思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 「椰子の実」~いづれの日にか国に帰らむ

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椰子の實     
 作詞:島崎藤村 作曲:大中寅二
1
名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の實一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月

2
舊(もと)の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ

3
實をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂(うれひ)
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙

思ひやる八重の汐々(しほじほ)
いづれの日にか國に歸らむ

 

歌詞の意味(現代語訳)
1

名前も知らない遠い島から
流れてきた椰子の実が一つ

故郷の岸をはなれて
おまえはいったい何ヶ月の間
波に流されてきたのか

2

椰子の実が成っていた元の木は
今も生いしげっているのだろうか

枝は今もなお
影をつくっているのだろうか

わたしもまた 波の音を枕に
一人寂しく旅している

3

椰子の実を胸に当てれば
さまよい歩く旅の憂いが身に染みる

海に沈む夕日を見れば
故郷を思い あふれ落ちる涙

遠い旅路に思いを馳せる
いつの日か故郷に帰ろう

(「世界の民謡・童謡」ホームページ)

 

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「椰子の実」歌碑:愛知県田原市日出町

 

 島崎藤村明治34年の昔出した詩集『落梅集』の中に載っている詩に大中寅二が国民歌謡の一曲として新たに作曲したもの。 国民歌謡のうちの最も広く愛され歌われた曲をこの曲と見ることに異存はないであろう。昭和11年7月13日から1週間東海林太郎によってJOAKで放送された*のがはじめで、以後、8月3日から二葉あき子により、11月9日から多田不二子により、12月9日から柴田秀子により放送された。(中略)レコードでは11年11月、ポリドールから東海林太郎が吹き込んで売り出された。(中略)今、伊良湖岬には、この詩の詩碑がある。(金田一春彦安西愛子編『日本の唱歌[中](大正・昭和篇)』講談社文庫、昭和54年7月15日第1刷発行)

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*NHKアーカイブズ「NHK放送史」に映像があります。
 https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060039_00000

 好きな日本歌曲はたくさんありますが、その中でベスト5に入ると言ってもいいのが、この「椰子の実」です。
 実際に歌ったのは、林光編曲の混声合唱組曲「日本抒情歌曲集」でした。独唱となると、いきなり1、2小節目から音程の跳躍があって結構難しい曲ではないかと思います。

 今回は、詩の締めくくりのフレーズ、いづれの日にか國に歸らむ」の意味を取り上げました。
 明治の文語詩ですから、見慣れない言葉も多く、少しは文語文法や古語の知識もないと正確な理解は得られないかと思います。
 とりわけ、いづれの日にか國に歸らむ」の解釈については、「yahoo知恵袋」にも質問がありましたが、ネット上で得られた訳には、「?」と思わせるものがあります。

 それらの解釈は「いつの日か故郷に帰ろう」世界の民謡・童謡」ホームページ)としています。
 NHKさんの教材用のホームページも同様です。

椰子の実が流れてきたはるかな潮(しお)の流れを思うと、わが身の人生の遠い道のりも思いやられる。いつの日にかふるさとに帰ろう」。(NHK for school「文語詩:椰子の実・おはなしのくにクラシック 」)
 https://www2.nhk.or.jp/school/movie/outline.cgi?_id=D0005150182_00000

   ここで、気をつけたいのはいづれの日に國に歸ら」、「~か~む(ん)」の係り結びです。
   上のような解釈では係り助詞「か」の働きが無視されており、「む」という助動詞の文法的意味を「意志」としています。
  ここは、やはり次に挙げるようなとりかたをすべきではないでしょうか。
 

いづれの日にか国に帰らむ……「か」は、疑問の意の係助詞。「む」は、推量の助動詞「む」の連体形。「か」の結び。「いつになったら、なつかしい故国に帰ることができるのだろうか」。  「小さな資料室」http://sybrma.sakura.ne.jp/

 
 付け加えて言うならば、「か」には「疑問」+「反語」のような意味合いもあるのではないでしょうか。

    つまり、「いつになったら、なつかしい郷里に帰ることができるのだろうか(いや、帰れないかもしれない)」ということです。

 「故国」というと、「かえり船」ではありませんが、外地にいる日本人が日本の国を思うというような捉え方になる恐れもありますので、ここは「郷里」としました。

 

※何気なく聴いたり歌ったりしている歌詞の中にも、前々からちょっと気になるというフレーズがあります。今回はそんな歌の一つを取り上げてみました。

 

 

♪  台湾老歌「雨夜花」☆聴けば聴くほど懐かしい☆

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(歌:テレサ・テン鄧麗君

こんな記事を見つけました。
https://mochizukisana.com/mere-exposure-effect/ 
 なぜ音楽は聴けば聴くほど好きになるのか? ~単純接触効果~  2020.10.02
音楽は聴けば聴くほど好きになる
先日web記事を読んでいて「単純接触効果」という現象についての文章を見つけました。この「単純接触効果」が原因で、人は「音楽を聴けば聴くほど好きになる」らしいのです。読んでてなかなか面白かったので、今日はその「単純接触効果」についての話。
単純接触効果(mere exposure effect)とは、何かの対象に繰り返し接すると、はじめは興味がなかったり苦手だったものが、接する回数が増えるたびに次第に印象が良くなってくるという効果のこと。
1968年、アメリカの心理学者ロバート・ザイアンスがによって知られるようになった心理学用語です。
ザイアンスの行った実験では、被験者に人物の顔写真を何枚か見せて、その印象を「すごく悪い」から「すごく良い」まで7段階に分けて採点してもらったようです。
実験の結果、同じ人物の写真でも、何回も繰り返し見ていくうちにその人物の印象がだんだん良くなっていくという結果が出たそうです。
「音楽は聴けば聴くほど好きになる」という現象は科学的に実証されているということです。

 上の記事の科学的な実証性について云々する知識はありませんが、こと私の台湾懐メロについては当てはまっているように思います

 2020年5月14日の本ブログで取り上げたのは、台湾老歌(または民謡と表記されることもあるようです)の中でも、今でも絶大な人気があるという「望春風」でした。

 

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 この歌の作曲者・鄧雨賢(1906~1944)には、もう一つよく知られた歌があり、それが今回取り上げた「雨夜花」です。手元にある「世界名歌選集」(ドレミ楽譜出版社には、台湾を代表する曲として掲載されています。

『雨夜花』(うやか、ウーヤーホエ、台湾語白話字:Ú-iā-hoe)または『雨の夜の花』(あめのよのはな)は、1934年に発表された台湾の民謡。作詞者は周添旺、作曲者は鄧雨賢で、日本統治時代の歌手・純々(劉清香)のヒット曲である。現在は台湾語歌謡のうち、『望春風』と並んで最も代表性のある名曲であると言われる。

 この歌の曲はもともと詩人・廖漢臣の童謡・『春』に鄧雨賢が1933年につけたものであるが、この曲を聞いた周添旺は翌年に新しい歌詞をつけた結果、ヒット曲・『雨夜花』が作り上げられた。歌詞は駆け落ちした恋人に振られた後、花柳界に堕ちたある女性の運命を雨の夜の花に喩えたものである。

 1938年に台湾総督府の下で、栗原白也が作詞する軍歌・『誉れの軍夫』(霧島昇歌唱)にも改編された。日本国内でも1942年に、西條八十が作詞する、渡辺はま子が唄う『雨の夜の花』に改編された。

 戦後はテレサ・テン、鳳飛々、胡美芳、夏川りみなどの歌手によりカバーされた。2002年11月29日に、プラシド・ドミンゴが台湾で開催するコンサートで、江蕙と一緒にこの曲を歌った。

また、この曲に大矢弘子が新たに作詞した歌を、こまどり姉妹が「南国哀歌」として1965年に発表している。(Wikipedia

 

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雨夜花 u ia hoe ~雨の夜の花 

(1934年) 周 添旺 詞 鄧 雨賢 曲

   

一、  雨夜花  雨夜花

    雨夜の花 雨夜の花

     siu hong ho chhoe-loh te

     受風雨  吹落地

    風雨に吹かれて地に落ちる

     bo lang khoaN-kiN mi-jit oan-chheh

     無人 看見   暝日 怨嗟

    振り返ってくれる人もなく日夜怨めしい
    hoe sia  loh tho'  put chai hoe

    花謝  落土  不再回

     花は枯れて地に落ち再び返らない

     hoe loh tho' hoe loh tho'

 

二、  花落土  花落土

    花は地に落ち 花は地に落ち

     u siaN lang thang khoaN-ko'

     有誰人   通看顧

    誰が顧みてくれようか

     bo cheng hong-ho' go' gun chian-to'

    無情  風雨    誤阮  前途

    無情な風雨が私の前途を誤らせる

     hoe-lui tiau-loh beh ju ho

     花蕊  凋落  欲如何

    花が枯れ落ちるのをどうすればいい

     ho' bo cheng ho' bo cheng

 

三、  雨無情   雨無情

   雨は無情 雨は無情
   bo siuN gun e chian-teng

   無想  阮的 前程

   私の行く手を思ってはくれない

    peng bo khoaN-ko' loan-jiok sim-seng

   並無 看顧   軟弱 心性

   もろくなった心も顧みてくれない
   ho' gun chian-to' sit kong-beng

   乎阮  前途 失光明

   私は前途の光を失った

   ho'-chui tih ho'-chui tih

 

四、 雨水滴  雨水滴

   雨水が滴る 雨水が滴る
   in gun jip-siu lan ti

   引阮 入受 難池

   私を受難の池に誘い込む

   choaN-iuN ho' gun li hioh li ki

   怎樣 乎阮   離葉 離枝

   なぜ私を葉や枝から離すのか
   eng-oan bo lang thang khoaN-kiN

   永遠 無人  通看見

   永遠に振り返ってくれる人はいない

 

 

雨の夜の花 (日本語) 西条八十 訳詞


一、雨の降る夜に咲いてる花は 
   濡れて揺られて ほろほろ落ちる

二、紅がにじんで 紫ぬれて
   風のまにまに ほろほろ落ちる

三、明日はこの雨 やむかもしれぬ
   散るをいそぐな 可愛い花よ

四、雨に咲く花 しんからいとし
  君を待つ夜を ほろほろ落ちる

 

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 さすがは天才詩人・西条八十さんですね。

 それに引き比べ、下の歌詞はWikipediaには「改編」とありますが、いくら軍の命令とは言え、とんでもない「改悪」でしょう。

 

 作曲者が、こうした無謀に対して心を痛め、死期を早めたのではないかと思われます。

誉れの軍夫 (時局歌)  栗原白也   詞

一、赤い襷に 誉れの軍夫
   うれし僕等は 日本の男

二、君にささげた 男の命
   何で惜しかろ 御国の為に

三、進む敵陣 ひらめく御旗
   運べ弾丸 続けよ戦友(とも)よく

四、寒い露営の 夜は更けわたり
   夢に通うは 可愛い坊や

五、花と散るなら 桜の花よ
   父は召されて 誉れの軍夫

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 YouTubeでは、同じ動画を視聴していると、「あなたへのおすすめ」という形で、類似した動画が紹介されます。ソロから合唱、オーケストラなどと様々なバージョンがあるということは、いかにこれらの老歌(懐メロ)が今でも支持されているかということの証拠となるでしょう。

 

■ そもそも、なぜ「聴けば聴くほど懐かしい」のでしょうか?

 隣町の日帰り温泉につかりながら考えてみましたが、よくわかりません。

 一晩寝て、ネット上に手がかりを求めていたところ、次のような記事に出会いました。

NHK国際報道2021
2020年10月7日(水)掲載

名曲に探る台湾のアイデンティティ
  研究者も注目!日本が統治していた時代の台湾音楽
林さんが注目してきた日本の統治時代の台湾の音楽。最近になって掘り起こされる資料も少なくなく、台湾の流行歌がどのようにして作られていたのか、2000年以降から現在にかけて、研究者の間でも調査も進められています。この分野で、約20年間、研究に携わってきた奈良教育大学音楽教育講座教授の劉麟玉さんによると、日本と台湾の人たちが協力をしながらレコードを作っていたことが具体的に分かってきたといいます。

奈良教育大学音楽教育講座教授の劉麟玉さん
「1930年代、台湾で発売されていたレコードの多くは、日本資本のレコード会社が発行したものです。当時、日本のレコード会社は日本のレコードをそのまま台湾で売るのではなく、台湾の人たちと一緒に台湾向けのレコードを作っていました。実際に、台湾の歌手や演奏家が東京の日比谷のスタジオまで出張し、レコーディングしていた記録が残されています」
 https://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/archive/2020/10/1007_1.html

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 上の記事を下に、想像を多分に交えて言うならば、日本統治下の台湾で作られた、今の「懐メロ」には日本人の好み(レコード会社の制作者など)が反映されているのではないでしょうか。

 特に、二大名曲の作曲者・鄧雨賢は日本の音楽学校に留学した経験もありますし、台湾で受けた音楽教育でも、日本人教師から指導されたことがあったかもしれません。

 

 日本の懐メロが好きな者にとって、戦前の台湾の歌に何となく懐かしいものを感じ取ってしまうというのは、歴史的なとらえかたをすると、むしろ当たり前のことだったのですね。

♪ 「かえり船」ーバタ臭い「バタヤンソング」ー

 かえり船/田端 義夫 - YouTube

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2020/7/6の「鉾をおさめて」の記事で取り上げたヴィタリ・ユシュマノフの2枚目のCDを買いました。

 「夢」探しながら-日本名歌集2-

【収録曲】
ふるさと  

花  

箱根八里

富士山見たら
富士の山  

鯉のぼり  

早春賦  

夏の思い出
ちいさい秋みつけた  

雪の降るまちを  

別れ船

かえり船  

赤とんぼ  

夕焼小焼  

月の沙漠
長崎の鐘  

上を向いて歩こう  

いつでも夢を
愛燦燦  

川の流れのように

昨夜の 夕食後、焼酎のお湯割りで「いい気分」になり、テレビでYouTubeの「スーパーはくと・前面展望」を見ながら、上の曲を順に聴いていました。
今回、意外だったのは、彼が田端義夫の「別れ船」と「かえり船」を歌っていることでした。いわゆる日本名歌とか童謡・唱歌、それにクラシックの歌手も歌っているような歌謡曲なら分かるのですが・・・。
おそらく、日本人のクラッシック系歌手でも歌った人はないだろうと思います。

ピアノ伴奏の塚田佳男さんが、こんな解説を書いておられます。

続く二曲はなんとも思いがけない選曲であるが、これは先刻ヴィタリが上梓した書籍の共著者である戸ノ下達也氏からの勧めだったという。(中略)クラシック歌手はまず歌うことのない「なつメロ中のなつメロ」であるこの二曲をヴィタリらが選んでくれたのはなんともうれしい限りである。(中略)
二曲ともヴィタリの歌い方には、どこか無頼派的でアウトローな男の哀しみがにじみ出ている。加えてサビの部分の、思いの丈をぶっつけるような哀切な叫び!この若きロシア人のヴィタリは、なぜ日本のこんな時代の歌をこんな風に歌えるのだろう・・・・・ふと涙ぐんでしまう私である。

著作権の関係で、このブログで音声を貼り付けて聴いていただけないのが、残念です。

田端 義夫(たばた よしお、1919年(大正8年)1月1日 - 2013年(平成25年)4月25日)は、日本の歌手、ギタリスト。本名は田畑 義夫(読み同じ)[1]。第二次世界大戦前から21世紀初頭まで現役歌手として活躍した。愛称はバタヤン。水平に構えて持つ、アメリカのナショナル・ギター社製エレキギターと威勢のよい挨拶がトレードマークであった。
代表曲​
「島の船唄」(昭和13年)[清水みのる作詞、倉若晴生作曲]
大利根月夜」(昭和14年)[藤田まさと作詞、長津義司作曲]
「別れ船」(昭和15年)[清水みのる作詞、倉若晴生作曲]
「梅と兵隊」(昭和16年)[南条歌美作詞、倉若晴生作曲]
「かえり船」(昭和21年)[清水みのる作詞、倉若晴生作曲]
「ズンドコ節(街の伊達男)」(昭和22年)[佐々木英之助作詞、能代八郎作曲]
玄海ブルース」(昭和24年)[大高ひさを作詞、長津義司作曲]
「ふるさとの燈台」(昭和24年)[清水みのる作詞、倉若晴生作曲]
玄海エレジー」(昭和26年)[大高ひさを作詞、長津義司作曲]
「十九の春」(昭和50年)[沖縄民謡](Wikipedia

 

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「かえり船」

作詞:清水みのる、作曲:倉若晴生、唄:田端義夫   昭和21年(1946)

1 波の背の背に 揺られて揺れて
  月の潮路の かえり船
  霞む故国よ 小島の沖じゃ
  夢もわびしく よみがえる

2 捨てた未練が 未練となって
  今も昔の せつなさよ
  瞼(まぶた)あわせりゃ 瞼ににじむ
  霧の波止場の 銅鑼(ドラ)の音

3 熱いなみだも 故国に着けば
  うれし涙と 変わるだろう
  鴎ゆくなら 男のこころ
  せめてあの娘(こ)に つたえてよ

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さて、「思い出」も少し書いておきたいと思います。
20代の前半の頃は、まだレコード全盛の時代。

同時代に流行している歌謡曲もたまに歌ったりしてはいたのですが、(例えば、細川たかし「心のこり」渥美二郎「夢追い酒」など)、その一方で、自分が生まれる5年も10年も前の流行歌も、気に入ったものはよく口ずさんでいました。

具体的に何年とは特定できませんが、初任の地・伊丹にいた頃ですから、昭和53から57年(1978~1982)のことになります。
当時、伊丹混声合唱団でコーラスをやっているということで、(コーラス部の顧問もしていました😀)忘年会などで、指名されて歌わされることがありましたが、あるとき、何を思ったか、この「かえり船」を熱唱(?)した記憶があります。
自分の親ぐらいの先輩教員・世界史のK氏(大学の先輩で色々ご指導いただきました。ご存命なら90歳ぐらいでしょうか)から、広島なまりで「若いのに、ようこんな古い歌知っとるな!」と云われたのも鮮明に覚えています。

昨夜、ヴィタリの歌を聴きながら、そんな40年ほど前のことがふと思い出されてきました。

※今日は、別の調べ事で図書館へ行き、参考資料室にあった「日本流行歌史」という本をパラパラめくっていると、この「かえり船」の説明があり、「引き揚げソング」というジャンルに属すとありました。初めて知った言葉でした。

 たぶん、今夜もこのCDを聴くことことになると思います!!

♪ 唱歌「灯台守」

~灯台守~NHK東京児童合唱団 - YouTube

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作詞:勝承夫

1
こおれる月かげ 空にさえて
ま冬のあら波 寄する小島(おじま)
思えよ灯台 守る人の
尊きやさしき 愛の心
2
はげしき雨風 北の海に
山なす荒波 たけりくるう
その夜も灯台 守る人の
尊きまことよ 海を照らす

1947年(昭和22年)、文部省発行の教科書「5年生の音楽」に掲載

灯台守の歌が2週続きます。

言うまでもなく、「喜びも悲しみも幾年月」からの単純な連想です。これという思い出があるわけではありませんが、小学校の高学年で習ったこの歌は結構好きな曲で、YouTubeでよく視聴していました。

すると、歌声サークルの動画が上がっていたりして、やはり中高年には好まれているんだなと再認識した次第です。

 

今回、この歌を取り上げるに際して、いつものようにネット検索から入りますと、上の灯台の画像にある「イギリス民謡」というのは、根拠不明のようです。

灯台守」:勝承夫作詞の学校唱歌。曲はイギリス民謡と言われていたが、「仰げば尊し」がアメリカの曲であることを発見した桜井雅人によって、この曲もアメリカの曲であったことが明らかにされた。
原曲は一般的に「イギリス曲」「イギリス民謡」とされるが、典拠は不明である。

一橋大学教授(後に名誉教授)の櫻井雅人は、ほぼ同じメロディの曲が、1881年にニューヨークで出版された『フランクリン・スクウェア・ソング・コレクション第1集』(Franklin Square Song Collection, No.1)に「The Golden Rule」として収録されていることを突き止めた。同書は作詞・作曲者はともに不明と記している。同書は初出の作品を集めた歌集ではないため他の歌集からの転載と推測されるが、それ以上のことは不明である。(Wikipedia

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「旅泊」その他 : 外国曲からの唱歌四曲
櫻井, 雅人
 2005-09-01
 一橋論叢 Volume 134

初めは、「鉄道唱歌」(汽笛一声新橋を~)で知られる大和田建樹の作詞により、大和田建樹・奥好義編 『明治唱歌第三集』 (明治28年・1895)に掲載されています。

このときは、「旅泊」というタイトルでした。

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 一 礒の火ほそりて 更くる夜半に
  岩うつ 波音 ひとりたかし
  かかれる友舟 ひとり寝たり
  たれにか かたらん 旅の心

 二 月影かくれて からす啼きぬ
  年なす長夜も あけにちかあし
  おきよや舟人 おちの山に
  横雲なびきて 今日も のどか
  (「明治唱歌(三)」明治22.6)

本当に、「こんな難しい歌詞をその頃の小学生は歌ってたの?」と疑いたくなるような歌ですね。特に、「かかれる友舟」とか「おちの山に」が耳慣れない言葉だと思います。

よく考えてみると、明治  20年代に小学校で西洋音楽を教えられる先生はまずいなかったはずで、この歌も実際には歌われてなかったとするのが妥当と思われます。

 

歌詞については、難しいはずです。

こんな論文がありました。

大和田建樹作詞の明治唱歌「旅泊」は、海辺での仮泊の旅愁を歌った名品であるが、曲自体はイギリスの曲と言われている。更にその歌詞は、唐の詩人張継の七言絶句「楓橋夜泊」をそっくり利用している。曲は西洋、歌詞は漢詩の利用、歌うのは日本人。両者の比較を通し切て当時の東洋と西洋との文化の融合蘇州寒山寺を詠んだ張継の「楓橋夜泊」はあまりにも名高い。この詩は中国でも愛唱されたが、現代日本でもNHKの「ゆく年くる年」などで除夜の鐘として放映されて名高く、時代劇の床の間などの掛け軸としてかかっていることも多い。その昔の流行歌「蘇州夜曲」にも「鐘も鳴ります寒山寺」とあった。

楓橋夜泊 張継

月落烏喘霜満天
江風漁火対愁眠
姑蘇城外寒山
夜半鐘声到客船

月落ち烏喘きて霜天に満つ
江風漁火愁眠に対す
姑蘇城外の寒山
夜半の鐘声客船に到る

(中略)

「旅泊」が「楓橋夜泊」を粉本としたことは、一目瞭然である。特に「月影かくれてからす喘きぬ」は「月落鳥喘」をそのまま訓読した感がある。現代の目からみると剰窃のようにも思えるが、明治時代には先行作品を利用することはごく普通に行われていた。歌詞が漢詩をそのまま翻訳しているだけでなく、うたわれている内容も起承転結の展開をしており、絶句の構成そのものである。

丹羽博之:大和田建樹作詞「旅泊」と唐張継「楓橋夜泊」
ー明治唱歌による和洋中文化の融合丹羽博之ー
大手前大学人文科学部論集』巻6、2005年

※現役時代に扱ったことのある教材(漢詩)ですが、仕事を離れて5年も経つとダメですね。明治時代の詩を見ても、全く想像できませんでした。

 

戦後の昭和22年に教科書に載ったときも、今、改めて見ると難しい言葉遣いになっています。

こおれる月かげ   寄する小島(おじま) 山なす荒波 たけりくるう

 

灯台無人化が進み、歌詞の文語調が時代に合わないということで、(いつ頃かは調べられていませんが)教科書から消えたのではないでしょうか。

 

作詞の勝 承夫さんについては、名前の読み方が長らく分かりませんでした。

一時、木山捷平さん関連の本を集めまくっていたことがあり、木山さんに影響を与えた人物ということは知っていたのですが・・・。

(かつ よしお、1902年(明治35年)1月29日 - 1981年(昭和56年)8月3日)は、東京市四谷区(現・東京都新宿区)出身の詩人。元日本音楽著作権協会会長。元東洋大学理事長。

 

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木山さんの師匠である井伏鱒二さんにこんな文章がありました。

その頃、田舎にいた木山君は、東京の若い詩人宵島俊吉にあこがれて、宵島の通学している東洋大学へ入るため上京した。宵島は本名を勝承夫と云い、若い天才詩人と云われて大変な評判であった。今で云えば、三島由紀夫太宰治を一緒にしたような人気があった、

井伏鱒二木山捷平の詩と日記」(『風貌・姿勢』講談社文芸文庫

 

知りませんでしたが、大正の終わりから昭和の初め頃には、人気のある詩人だったのですね。井伏さんの喩えはちょっとオーバーでしょうが(笑)

子どもの頃聞いた歌では、次のような歌の訳詞や作詞をされていました。

「故郷の人々」( フォスター作曲)・・・はるかなるスワニー河、その下(しも)~

「小ぎつね」・・・  小狐(こぎつね) コンコン 山の中 山の中~

「夜汽車」・・・ いつも、 いつも、とおる夜汽車

時代が変わっても、我々世代には、忘れられない歌の一つに違いはありません👌

 

 

 

 

♪ 「喜びも悲しみも幾年月」

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『喜びも悲しみも幾歳月』(昭和32年・1957)

作詞・作曲:木下忠司、唄:若山 彰

1 俺(おい)ら岬の 灯台守は
  妻と二人で 沖行く船の
  無事を祈って 灯(ひ)をかざす
  灯をかざす

2 冬が来たぞと 海鳥なけば
  北は雪国 吹雪の夜の
  沖に霧笛が 呼びかける
  呼びかける

3 離れ小島に 南の風が
  吹けば春来る 花の香(か)便り
  遠い故里 思い出す
  思い出す

4 朝に夕(ゆうべ)に 入船出船
  妻よがんばれ 涙をぬぐえ
  もえてきらめく 夏の海
  夏の海

5 星を数えて 波の音(ね)きいて
  共に過ごした 幾歳月(いくとしつき)の
  よろこび悲しみ 目に浮かぶ
  目に浮かぶ

※4番の歌詞に記憶がありません。実際にはあまり歌われてなかったのかもしれません。

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『喜びも悲しみも幾歳月』は、1957年に松竹が制作・公開した、木下惠介監督の映画作品である。
海の安全を守るため、日本各地の辺地に点在する灯台を転々としながら厳しい駐在生活を送る灯台守夫婦の、戦前から戦後に至る25年間を描いた長編ドラマである。

1956年に雑誌掲載された福島県塩屋埼灯台長(当時)田中績(いさお)の妻・きよの手記から題材を得て、木下監督自身が脚本を執筆した。全編にわたりカラー映像で撮影され、単なるホームドラマの枠を超えて日本各地の美しく厳しい風景を活写した大作で、公開当時大ヒット作となり、同年の芸術祭賞を受賞した。

若山彰の歌唱による同名主題歌の「喜びも悲しみも幾歳月」も大ヒットし、後世でも過去の著名なヒット曲としてしばしば紹介されている。

観音崎御前崎、安乗崎、野寒布岬、三原山五島列島、瀬戸内海の男木島、女木島など全国でロケーション撮影を敢行し、ロードムービーの一種としても楽しめる作品である。

後年、3度に渡りテレビドラマ化されたほか、1986年には木下監督自身により時代の変化を加味したリメイク版『新・喜びも悲しみも幾歳月』も映画化されている。 (Wikipedia

この映画を観たような記憶がほんの微かにはあるのですが、それが映画館だったのか、それともテレビだったのか、確かめるすべがありません。
小学校での映画鑑賞などという可能性もありますが・・・。

ストーリーは忘れても、主題歌のほうは今もはっきりと覚えています。
歌い手の若山彰さんは、六甲おろし(「阪神タイガースの歌」)なども朗々と歌われていて、50代以下ではお名前を知らない方が今や大半でしょうが、「ああ!あの歌の!!」と気づかれることと思います。

「南国情話」を取り上げた2020年9月26日の本ブログでも少し触れましたが、若山彰(本名・平川純男、1927年広島県三原市生まれ、1951年24歳でデビュー、1998年69歳で死去)さんは、母校広島大学教育学部の前身校の一つである、広島臨時教員養成所(1940年、広島文理科大学に付設された)の物理化学科の第5回卒業(昭和22年・1947)24名のうちのお一人でした。

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Wikipediaをはじめ、ネット上では広島文理科大学卒業のように記載されていますが、文理科大学へは高等師範学校や当校を卒業後に進学していましたから、細かいことですが、誤りです。手元にある古い年次別の卒業生名簿で確認しました

 

この歌で、前々から感じていたことが二つあります。

一つは曲の短さ、もう一つはイントロの素晴らしさです
数えてみますと、イントロが8小節なのに対して、歌の部分は14小節となっています
楽曲の作りには、一部形式とか二部形式とかあるようですが、(不勉強でよく分かっていませんが)14小節というのはちょっと短いのではという印象は受けます。

ですが、それを補って余りあるメロディーの素晴らしさがあることは言うまでもありません!!

 

もう一つの特徴は、イントロの力強さです。

そういえば、テレビドラマ水戸黄門の主題歌「あゝ人生に涙あり」 (作詞・山上路夫) も木下さんの作曲ですが、やはりあの男性的でリズミカルなイントロは、何十年経っても忘れられませんね。
この歌の場合は、ドラマチックな展開を予見させるかのような、出だしの管楽器とバイオリンの掛け合い、さらには歌の入り直前の2小節の畳みかけるような音の動き。

そして、その勢いを保ったまま、「俺ら岬の・・・」と歌に突入するようなところに、一度聴いたら忘れられないインパクがあるように思います。

 

※作曲の木下忠司(ちゅうじ)さんは、映画監督・木下恵介氏の弟さんだったと、今回初めて知りました。ネット上に3年前の訃報を見つけました。

映画「喜びも悲しみも幾歳月」、テレビ時代劇「水戸黄門」の主題歌を始め、数多くの日本映画やドラマの音楽を手がけた音楽家の木下忠司(きのした・ちゅうじ)さんが4月30日、老衰で死去した。102歳だった。葬儀は親族で営んだ。
 46年、兄の木下恵介監督の「わが恋せし乙女」で映画音楽家としてデビュー。以来、「カルメン故郷に帰る」(51年)や「二十四の瞳」(54年)、「野菊の如き君なりき」(55年)など恵介監督のほぼ全作品の音楽を担当。特に57年、作詞・作曲をした「喜びも悲しみも幾歳月」の主題歌は、灯台守の心意気を力強く表現して大ヒットした。
 ほかにも、小林正樹監督の「人間の條件」シリーズ(59~61年)や菅原文太主演の「トラック野郎」シリーズ(75~79年)、アニメ「白蛇伝」(58年)など多彩な作品の音楽を手がけ、88年までに480本を超える映画音楽を作った。またテレビでもドラマ「水戸黄門」や「泣いてたまるか」の主題歌やCM音楽など数多くを作曲している。

2018年5月7日 朝日新聞

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(木下忠司さん、100歳の頃)

♪ 佐藤真「土の歌」(農夫と土・大地讃頌など)

www.youtube.com

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【土の歌】Shin Sato: Cantata the Songs of Land (Extracts)【東京混声合唱団&神戸市混声合唱

2020.12.12いずみホール

このブログもはや三年目に入りました。
2021年の第1回目は、合唱曲として有名な大地讃頌を含む「土の歌」をとりあげました。

昨年の12月12日に大阪のいずみホールで開かれた東京混声の演奏会では、AB二つのプログラムがあり、16時開始のBプロの1曲目が神戸市混声との合同でこの曲でした。
帰宅時間を考慮して、Aプロを選んだ私たちでしたが、年末に東京混声のYouTubeチャンネルで、当日の演奏(抜粋)がアップされているのを見つけ、年をまたいで繰り返し聴いています。

 大地讃頌」を歌ったのはいつのことだったか、すっかり忘却の彼方ですが、探したら楽譜はありました。
(ただ、使った形跡、書き込みなど一切ありませんでしたが)

今回、この曲を取り上げるに際して、作詞の大木惇夫(1895~1957)について、ちょっと調べてみましたが、この方は広島の生まれなんですね。

 

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組曲の中には下のように、3楽章で原爆禍が取り上げられています。

第1楽章:「農夫と土」 _ 自然の恵みの神秘、土への感謝
第2楽章:「祖国の土」 _ 人は皆土に生まれ、土に還っていく
第3楽章:「死の灰」  _ 原爆について取り上げられ、人間と科学の汚さ
第4楽章:「もぐらもち」_ モグラに例えた人間への皮肉
第5楽章:「天地の怒り」_ 天災と人間悪について
第6楽章:「地上の祈り」_ 大地への想いと反戦の祈り
第7楽章:「大地讃頌」 _ 本作品を締めくくる大地への限りない讃歌
 

自然や土への感謝から始まり、大木惇夫の故郷を襲った原爆や天災、人間悪に触れた上で、大地への感謝と反戦の祈りへと昇華されていきます。
(浪江から平和の思いを!大地讃頌とともに土の歌を全国へ
福島で歌おう「土の歌」合唱団実行委員会)

 

土の歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
混声合唱とオーケストラのためのカンタータ『土の歌』は、大木惇夫(本名:大木軍一)が作詞、佐藤眞が作曲したカンタータ。日本ビクターの委嘱により、1962年に作曲された。

楽曲は、タイトル通り混声合唱団と管弦楽団によって演奏するために書かれており、初演は、指揮:岩城宏之混声合唱:東京混声合唱団、管弦楽NHK交響楽団により行われた。

後に、ピアノ伴奏版が作られたことにより、中でも当楽曲を構成する楽章の一つである終楽章「大地讃頌が、中学校をはじめとする日本の学校教育の現場において、合唱コンクールや卒業式などで歌われる定番曲として広く知られ定着している

 

第一楽章「農夫と土」
耕して 種子(たね)を撒(ま)く土
人みなのいのちの糧を
創(つく)り出す土
 耕して種子を撒く者
 農夫らの楽しみの種子
 悲しみの種子
  ともかくも種子がいのちだ
  朝 星をみて 野良に出る
  働いて 額に汗して
  夕星を見て帰るのだ
種子をはぐくむ土こそは
種子をまく者の夢だ 望みだ
そして祈りだ
花さき みのる 毎年(まいねん)の
約束の不思議さよ

 

第七楽章「大地讃頌
母なる大地のふところに   
われら人の子の喜びはある
大地を愛せよ
大地に生きる人の子ら
その立つ土に感謝せよ

平和な大地を
静かな大地を
大地をほめよ たたえよ土を
恩寵(おんちょう)のゆたかな大地
われら人の子の
大地をほめよ
たたえよ 土を
母なる大地を
たたえよ ほめよ
たたえよ 土を
母なる大地を ああ
たたえよ大地を ああ

 

第一楽章の「農夫と土」
作詞の大木さんに農業の経験はなかったよう(ひょっとして疎開先ではあったのかも)ですが、私のように稲作農家の真似事をしている程度の者にも、その意味が少しは実感を伴ってわかるような歌詞となっています。
 それは、「農夫らの楽しみの種子/悲しみの種子/ともかくも種子がいのちだ」というフレーズの「楽しみの/悲しみの」という部分です。
(米作りの場合は「苗」に置き換えるべきでしょうが)

終曲の「大地讃頌」よりも、こちらの方が今となっては歌ってみたい曲ですね。

 

 第七楽章「大地讃頌」はあまりに有名!

中学校の卒業式などでも一時よく歌われていました。YouTubeには、にわか指揮者のための「指揮の仕方」という動画があるぐらいです。

カンタータ(交声曲)というスケールの大きな合唱組曲は、我が国にもいくつかあるようですが、この歌ほど多くの人々に歌われ、親しまれているものはないと思われます。アマチュアの場合はピアノ伴奏がほとんどですが、中にはオケ伴奏のものもYouTubeで視聴できます(だいぶ昔の東京混声の動画もたしかありました。)

作曲の佐藤真さんと言えば、あの合唱組曲の名曲「旅」でも有名ですね。

我々年代以上の者で、これを知らない合唱ファンはモグリだと言ってもいいでしょう(笑)

最近は、こういう割と素人でも歌いやすい曲が少なくなってきたように思います。

確かに、NT氏のような素晴らしい作曲・編曲をされる方もいらっしゃいますが、どうも若い人中心でレベルの高い合唱団は別として、私の所属しているような高齢者中心のコーラスではちょっと難度が高い曲が多いように思われて仕方ありません。

「何十年にも渡り、広い世代に歌い継がれるような合唱曲!」

まさに、この「土の歌」や「旅」などがそれに当たるでしょう。

 

♪ 「サリマライズ」

www.bing.com

神戸中央合唱団

(合唱曲/原曲:南アフリカ唱歌『サリーマレー Sarie Marais』)

歌詞(作詞:森田久男)

我がもと 離れ去り行ける 懐かしき友よ

いま再び帰り来たる 我等の元へ

 

ああ懐かしきかな いざ歌わん

麗し花は 野に山に満ち 小鳥も歌う

小川のせせらぎも 楽しげに我等と歌う

 

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例年より早く年賀状の準備をしていたとき、昨年住所の記載ミスで戻ってきた一枚を発見。
30年以上前に同僚だった音楽のI氏宛てのものでした。
氏とは吹奏楽部の主顧問と副顧問(音楽部の副顧問と主顧問)の関係でした。
ふと思い出したのが、たぶん神戸高校出身のI氏が着任して始めたのではないかと思われるコーラス大会(野暮なネーミングですね・笑)と課題曲として設定した「サリマライズ」のことでした。
神戸中央を初めとする神戸の合唱団では、この曲がよく愛唱歌として歌われているということです。
3年ほど前でしたか、当市の合唱祭にゲストで来ていただいた「ハモールKOBE」の皆さんも、終演後にロビーでこの歌を披露して帰って行かれました。

ゆったりと優しいメロディーラインですが、我が国に伝わるに際しては、以下のような経緯があったということです。
中村仁策氏が神戸中央で活躍されたことで、神戸の合唱団から広まっていったことが想像されます。

 

歌い出しの歌詞は「我がもと 離れ去り行ける 懐かしき友よ」(作詞:森田久男)。旧友との再会を喜びかみしめる内容となっている。
『サリマライズ』の原曲である『サリーマレー Sarie Marais』が歌われている南アフリカ共和国は、かつてオランダによって統治されていた。同曲の歌詞はオランダ語から派生したアフリカーンス語で書かれているのもその名残である。

第二次世界大戦中、ドイツに占領されたオランダの兵はロシア軍の捕虜となり、シベリア送りとなった。大勢の日本兵も捕らわていたシベリア収容所では、朝の点呼の際に、オランダ兵たちが『サリーマレー Sarie arais』を声をそろえて歌っていたという。
神戸中央合唱団の指揮者として戦後活躍した中村仁策氏は、当時シベリア収容所に抑留されており、オランダ兵たちが同曲を歌う様子を現場で目の当たりにしていた。
中村氏はオランダ兵からこの曲を教わり、配給された巻きタバコの紙に五線譜を書き留めて密かに保管し、戦後に日本へ持ち帰ることができたという。
多くの日本人がシベリアで命を落とす中、無事に故郷へ帰りつき家族や友人と再会を果たした中村氏。その喜びが『サリマライズ』の日本語歌詞に表されているようで非常に感慨深い。
その後『サリマライズ』は神戸中央合唱団の重要なレパートリーの一つとなり、現在でも関西圏の合唱団を中心に合唱曲の名曲として愛唱されている。

 「有名な合唱曲」http://www.chorus-song.com/popular/sarie-marais.htm

 

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(神戸高校第66会音楽会・合唱コンクール

 

I氏の他にも当時の同僚で神戸高校出身の方にM女史がいましたが、あるとき高校の音楽会(なんと、神戸文化ホールを貸し切りで行っていたとか!寒々とした体育館でのコーラス大会とは大変な違いです)で大中恩の「島よ」をやったと聞いたとき、レベルの違いに唖然としたのを覚えています。
その頃、全国大会の常連だった神戸高校の合唱部のメンバーがクラス合唱の指導をしていたようですが、自分も歌ったことがあるだけに、なおさら驚かされたわけです。

その学校に着任した年、自由曲が決まらない生徒達に、伊丹混声でやったことがある「想い出のセレナーデ」を勧めたことも思い出しました。

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天地真理さんの現在はどうなのかよく知りませんが、この曲を歌った彼ら、彼女たちももう52,3歳になっているはずです。