思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

(番外)「海道東征」コンサート

一昨日、8月27日(土)西宮にある芸術文化センター大ホールで、「海道東征」他の演奏を聴いてきました。

6月末に神戸新聞が県内の催し物一覧を載せている中で見つけ、楽しみにすると同時に、関連する本を3冊買って予習(?)をしての鑑賞でした。


主催者は「次世代を担う青少年に贈る」と題していましたが、ほぼ満席の聴衆の8割方は、自分も含めて「半世紀以上前の青少年」ばかり。

第一部はビバルディの「四季」。バイオリン独奏・中野りなさんの演奏は、とても18歳とは思えない堂々とした感じ。

第二部に「海道東征」が演奏されました。ステージ両サイドに電光掲示板(?)があり、歌詞が出るのですが、40年も仕事で古語に親しんだ(?)はずの者でも、(予習の成果むなしく)北原白秋の言葉遣いは難しすぎました。

YouTubeでも繰り返し聴いて「予習」していました。

演奏は、近年のものが東京混声、戦前の方は東京音楽学校バリトンソロは中山悌一氏だったか)で、それが頭に残っているせいか、正直にいわせてもらうと、アルトのソロの中には「????」という感じの部分もあったように思います。

しかし、40名弱の人数で、この壮大なカンタータを歌い上げられた神戸市混声の皆さんは立派でした。

下は直前の「参考書」2冊

少し前に買っていたマニアックな一冊

 

戦後長らく、GHQにより封印され、日本人自らも敬遠し続けてきた「海道東征」とか海ゆかばという信時潔の二大傑作が、近年こうして立派なコンサートホールで上演されるというのは、素晴らしいことではないでしょうか。

まさか、県内で聴ける日が来ようとは・・・・・。

 

最後の海ゆかばについては、かなり前に海ゆかばのすべて」というCDを買っていて、いろんなバージョンがあることは知っていました。

当日の演奏については、指揮者もそうですが、神戸市混声の皆さんも比較的お若いせいもあるのでしょうか、元気よく、溌剌と歌い上げられていたような印象を受けました。やはり、この曲は情感たっぷりと、もう少し緩いテンポでも良かったのかと思った次第です。

 

これが海上自衛隊のコンサートだったら、アンコールに「軍艦行進曲」というところですが、さすがに今回はアンコールなしでした。

 

帰りの電車内で、感動覚めやらぬうちにとFacebookに投稿しました。

投稿を見た人の中には、「え!?ひょっとしてネット右翼!?」と言う感想を持った方が居たかも知れませんが、そうではありません。念のため!

 

高度経済成長期に学校生活を送った我々前期高齢者ですが、改めて自国の成り立ち(神話にすぎないという人も居ますが・・・・)についていかに知らない(教えられていない)かということを今回は実感したことでした。

♪ 「海ゆかば」

新保祐司信時潔』(構想社、2005年)の表紙

https://www.youtube.com/watch?v=wXSCoKqy8MI
    演奏:東京音楽学校昭和16年

 前回の投稿から2ヶ月近くが経っていました。
 たまたま、このブログを見られた方の多くには必要のないことかも知れませんが、一応この曲の紹介です。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(む)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへり見はせじ
(長閑(のど)には死なじ)

 

海行かば(うみゆかば)は、日本の国民歌謡の一つ、歌曲、合唱曲。特に太平洋戦争中は準国歌、第二国歌とも呼ばれた(ただし、法的に認められたものではない)。
詞は、『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番。『新編国歌大観』番号4119番。大伴家持作)の長歌から採られている。作曲された歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)の引用部分にほぼ相当する。
この詞には、1880年明治13年)に当時の宮内省伶人だった東儀季芳も作曲しており、軍艦行進曲(軍艦マーチ)の中間部に聞くことができる。戦前においては、将官礼式曲として用いられた。歌詞は奈良時代歌人大伴家持の詞に基づく  (Wikipedia

 

 「思い出の中の~」というブログのタイトルですが、昭和30年生まれの私が、この歌をリアルタイムで聴いたはずはなく、いったい、いつに知ったんだろうと思っていました。
 でも、よくよく考えると、学生時代に映画館で観て、近年ではAmazon Prime Videoでも視聴した映画トラ・トラ・トラ!(Tora! Tora! Tora!、1970年)の一シーンで知ったのではないかと思うようになってきました。

映画「トラ・トラ・トラ!」より
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27912880

  映画の冒頭で山村聰が扮する山本五十六中将の連合艦隊司令長官就任式の場面で海軍軍楽隊が将官礼式曲として、この海ゆかばを演奏しています。

 ドイツ音楽風の重厚なハーモニー、格調高い曲調などから、戦前の日本にもこんな曲を作る人が居たのかと、作曲者の信時潔に興味をもち、これは後年のことですが、新保祐司信時潔』(構想社、2005年)を買って読んだり、CD「海ゆかばのすべて」(キングレコード、2005年)を繰り返し聴いたりしていました。
 さらに近年は、すっかりYouTubeオヤジ(ジイジ?)」になって、CDにはなかった様々な演奏を聴くようにもなりました。

 

信時潔(明治20~昭和40年、1887―1965)
作曲家。大阪生まれ。東京音楽学校でチェロと作曲を学び、1910年(明治43)卒業後さらに研究科を修了して、20年(大正9)ドイツに留学、作曲をゲオルク・シューマンに師事。帰国後母校の教授を務めた。42年(昭和17)芸術院会員、63年(昭和38)文化功労者。作風はドイツの古典的手法による堅実で荘重なもので、『木の葉集』(1934)などのピアノ曲『沙羅(さら)』(1935)、『やまとには』(1939)などの歌曲や合唱曲が多い。紀元2600年記念祭で初演された交声曲『海道東征』(1940)は、日本人の手になる本格的なカンタータとしてしばしば演奏され、また大伴家持(おおとものやかもち)の歌詞による合唱曲海ゆかば』(1937)は第二次世界大戦中によく歌われた。(コトバンク

 

 先の大戦中においては、この曲がNHKのラジオ放送で、大本営発表の冒頭に流されたことから、悪夢のような時代を想起させるシンボルの一つとして、GHQの命令もあってのことでしょうか、戦後は事実上封印されてしまいました。

 


 
 希代の名曲「軍艦行進曲」はパチンコ屋からよみがえり(笑)、公式行進曲として今でも海上自衛隊のイヴェントでは必ず演奏されますが、こちらは歌詞の内容もあって、この曲のことを云々すると、まちがいなく「右翼」のレッテルを貼られてしまいます。

 ただ、冒頭にも書いたとおり、メロディーとハーモニーは、「あの時代にこんな曲を書ける作曲家がいたのか!」と思わされるほどの強いインパクトが、私にはありました。
 ある批評家の文章ですが、「ハーモニーの美しさによる精神性の発露の最上例」という表現が「言い得て妙」と思い、引用しました。

 「海ゆかば」と、バッハなどの宗教作品のコラールとの近似性はよく指摘されるところだが、「君が代」が洋楽的なハーモニーを拒絶しているのに対し、「海ゆかば」は、まさにハーモニーの美しさによる精神性の発露の最上例と言って良い名作である。曲最後に響くハ長調の純正和音の、なんと心に響く事だろう。
  「日本の作曲家たち/16 信時潔」   http://www.medias.ne.jp/~pas/nobutoki.html

 

 この曲の演奏者としては、伊藤久男さんが一般にはよく知られていますが、今回は音源は古いものの、当時の雰囲気をよく伝えていると思われる東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)生徒によるものを選びました。

♪ 長野県歌「信濃の国」

https://www.youtube.com/watch?v=ePSKD8G7BXE&t=21s
 「長野県チャンネル」

浅井洌作詞・北村季晴作曲 「信濃の国

 

1.信濃の国は十州に 境連ぬる国にして 聲ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
  松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき
2.四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳 浅聞は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり
  流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川 南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり
3.木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し 民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
  しかのみならず桑とりて 蚕飼いの業の打ちひらけ 細きよすがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり
4.尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床 木曽の桟かけし世も 心してゆけ久米路橋
  くる人多き筑摩の湯 月の名にたつ嬢捨山 しるき名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる
5.旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も 春台太宰先生も 象山佐久間先生も 皆此国の人にして
  文武の誉たぐいなく 山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず
6.吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山 穿つ隆道二十六 夢にもこゆる汽車の道
  みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い

 

 作詞は旧松本藩士族の浅井洌(あさい きよし1849年 - 1938年)、作曲は東京府出身の北村季晴(きたむら すえはる、1872年 - 1930年)により、1900年(明治33年)に成立した。元は長野県師範学校附属小学校の郷土唱歌として作られ、その後身に当たる信州大学教育学部附属長野小学校の校歌としても歌い継がれている。
太平洋戦争が終結した1945年(昭和20年)以前は「秋田県民歌」や山形県の「最上川」と並ぶ「三大県民歌」と称され、戦後も実質的な長野県歌として歌われて来たが1968年(昭和43年)5月20日の県告示で正式に長野県歌として制定された。 
1998年第18回長野オリンピック開会式、閉会式の日本選手団の入場にも使われた。
 (Wikipedia

  毎日の食事時には、窓辺に置いた古いラジカセのラジオを聴いているのですが、先日NHKの朝8時台の番組で、この曲がかかっていました。
 初めて聴くという家人に、蘊蓄の一端を話した後、改めてYouTubeで聴いてみました。長野県民なら必ず歌えるというこの歌は、なるほどよく出来た歌詞になっています。ただ、文語調であり、地理、歴史に多少関心がないと、特に今の若い人たちには難しいかも知れません。
 いくつか挙げてみますと・・・・。
1番  「海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき
2番  「国の鎮めなり」 「国の固めなり」
3番  「細きよすがも軽からぬ」
4番  「吾妻はやとし日本武」        等々

 

 「地理、歴史に多少関心がないと~」と言いましたが、実はこの歌は明治時代後半に流行した「地理教育唱歌と呼ばれるジャンルの曲だったのです。
 「♪汽笛一声新橋を~」で知られる、あの鉄道唱歌(大和田建樹作詞・多梅稚 おおのうめわか作曲)と同じジャンルではありますが、こちらは「郷土唱歌の性格をより強く持っていたということができますね。

    当時(明治35年頃)の長野県の尋常小学校では, 児童の誰もが「信濃の国」を暗唱で きるほどであったことを示す ものでもある。「信濃の国」は昭和43年に長野県県歌に制定され, 今日においても県民に愛唱される郷土唱歌の代表的存在といえるもので, 鉄道唱歌」(汽笛一声)とともに, 地理教育唱歌の双壁ということができるかも知れない。
  山口幸男「明治期における地理教育唱歌について」『新地理 41-4』1994年3月

 

浅井洌, 内田慶三 著[他]「信濃唱歌」土原書店、1901年

楽譜には五線譜がなく、数字が並んでいますが、これは「数字譜」*というものだったのですね。「明治から昭和前期までは、五線譜よりむしろ数字譜のほうが普及していた」(Wikipedia)ということです。
* 記譜法の一つ。五線譜上の音符のかわりに、階名唱法(移動ド法)によって音階のドから順に1から7までの数字をあてはめ、高音部、低音部にはそれぞれ数字の上下に点を付し、付点音符は数字の右に点を付して示すなどしたもの。数字記譜法。

 長野県民なら誰でも歌える、県人会の締めくくりはこの歌の大合唱とか聞いたことがありました。
 「誰でも」とは言っても、ある程度の年代以上かと思っていたのですが、明治・大正時代に唱歌遊戯」という形で運動会などで披露されていたものが、現代でも形を変えて行われていることがわかりました。

令和元年諏訪市立下諏訪小学校3・4年生 ダンスバーションの「信濃の国」で踊る児童たち
https://www.city.suwa.lg.jp/soshiki/66/4108.html

  翻って、わが兵庫県はどうなのか。「県歌」とか「県民歌」などというものがあるのかと調べてみると、1947年(昭和22年)に日本国憲法の公布を記念して兵庫県が制定した「兵庫県民歌」というのがあるらしいのですが、県当局も長らく存在を無視したような態度をとっており、実質的に歴史から抹消されたようなことになっています。

 価値観の多様化に伴い、音楽の好みも種々バラバラになった現代に、「今さら県民歌でもないだろう」というのが、多くの人々の本音ではないでしょうか。

 しかし、それにしてもこういう時代を超え、世代を超えて歌い継がれる歌があるというのは素晴らしいことですね!

 長野県と言えば、スキーの修学旅行と個人旅行で8回ぐらいは訪れたでしょうか。中でも、野沢温泉、小諸懐古園などが印象的でした。今度訪れるなら、唱歌「ふるさと」の作詞者・高野辰之記念館などに行ってみたいと思っています。

 もう50年近くも前になりますが、学生時代の下宿に1年間、片桐君という長野県は飯田の出身の人がいました。長野県人で直接知っているのは、その人ぐらいですが、まだ山陽新幹線が広島まで開通していなかった当時、高速バスもないし、いったい広島までどれぐらいの時間を要していたのでしょうか!?飯田線豊橋まで出て、夜行列車にでも乗り継いでいたのかも・・・・。

 たしか、その当時あった教育学部東雲分校の盲学校教員養成課程に在籍していたはずです。どういう経緯かは聞きませんでしたが、志を立ててということだったのでしょうね。

 YouTubeでこの歌を聴いていて、色々なことが思い出されてきました。

♪ 「いつくしみ深き」(「星の世界」「星の界」)

www.youtube.com


演奏者:東京オペラシンガーズ
ピアノ(伴奏と独奏):岡本佳子
テーマ:「にほんのうた」
讃美歌「いつくしみ深き」編曲:寺嶋陸也
NPO法人 音楽は平和を運ぶ
http://music-peace.jp/index.html

 讃美歌312番 いつくしみ深き

いつくしみふかき ともなるイエス
つみ とが うれいを とりさりたもう
こころのなげきを つつまず のべて
などかは おろさぬ おえる おもにを

 

いつくしみふかき ともなるイエス
われらのよわきを しりて あわれむ
なやみ かなしみに しずめるときも
いのりに こたえて なぐさめたまわん

 

いつくしみふかき ともなるイエス
かわらぬ あいもて みちびきたもう
よの とも われらを すてさるときも
いのりに こたえて いたわりたまわん

 

作詞

 この歌を作詞したのはアイルランド人ジョセフ・スクライヴェン (1819 - 1886) 。スクライヴェンはアイルランドのシーパトリックに生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジを卒業して、25歳の時にカナダに移住し、オンタリオの学校で教鞭を取った。彼は、プリマス・ブレザレン派に属して、一生を不幸な人や貧しい人への奉仕活動に捧げた。1886年にライス・レイクで溺死した。この歌は闘病生活をしていた母親を慰めるため、自らの婚約者を事故、病気で2度も失った絶望の中でもイエスを信頼する気持ちを綴った詩と言われている。
 Hasting, Social Hymns, 1865に匿名で収録されて、その後福音唱歌系の歌集に転載された。その後一般の礼拝用歌集に必ず収録されるようになった。1920年には彼が溺死した場所に記念碑が建てられた。

作曲
作曲者はチャールズ・コンヴァース。この曲は、1910年(明治43年)に文部省唱歌となった「星の界(よ)」杉谷代水作詞)、また「星の世界」川路柳虹作詞)にも用いられている。また、「母君にまさる」その他の題名で母親の情愛を歌った日本語歌詞も複数存在する。

出典:Wikipedia

 これまでにお葬式に参列した回数はいったいどれぐらいになるでしょうか。親戚関係だとなんとか計算できそうですが、40年近い現役生活の中での、同僚の父母、(少数ですが)同僚当人となると、とても計算は無理です。
 親しい間柄の方の場合は、情景の一部をぼんやりと思い出せるものもありますが、まず殆どは忘却の彼方と言ってよいでしょう。
 

 そんな中で唯一、キリスト教式のお葬式に参列したのは、もう20年あまりも前のことだったでしょうか、当時の同僚のK氏のお父さんのご葬儀で、たしか神戸市西区西神中央駅近くの葬儀会館においてでした。
 式の途中、この「いつくしみ深き」を式場の皆で歌うシーンがあり、たぶん歌詞を書いたものを見たのでしょうが、周囲の参列者とともに口ずさんだ思い出があります。
 一般にお葬式というと、大概はわからないお経を延々と聞かされて・・・というのが定番ですが、キリスト教式というのはなにしろ初めてのことでしたので、印象深く今も記憶に残っています。

 

 その後、YouTubeで様々な音楽を楽しむようになって、「いつくしみ深き」という賛美歌の替え歌が、小学校の高学年で習った「星の世界」であることや、古くは「星の界(よ)」という難解な歌詞の曲になっていたことを知りました。

 星の世界

作詞:川路柳虹 作曲:コンヴァース

かがやく夜空の 星の光よ
まばたく数多(あまた)の 遠い世界よ
ふけゆく秋の夜 すみわたる空
のぞめば不思議な 星の世界よ

 

きらめく光は 玉か黄金(こがね)か
宇宙の広さを しみじみ思う
やさしい光に まばたく星座
のぞめば不思議な 星の世界よ

(「 広島大学図書館教科書コレクション画像データベース」より
  https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/text/

   『教科統合中学唱歌 第二巻』(1910年)
(第六)星の界

 杉谷代水

(一)月なきみ空に、  きらめく光、
嗚呼その星影、  希望のすがた。
人智は果(はて)なし、  無窮のをちに、
いざ其星の界(よ)、  きはめも行かん。

(二)雲なきみ空に、  横たふ光、
あゝ洋々たる、  銀河の流れ。
仰ぎて眺むる、  萬里のあなた、
いざ棹させよや、  窮理の船に

 明治の終わり頃の中学校唱歌の教科書に掲載されていますが、「無窮の遠(おち)」(=遙かかなた果てしなく遠いところ)「窮理の船」(=星の世界を探求する船)「いざ棹させよや」(=さあ船を漕ぎ出そう)等々、とても後世の義務教育では扱えないような難解な用語が見られます。
 

 さて、実は私は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」というマニアックな(笑)本を自費出版し、アマゾンでも販売しています。(同名のブログもあります)

 この本を書くために色々調べる中で分かったことですが、当時の中学校で唱歌」(音楽)の授業はごく一部の先進的な学校を除いては実施されていなかったと見てよいと思います。

アマゾンで販売中の拙著!



 というのは、明治32年(1899)に改正された「中学校令」の施行規則において、唱歌という教科は「当分之ヲ欠クコトヲ得」とされていたからです。したがって、随意科目である唱歌を実施しない中学校はごく普通に存在したのでした。(昭和 6年に中学校令施行規則が改正され、教科名も「音楽」と改まり一応必修になりました)

 どうも、あの「むくつけき明治の中学生」が学校で(キリスト教徒は別ですが)「もと賛美歌唱歌」を歌う姿が想像できません。

 

 余談ですが、日露戦争の出征兵士を駅頭で見送るのに、軍歌が歌えないというので女学校から音楽の先生来てもらい、慌てて特訓したというエピソード(上掲拙著中の「コラム 日露戦争と中学生」)があるくらいですから・・・・・・。

 

上記拙著から明治30年代半ば頃の盛岡中学生(現・盛岡一高

 アメイジング・グレイスAmazing Grace)という曲はもちろん知っていましたが、あれも元は賛美歌だったのですね!

 キリスト教と切っても切り離せないなのが西洋音楽の歴史ということはわかっていても、何しろ世界史(西洋史)に疎いもので・・・・(;。;)

 特に近年はカタカナ語、横文字、なかなか覚えられません!

♪ 「ふるさとの四季」 ウクライナのオーケストラと合唱団による演奏

www.youtube.com

Shunichiro Genda - Four Seasons in My Hometown.
(Traditional Japanese choral songs)
Academic symphony orchestra "Philharmonia", Chernihiv, Ukraine.
The Chamber Choir "Tsurumi", Osaka, Japan. 
The Chamber Choir named after Dmytro Bortnyansky, Chernihiv, Ukraine.
Mitsunobu Takaya - conductor (Japan)
recording 08.07.2018

高谷光信さん
ウクライナ北部の都市チェルニヒウを拠点とするチェルニヒウ・フィルハーモニー交響楽団常任指揮者(日本国内でも多くのオケ合唱団の指揮をされています)

 コロナ禍のなかのゴールデンウィーク、3年ぶりに全国各地の観光地では、多くの人出でにぎわう様子が毎日ニュースで報じられていますが、所属する合唱団は活動休止から2年と3ヶ月が経過しようとしていますが、再開の見通しは立っていません。
 そんな状況でも、各地でアマチュア合唱団の定期演奏会などが開かれているようですが、なにせ高齢者の多い、「ほぼシルバーコーラス」の我が団では慎重な姿勢をとらざるを得ないようです。
 毎日のようにYouTubeでいろいろなお気に入りの合唱曲などは聴いているのですが、私が定年退職後すぐにこの団に入って初めての定期演奏会で歌ったのが、この源田俊一郎編曲による「ふるさとの四季」でした。
 メドレーの曲順は下記のようになっており、歌う方も聴く方も飽きないような、それぞれの歌の特長を活かしたすばらしいアレンジがなされています。

1    故郷    岡野 貞一
2    春の小川    岡野 貞一
3    朧月夜    岡野 貞一
4    鯉のぼり    文部省唱歌
5    茶摘    文部省唱歌
6    夏は来ぬ    小山 作之助
7    われは海の子    文部省唱歌
8    村祭    文部省唱歌
9    紅葉    岡野 貞一
10    冬景色    文部省唱歌
11    雪    文部省唱歌
12    故郷

 あちこちの合唱団やプロの方々のアンサンブルなどがYouTubeにはアップされていますが、先日偶然に高谷光信さん(高谷氏の指揮による東京混声のコンサートは大阪で3回聴きに行きました)が常任を務められているウクライナのオーケストラと現地の合唱団(前列は大阪の女声コーラス)が演奏されている、今から4年ほど前の動画に出会いました。
 日本語の歌詞を外国人特有の深い響きで歌われているのが印象的ですが、何よりも時節柄貴重な動画ということで、所属しているFacebookのグループ「集まれ合唱!」に冒頭の動画を投稿したところ、すぐに50人近いグループのメンバーから「いいね!」のリアクションやコメントをいただきました。
 

 繰り返し聴いているうちに、早く活動が再開された日には、もう一度この曲が歌いたいなと思い続けている今日この頃です!

 

 今日は「こどもの日」!

 以前は、あちこちで緑の風に吹かれて泳ぐ鯉のぼりが見られたものですが、テレビや新聞などの報道を除けば、私の住む播州の田舎でも、実際に見かけることは少なくなりました。

 そういう自分も、4年前に今年5歳になる孫に買って贈ったのは、マンション暮らし用のミニ鯉のぼりでした。

 住宅事情だけでなく、そもそも田舎では近所にこどもの姿はありません。

 月に一度の「見守り隊」で交差点に立っていますが、小学生の数も年々減ってきて・・・・(;。;)

 

♪ 「ブルーシャトウ」(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)

www.youtube.com

 先日、某地方紙の夕刊のコラムで、 ジャッキー吉川とブルー・コメッツの大ヒット作である、この「ブルーシャトウ」のことを取り上げている記事を見て、すぐさま頭の中にメロディーが浮かんできました。
   「シャトウ」が、身分の高い人が暮らす「城」「宮殿」ということなど、何も知らず聴いたり歌ったりしていた、50数年前の田舎の小学生時代のことが次々と思い出されてきました。

「ブルー・シャトウ」橋本淳作詞・井上忠夫作曲    

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

 

森と泉に かこまれて
静かに眠る ブルー ブルー
ブルー シャトウ

 

あなたが僕を 待っている
暗くて淋しい ブルー ブルー
ブルー シャトウ

きっとあなたは 紅(あか)いバラの
バラのかおりが 苦しくて
涙をそっと 流すでしょう

 

夜霧のガウンに 包まれて
静かに眠る ブルー ブルー
ブルー シャトウ ブルー

ブルー ブルー ブルー ブルー
ブルー シャトウ

きっとあなたは 紅いバラの
バラのかおりが 苦しくて
涙をそっと 流すでしょう

夜霧のガウンに 包まれて
静かに眠る ブルー ブルー
ブルー シャトウ ブルー

ブルー ブルー ブルー ブルー
ブルー シャトウ

 

昭和42年(1967)3月15日に発売され、レコード売上150万枚の同グループ最大のヒット曲となり、第9回日本レコード大賞を受賞した。またこの曲は『第18回NHK紅白歌合戦』(1967年)の際の出場曲で、同時にグループとして2回目の出場曲でもある。橋本淳作詞、井上忠夫(後に井上大輔)作曲、森岡賢一郎編曲。(Wikipedia

 

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若い人たちには,右上の「45」の意味はわからないでしょうね(笑)

 昭和39年(1964)の東京オリンピックが終わった後、40年代に入ると、(自分の記憶の中では)グループサウンズの大ブームとムードコーラスグループの流行があったように思います。
 前者で覚えているのは、ヴィレッジシンガーズザ・タイガース、ザ・テンプターズザ・ワイルドワンズなどですが、よく聴いたのは、このジャッキー吉川とブルー・コメッツが一番でしょうか。
 グループサウンズには、若い女性を中心に熱狂的なファンが多かった中で、ジャッキー吉川とブルー・コメッツは、ザ・タイガースと比較するとよくわかりますが、少し大人っぽく、真面目な感じのスーツにネクタイという衣装に歌っている曲の雰囲気もあってでしょうか、もう少し広い世代に好まれていたように思います。

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ザ・タイガースのメンバー、中央が沢田研二

 

 後者では、内山田洋とクール・ファイブ黒沢明ロス・プリモス鶴岡雅義と東京ロマンチカ和田弘とマヒナスターズなどのヒット曲が今でも鮮明に思い出されます。

 

 それまでの謡曲では、歌い手の背後でフルバンドが演奏するという形態が一般的でしたが、グループ・サウンズの登場は、当時小学6年生でしたが、子ども心にかなりインパクトのある出来事でした。
 既にビートルズベンチャーズなどに影響された若者たちは、すぐさまエレキギターの虜(とりこ)になっていましたが、グループサウンズの登場で、さらに範囲が拡大したと思います。
 純農村地帯に育った私ですが、同級生には商店の跡継ぎやサラリーマンの子女も多く、そんな「町の子」の中でちょっと生意気な(?)男の子が一人エレキギターを買ってもらっていました。

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当時のエレキギター



 エレキギターをみせたろうか!?」というので、商店街の一角にある、その子のうちに同級生と行ったこともありましたね。
 ただ、一般には長らく「エレキ=不良」というイメージが、特に田舎ではつきまとっていましたし、その後、中高と吹奏楽部に入ったこともあり、クラッシックには少し親しみましたが、エレキも含めてギターには、とうとう縁がないままでした。

 

 さて、「ブルーシャトウ」ですが、間奏の中で作曲者である井上忠夫(後に井上大輔)さんが、フルートを少し吹いてから歌に入るというのが、斬新でカッコよく見えたものでした。(冒頭の動画では、フルートをバトンのように回しています・笑)
 また、前奏も歌謡曲や演歌に慣れていた少年にとっては、半世紀以上経っても忘れられないメロディーとして耳の奥に残っています。

 

 その頃、よく流行った替え歌「森トンカツ、泉ニンニク~♪」を歌っていた小学生たちも、もう60代後半!多くはジイジ、バアバになってしまいました(;。;)
  

 エレキギターを見せてくれたH君は、地方紙の三面記事で久しぶりに名前を見かけた(たしか覚○剤所持だったかな?)後は消息不明でしたが、40代で亡くなったと風の便りで聞きました。

♪ 合唱曲「群青」

https://www.youtube.com/watch?v=hwWIBwaXkUs

先日、高校の同級生のLINEグループに、「娘の卒業式に出席して感動した」という内容の投稿がありました。
私も遅かったですが、この投稿者A君の場合は、48歳の時の子どもさんということで、もうお孫さんに近く、可愛くてしかたないのでしょうね(笑)

去年の今頃に投稿しましたが、卒業式の歌も時代の流れにつれて変わってきているようです。
「卒業式ソングランキング30」
 https://www.uta-net.com/user/close_up/graduation2014/

この中に、それほど多くはないのですが、合唱曲「群青」があります。

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パナムジカホームページより https://www.panamusica.co.jp/ja/appeal/gunjo/

作詞:福島県南相馬市立小高中学校平成24年度卒業生(構成:小田美樹)
作曲:福島県南相馬市立小高中学校音楽教諭 小田美樹
編曲:信長貴富

 ああ あの町で生まれ
君と出会い
たくさんの思い抱いて
いっしょに時を過ごしたね

 

今 旅立つ日
見える景色は違っても
遠い場所で 君も同じ空
きっと見上げてるはず

 

「またね」と手を振るけど
明日も会えるのかな
遠ざかる君の笑顔 今でも忘れない

 

あの日見た夕陽 あの日見た花火
いつでも君がいたね
あたりまえが 幸せと知った
自転車をこいで 君と行った海
鮮やかな記憶が
目を閉じれば群青に染まる

 

あれから2年の日が
僕らの中を過ぎて
3月の風に吹かれ 君をいまでも思う

 

響け この歌声
響け 遠くまでも
あの空の彼方へも
大切なすべてに届け

 

涙のあとにも 見上げた夜空に
希望が光っているよ
僕らを待つ群青の町で

 

きっとまた会おう
あの町で会おう
僕らの約束は
消えはしない 群青の絆

 

また 会おう 群青の町で・・・

この歌の成り立ちについては、東日本大震災との関連でよく知られてはいますが、念のために・・・。
 

 福島第一原子力発電所から半径20km圏内に位置する福島県南相馬市小高(おだか)区は、東日本大震災による原発事故のため全住民が今なお避難生活を余儀なくされており、小高中学校も市内の別の学校に間借りをして授業を行っています。「群青」は、その小高中学校の生徒たちが、離ればなれになってしまった仲間を思って、つぶやいたり、書き留めた言葉の数々を同校の小田美樹教諭が綴って曲をつけた作品です。
 2013年3月に行われた復興支援コンサート「Harmony for JAPAN 2013」で同校合唱部によって演奏され、 会場に大きな感動を呼び起こしました。その「群青」が、やはりそのコンサートに居合わせて曲に感銘をうけた作曲家・信長貴富氏の編曲を得て 3種の合唱編曲版となりました。子どもたちのこれ以上ない正直な気持ちと、 彼らを一番近くで見守り共に歩んできた小田先生が作り出した音楽が放つ強いメッセージは、私たちの心に深く突き刺さります。
 どうぞ皆さん歌ってください!ご自分の中にある大切な友やふるさとを思いながら…
 そして「群青の子」らがいつの日か「群青の町」で再会する日を願いながら…。
(パナムジカホームページより)

さて、この曲との出会いですが、数年前の9月に隣の市で開かれた混声合唱フェスティバルという、近隣三つの市の混声合唱団の発表会でした。

主催者の代表が40年来のコーラス仲間のSさんということで聴きに行ったのですが、そこで初めてこの曲を知りました。

30代後半から定年までの間は合唱と縁が切れており、この間に結構知られていたはずですが、私には初めてでした。

大変失礼ながら、もう少し大編成で上手な演奏をとYouTubeでさがして色々聴いているうちに、じわじわとこの曲の素晴らしさがわかってきたような気がしました。

 

これを学年の全員で卒業式で歌うとなると、相当な練習が必要です。コロナ禍以前はどこの中学校でも、時間をかけて練習されていたようですが、今や音楽室から歌声が聞こえてこないという異常事態が2年も続いています。私たちのほぼシルバーコーラス(笑)も同様で、練習休止が2年を過ぎました(;。;)
同級生A君が出席した母校では、録音した音源を流していたということですから、きっと全国的にも同じようなことなのでしょう。

 

有本真紀『卒業式の歴史学』(講談社選書メチエ 2013年)によれば、小学校の卒業式が定型化して、式中に君が代」「蛍の光」「仰げば尊しがセットで歌われるようになったのは、明治30年前後(1890年代後半)ということです。それから120年ぐらいは必ず何らかの式歌を歌ってきたわけですが、ここに来て初めて(100年ほど前のスペイン風邪の時のことは不明ですが)「歌わない卒業式」が続いているのですね!!

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※前回の記事からちょうど一月経ってしまいました。別のブログに忙しくというのが言い訳ですが、少しは暖かくなってきているので、折に触れて思い出した楽曲のことを、またとりとめもなく書いてみたいと思います。