思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 「いつくしみ深き」(「星の世界」「星の界」)

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演奏者:東京オペラシンガーズ
ピアノ(伴奏と独奏):岡本佳子
テーマ:「にほんのうた」
讃美歌「いつくしみ深き」編曲:寺嶋陸也
NPO法人 音楽は平和を運ぶ
http://music-peace.jp/index.html

 讃美歌312番 いつくしみ深き

いつくしみふかき ともなるイエス
つみ とが うれいを とりさりたもう
こころのなげきを つつまず のべて
などかは おろさぬ おえる おもにを

 

いつくしみふかき ともなるイエス
われらのよわきを しりて あわれむ
なやみ かなしみに しずめるときも
いのりに こたえて なぐさめたまわん

 

いつくしみふかき ともなるイエス
かわらぬ あいもて みちびきたもう
よの とも われらを すてさるときも
いのりに こたえて いたわりたまわん

 

作詞

 この歌を作詞したのはアイルランド人ジョセフ・スクライヴェン (1819 - 1886) 。スクライヴェンはアイルランドのシーパトリックに生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジを卒業して、25歳の時にカナダに移住し、オンタリオの学校で教鞭を取った。彼は、プリマス・ブレザレン派に属して、一生を不幸な人や貧しい人への奉仕活動に捧げた。1886年にライス・レイクで溺死した。この歌は闘病生活をしていた母親を慰めるため、自らの婚約者を事故、病気で2度も失った絶望の中でもイエスを信頼する気持ちを綴った詩と言われている。
 Hasting, Social Hymns, 1865に匿名で収録されて、その後福音唱歌系の歌集に転載された。その後一般の礼拝用歌集に必ず収録されるようになった。1920年には彼が溺死した場所に記念碑が建てられた。

作曲
作曲者はチャールズ・コンヴァース。この曲は、1910年(明治43年)に文部省唱歌となった「星の界(よ)」杉谷代水作詞)、また「星の世界」川路柳虹作詞)にも用いられている。また、「母君にまさる」その他の題名で母親の情愛を歌った日本語歌詞も複数存在する。

出典:Wikipedia

 これまでにお葬式に参列した回数はいったいどれぐらいになるでしょうか。親戚関係だとなんとか計算できそうですが、40年近い現役生活の中での、同僚の父母、(少数ですが)同僚当人となると、とても計算は無理です。
 親しい間柄の方の場合は、情景の一部をぼんやりと思い出せるものもありますが、まず殆どは忘却の彼方と言ってよいでしょう。
 

 そんな中で唯一、キリスト教式のお葬式に参列したのは、もう20年あまりも前のことだったでしょうか、当時の同僚のK氏のお父さんのご葬儀で、たしか神戸市西区西神中央駅近くの葬儀会館においてでした。
 式の途中、この「いつくしみ深き」を式場の皆で歌うシーンがあり、たぶん歌詞を書いたものを見たのでしょうが、周囲の参列者とともに口ずさんだ思い出があります。
 一般にお葬式というと、大概はわからないお経を延々と聞かされて・・・というのが定番ですが、キリスト教式というのはなにしろ初めてのことでしたので、印象深く今も記憶に残っています。

 

 その後、YouTubeで様々な音楽を楽しむようになって、「いつくしみ深き」という賛美歌の替え歌が、小学校の高学年で習った「星の世界」であることや、古くは「星の界(よ)」という難解な歌詞の曲になっていたことを知りました。

 星の世界

作詞:川路柳虹 作曲:コンヴァース

かがやく夜空の 星の光よ
まばたく数多(あまた)の 遠い世界よ
ふけゆく秋の夜 すみわたる空
のぞめば不思議な 星の世界よ

 

きらめく光は 玉か黄金(こがね)か
宇宙の広さを しみじみ思う
やさしい光に まばたく星座
のぞめば不思議な 星の世界よ

(「 広島大学図書館教科書コレクション画像データベース」より
  https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/text/

   『教科統合中学唱歌 第二巻』(1910年)
(第六)星の界

 杉谷代水

(一)月なきみ空に、  きらめく光、
嗚呼その星影、  希望のすがた。
人智は果(はて)なし、  無窮のをちに、
いざ其星の界(よ)、  きはめも行かん。

(二)雲なきみ空に、  横たふ光、
あゝ洋々たる、  銀河の流れ。
仰ぎて眺むる、  萬里のあなた、
いざ棹させよや、  窮理の船に

 明治の終わり頃の中学校唱歌の教科書に掲載されていますが、「無窮の遠(おち)」(=遙かかなた果てしなく遠いところ)「窮理の船」(=星の世界を探求する船)「いざ棹させよや」(=さあ船を漕ぎ出そう)等々、とても後世の義務教育では扱えないような難解な用語が見られます。
 

 さて、実は私は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」というマニアックな(笑)本を自費出版し、アマゾンでも販売しています。(同名のブログもあります)

 この本を書くために色々調べる中で分かったことですが、当時の中学校で唱歌」(音楽)の授業はごく一部の先進的な学校を除いては実施されていなかったと見てよいと思います。

アマゾンで販売中の拙著!



 というのは、明治32年(1899)に改正された「中学校令」の施行規則において、唱歌という教科は「当分之ヲ欠クコトヲ得」とされていたからです。したがって、随意科目である唱歌を実施しない中学校はごく普通に存在したのでした。(昭和 6年に中学校令施行規則が改正され、教科名も「音楽」と改まり一応必修になりました)

 どうも、あの「むくつけき明治の中学生」が学校で(キリスト教徒は別ですが)「もと賛美歌唱歌」を歌う姿が想像できません。

 

 余談ですが、日露戦争の出征兵士を駅頭で見送るのに、軍歌が歌えないというので女学校から音楽の先生来てもらい、慌てて特訓したというエピソード(上掲拙著中の「コラム 日露戦争と中学生」)があるくらいですから・・・・・・。

 

上記拙著から明治30年代半ば頃の盛岡中学生(現・盛岡一高

 アメイジング・グレイスAmazing Grace)という曲はもちろん知っていましたが、あれも元は賛美歌だったのですね!

 キリスト教と切っても切り離せないなのが西洋音楽の歴史ということはわかっていても、何しろ世界史(西洋史)に疎いもので・・・・(;。;)

 特に近年はカタカナ語、横文字、なかなか覚えられません!