39年(1964)の東京オリンピックに続き、昭和45年(1970)の大阪万博でも「世界の国からこんにちは」(作詞:島田陽子、作曲:中村八大)を歌われています。
 戦後の国家的規模な二大イベントのテーマソングを、(競作ではありますが、実質は独占状態)見事に歌い上げられたという意味でも、「国民的歌手」と呼ぶのに最適の方だと思います。

    ネット検索をしていて、東京五輪音頭2020」東京2020大会開催されることを機に、パラリンピックの要素を付加し、歌詞と振り付けをリメイク)というのがあるのを知りました。

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 竹原ピストル 石川さゆり 加山雄三 

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踊りの振り付けビデオがいくつもYouTubeには投稿されていますが、今の状況では広めるのは難しいでしょうね(;。;)

♪ 『陽は舞いおどる甲子園』(旧・選抜高等学校野球大会歌)

選抜高校野球 旧大会歌 「陽は舞い踊る甲子園」 - YouTube

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 一昨日の3月19日(金)から、「春のセンバツ選抜高等学校野球大会)が始まりました。
 今年は、同じ東播磨地区から公立高校が21世紀枠で出場しているので、テレビ観戦を楽しみにしていましたが、生憎の雨で明日に順延となりました。
 小学生のころから、何度か訪れた甲子園今年30になる息子が小学生の時に連れて行った記憶がありますが、それ以後は長らくご無沙汰。
 久しぶりに訪れた8年前の夏は、生徒引率の出張でした。
2020-07-21
♪ 「栄冠は君に輝く」(古関裕而
♪ 「栄冠は君に輝く」(古関裕而) - 思い出の中のあの歌この曲 (hatenadiary.com)

 

 昨晩、テレビやネットニュースで、選抜の記事を見ていて思い出したのが、この「大会歌」のことでした。

 今は、第65回大会(1993年)からの3代目大会歌として、作詞・阿久悠、作曲・谷村新司「今ありて」という曲が演奏されています。もちろん、これも素晴らしい曲なのですが、我々世代には旧・大会歌(正式には一つ前の2代目大会歌)のメロディーが忘れられません。
 この2代目は、勇ましい感じのメロディー(作曲者は陸軍軍楽隊員ですから!)で印象に強く残っているのですが、歌詞の方はと言うと、初めの方しか思い出せません。
 このたびWikipediaなどで調べてみると、結構難解な用語になっています。(作詞が薄田泣菫と知って納得!)
 これでは覚えられないのも無理もありませんし、時代にそぐわないと言われても仕方はなかったでしょう。
 そうは言っても、やはり子どもの頃にしみこんだ歌の記憶には、やはり根強いものがありますね。

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※「ララララ」の終わり方が,この時代にしては洒落た感じになってます。

1、
陽は舞いおどる 甲子園
若人よ 雄々しかれ
長棍痛打(ちょうこんつうだ)して 熱球カッととぶところ
燃えよ血潮は 火のごとく
ラ大毎(後に毎日) ラ大会 ラララララ

2、
戦塵あがる 春なかば
選士らよ 雄々しかれ
輝く王冠の 誉(ほまれ)に酔うは何人(なにびと)ぞ
あげよ凱歌を 波のごと
ラ大毎 ラ大会 ラララララ

 

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薄田泣菫

 昭和9年(1934)に制定された「選抜中等学校野球大会」(現在の選抜高等学校野球大会)の2代目大会歌である。「陽は舞いおどる甲子園」は通称であり、正式には「全国選抜中等学校野球大会歌」(後に「選抜高等学校野球大会歌」)と呼ばれる(初代大会歌も同様である)

 作詞は主催者・大阪毎日新聞社学芸部部長で詩人の薄田泣菫、作曲は陸軍戸山学校軍楽隊。なお、この頃から軍楽隊や東京音楽学校の人物による作品については作曲者の名前は伏せられるようになった

 この曲は全国高等学校野球選手権大会栄冠は君に輝くとは対照的に忘れられた存在となってしまった。
また歌詞の中に「選士」など軍国主義時代を彷彿とさせる時代にそぐわない言葉がある他、「毎日」と入っている関係上NHKテレビの開会式中継でも歌詞の字幕スーパーが表示されないなど、それらも世間にほとんど浸透しなかった一因となってしまい1992年(平成4年)の第64回大会限りで姿を消した。(Wikipedia

  

 ここからは話がそれますが、春夏の甲子園の野球というのは、戦前の「中等学校野球の振興」という大義名分がたしかにあったものの、元々は夏の朝日春の毎日という両新聞社(どちらも大嫌いですが・笑)の販売戦略の一環という面もあったようです。

 私のブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」では、以下の記事で少しふれています。

2019-02-25
コラム6 「校友会の運動部活動」
https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/02/25/105842
 運動部の活動は、そうした社会の風潮を背景に発展していったわけですが、反面で過熱化にともなう弊害も指摘されるようになっていきます。「選手制度の弊害」、「勝利至上主義」、「過剰な学校対抗意識」などといった言葉で表されるものでした。

 中でも、東京朝日新聞は「野球害毒論」の論陣を張り、執拗に野球批判を行いました。さすがに当局も看過できず、北海道では明治四十三年(一九一○)年、庁立の中等学校野球の対外試合が禁止されてしまいました。それは十年近く続いたということです。
 ところが、皮肉なことに、大正四年(一九一五)に、今度は大阪朝日新聞が主催して「健全な教育活動の一環としての中等学校野球の確立」を目指して、夏の甲子園大会(全国中等学校優勝野球大会)を始めています。どうも、このあたりは、背後に「大人の事情」とでも言うべきものがあったのではと思われて仕方ありません。

  実際、大正から昭和の初め頃にかけて、「大阪朝日」と「大阪毎日」は、中等学校野球を初めとするスポーツイベントを通じて、購読者の増加を図ろうという経営戦略を積極的に展開していたと言われています。(西原茂樹「東京・大阪両都市の新聞社による野球(スポーツ)イベントの展開過程―1910~1925年を中心に―」)

 

♪ 「村の少女」(国民歌謡)

 

www.youtube.com

 

 陽気に誘われて、土木係としての受け持ち区域の見廻り旁々、30分ほどの散歩途中に、付近の藪や雑木林の中から、鶯の鳴き声が聞こえてきました。
 ふと思い出したのは、昔よく車の中で聴いていた鮫島有美子さんのCDにあった歌で、歌詞に「藪の鶯鳴きそめぬ」という文句がありました。
 

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 帰宅後に曲名を探しあてるのに手間取りました。「山の乙女」?「村の乙女」?それらしい曲はありましたが、どうも違います。
 曲の雰囲気から、ひょっとして戦前の「国民歌謡」?と思い、Wikipediaの一覧から、この「村の乙女」(喜志邦三作詞 /富永三郎作曲)を見つけました。
 昭和12年(1937)5月20日に放送され、ソプラノ歌手の関種子さんが歌っていました。

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「村の少女(おとめ)」
喜志邦三:作詞 富永三郎:作曲

 

1 
囲炉裏を閉ぢて 早や七日 藪のうぐひす 鳴き初めぬ  納屋の南の 

荒壁に もたれて見れば 麦青し

2
都の紅き ともしびの 便り恋しき 春なれど われは少女(おとめ)の 夢捨てて さびしく咲ける 山椿

3
錦の衣はまとはねど 父と母との ふるさとの 村に埋もるる うれしさを 雪どけ水よ 歌へかし

 

『国民歌謡』は、戦前の1936年から1941年の期間、月曜から土曜の午後0時35分から5分間、新しく作った曲を1週間連続して流した、日本のラジオ番組である。今日のヘビーローテーションに当たる。
1941年2月12日から同年12月8日の期間は名前が「われらのうた」と変わり、さらにその後の、1945年8月15日までは「国民合唱」となり、戦後は「ラジオ歌謡」となった。
Wikipedia

  これまでにも取り上げた「椰子の実」東海林太郎)を初めとして、「春の唄」(月村光子)、「愛国の花」(渡辺はま子)「めんこい仔馬」(二葉あき子、高橋裕子)などが、有名なところではないでしょうか。あの海ゆかば(日本ビクター混声合唱団)も、なんと国民歌謡のうちの一曲だったのですね。

 

 作詞の喜志邦三さんには、「ラ~ラ~ラ~、赤い花束 車に積んで 春が来た来た 丘から町へ・・・」という歌い出しで有名な「春の唄」があります。

 

■喜志邦三 明治31~昭和58(1898~1983) 詩人 大阪府堺市生まれ
兵庫県西宮市に居住。兵庫県が舞台の作品に「海港の秋」がある。
明治31年(1898)大阪堺市生まれ。早稲田大学英文科卒業後、大阪時事新報社で新聞記者を勤め、のちに神戸女学院大学で教壇に立った。三木露風に師事し、第三次「未来」に参加。麦雨の号で抒情詩を発表。後には人間の内面を追究する作風へと深化していった。積極的に後進の育成にも尽力し、戦後になって「交替詩派」を主宰。のちに「再現」「潅木」へと名前を変えながら発展していく。西宮北口並びに甲子園口に長く居住した。NHK放送文化賞、西宮市民文化賞を受賞。
一方、詩作の拡がりを目指して、国民歌謡,ラジオ歌謡,歌謡曲にも創作活動を続け、多くの作品を世に送り出した。中でも「春の唄」「踊子」「お百度こいさん」等は今でも歌い継がれている。神戸淡路震災復興のシンボルマークの一つであるアクタ西宮には「春の唄」の歌碑が建立されている。 (兵庫県文学館ホームページ)

  さて、この「村の乙女」。ゆったりと優しいメロディーで懐かしい感じを与えてくれますが、大詩人には失礼ながら、ちょっと気になるのが「父と母との ふるさとの 村に埋もるる うれしさ」という三番の歌詞です。

 いったい、少女のどういう境遇を想定しているのでしょうか。

 「埋もれる」は「価値が人に知られずにいる」と辞書にはありますが、どうも腑に落ちません。理解力、想像力不足なんでしょうか?(;。;)

 

 鮫島さんのCDがたくさんあるのですが、整理が出来ていなくて、まだ現物がみつかっていないというお粗末。