思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 「栄冠は君に輝く」(古関裕而)

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昨年の開会式


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栄冠は君に輝く(全国高等学校野球大会の歌)」
 加賀大介作詞・古関裕而作曲

雲は湧(わ)き 光あふれて
天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ
若人よ いざ
 まなじりは 歓呼に答え
 いさぎよし 微笑(ほほえ)む希望
ああ 栄冠は 君に輝く


風を打ち 大地を蹴(け)りて
悔ゆるなき 白熱の力ぞ技ぞ
若人よ いざ
一球に 一打に賭(か)けて
青春の 讃歌を綴(つづ)れ
 ああ 栄冠は 君に輝く


空を切る 球の命に
通うもの 美しく匂える健康
 若人よ いざ
緑濃き 棕櫚(しゅろ)の葉かざす
感激を 目蓋(まぶた)に描け
 ああ 栄冠は 君に輝く

 

コロナ禍で中止になった夏の甲子園大会(交流試合というのがあるようですが)のかわりに、いわゆる代替大会が各地方で始まっています。

 

■ 甲子園での3回の応援経験

思い起こすと、私は吹奏楽部員(生徒指揮)、顧問として計3回、甲子園に行くことができました。

1回目は、もう50年近く前の高校2年生の時でした。

私たちの兵庫県では(いつまで続いていたのかは不明ですが)県大会の1、2回戦あたりでも甲子園球場を使っていたのです。

当時の我が母校は1回勝てば「ようやった!」といわれるぐらいの学校でした。
この年(昭和47年)もたしか初戦で大差で敗退しました!

応援団の位置は、全国大会とは違い、アルプススタンドではなく、ベンチ裏後方あたりだったでしょうか。
20数名の弱小バンドでしたが、なにせ観客が両校の応援団だけですので、球場内にはよく響いていた記憶があります。
景気づけにいろんなマーチを(軍艦行進曲もやりました)演奏したり、「闘牛士のマンボ」なんかもやったりという風でした。
山本リンダの「狙いうち」やピンク・レディーの「サウスポー」、「ルパン三世のテーマ」などがよく演奏され始めたのは、かなり後のことだったと思います。(強豪校は知りませんが・・・)

 

2回目と3回目は、7年前に西脇工業高校野球部が「第95回全国高校野球選手権記念大会」(平成25年8月開催)に兵庫県代表として初出場したときでした。
当時の勤務校(西脇高校)と西脇工業高校はもともと兄弟校だった関係から、西脇南中学とともに友情応援という形で参加したわけです。

ただ、顧問とは言っても、長らくマネージャー専任(?)で、実技の指導はしていません。生徒引率の出張ということで、今度はアルプススタンドで応援・観戦することができました。

 

■70年余も歌い継がれてきた「栄冠は君に輝く」!!

「甲子園と音楽」(そういうテーマの研究や著作があってもいいと思いませんか?)というと、まっさきに思い浮かぶのが、「大会歌」として大会の開会式、閉会式で演奏されるこの「栄冠は君に輝く」です。

 

調べてみると、昭和23年(1948)に朝日新聞が募集した全国高等学校野球選手権大会の大会歌なのですね。今から72年前、新制高校発足の年です。
さすがに歌詞には時代を感じさせる表現があります!

例えば 「まなじりは 歓呼に答え」(1番)
 「若人よ いざ 一球に 一打に賭(か)けて 青春の 讃歌を綴(つづ)れ」(2番)

 一番難しいのは3番の「緑濃き 棕櫚(しゅろ)の葉かざす 感激を 目蓋(まぶた)に描け」という箇所ではないでしょうか?

「yahoo知恵袋」のベストアンサーは次のようになっています。

直接甲子園や野球とは関係しませんが、「棕櫚の葉かざす」とは勝利をたたえると言う意味です。
 古代ローマ帝国では、闘技会の勝利者には勝利の証には棕櫚の葉が与えられ、特に優れたもの(優勝者)にはオリーブの冠(月桂冠)が与えられました。

  作詞の加賀 大介(1914年10月1日 - 1973年6月21日)さんは、この当時すでに短歌や演劇の会を主宰したり、脚本を書いたりしていたプロの文筆家であったそうです。

そこで、後に奥様となる女性の名で応募。5,252篇中の1位となったということです。

加賀さんは16歳の時に野球の試合による怪我がもとで右足の膝から下を切断したこともあって高校野球(当時は中等学校野球)への想いも強かったものと思われます。

ただ、生前一度も甲子園に行ったことはなかったいうことですが、毎夏必ずテレビやラジオから流れてくるこの曲を楽しみにされていたことでしょう。

 

※8月10日開会式が予定されていた日に、リモートでこの曲を演奏しようという試みがあるようです。

幻の開幕日、みんなで「栄冠」演奏しよう リモートで - 高校野球:朝日新聞デジタル