思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

年の暮れはやっぱり「第九」? その1

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■ 「第九」の思い出

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昨日、久しぶりに会った40年来の友人に、昼間の居酒屋で、「今年も『第九』は歌ったの?」と尋ねられました。
3年ほど前に地元のオーケストラと私たちの合唱団(神戸市混声の応援も)で歌ったというのを覚えていて、どうも毎年歌っているという風に思われていたようです。
事程左様に、特に音楽活動をやっていない人でも、「年末=『第九』」という思い込みがあるようです。
元々は、財政の厳しいオーケストラの「モチ代」稼ぎから始まったようですが、長らく「年の暮れの風物詩」となっていますね。

 

初めて「第九」を歌ったのは、昭和62年(1987)のことで、30代前半。三木市に立派な文化会館が出来たのをきっかけに「三木『第九』を歌う会」が組織され、当時の三木混声の指揮者・故北村信雄氏(1917~2005年、戦前の関学グリー指揮者で神戸土曜会合唱団を長らく指導されました,写真は同合唱団HPから)がいつも丁寧に穏やかに指導してくださいました。

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当時、柄にもなく勤務校(隣の小野市)で顧問をしたり、所属する混声合唱団で多忙な恩師(高1の時の担任・第9の合唱指導で有名な坂下功一先生)の代わりに指揮をしていた私にも声がかかりました。
古い資料を見るとバスパートの副パートリーダーのようなことをしていたようです(汗)

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※写真は、第2回目の演奏会のチラシで、黒岩英臣氏指揮の関西フィルでした。
(今、地元で指導してもらっている吉沢氏は当時、このオケで弾いていらっしゃいました)

「三木第九演奏会」の第1回。オーケストラは大阪フィル、指揮者は、”炎のコバケン”こと、小林研一郎氏でした。当時47歳だったようです。
今でも印象深いのは、練習の時、合唱団にちょっとしたフレーズを歌わせても、いちいち「ありがとうございます」と言われていたことでした。
たまに、ご自分でも歌われるそのお声がすばらしいテノールでした。今もはっきり耳に残っています。
肝心の本番のことはすっかり忘れてしまいましたが、小林氏が当日風邪で体調が悪く(もちろん、そんなことを微塵も感じさせない熱演ぶりでした!)、
終演後の楽屋に「面会謝絶」の張り紙が貼ってあったことを鮮明に覚えています。

 

                                                                        つづく