思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 長野県歌「信濃の国」

https://www.youtube.com/watch?v=ePSKD8G7BXE&t=21s
 「長野県チャンネル」

浅井洌作詞・北村季晴作曲 「信濃の国

 

1.信濃の国は十州に 境連ぬる国にして 聲ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
  松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき
2.四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳 浅聞は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり
  流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川 南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり
3.木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し 民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
  しかのみならず桑とりて 蚕飼いの業の打ちひらけ 細きよすがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり
4.尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床 木曽の桟かけし世も 心してゆけ久米路橋
  くる人多き筑摩の湯 月の名にたつ嬢捨山 しるき名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる
5.旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も 春台太宰先生も 象山佐久間先生も 皆此国の人にして
  文武の誉たぐいなく 山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず
6.吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山 穿つ隆道二十六 夢にもこゆる汽車の道
  みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い

 

 作詞は旧松本藩士族の浅井洌(あさい きよし1849年 - 1938年)、作曲は東京府出身の北村季晴(きたむら すえはる、1872年 - 1930年)により、1900年(明治33年)に成立した。元は長野県師範学校附属小学校の郷土唱歌として作られ、その後身に当たる信州大学教育学部附属長野小学校の校歌としても歌い継がれている。
太平洋戦争が終結した1945年(昭和20年)以前は「秋田県民歌」や山形県の「最上川」と並ぶ「三大県民歌」と称され、戦後も実質的な長野県歌として歌われて来たが1968年(昭和43年)5月20日の県告示で正式に長野県歌として制定された。 
1998年第18回長野オリンピック開会式、閉会式の日本選手団の入場にも使われた。
 (Wikipedia

  毎日の食事時には、窓辺に置いた古いラジカセのラジオを聴いているのですが、先日NHKの朝8時台の番組で、この曲がかかっていました。
 初めて聴くという家人に、蘊蓄の一端を話した後、改めてYouTubeで聴いてみました。長野県民なら必ず歌えるというこの歌は、なるほどよく出来た歌詞になっています。ただ、文語調であり、地理、歴史に多少関心がないと、特に今の若い人たちには難しいかも知れません。
 いくつか挙げてみますと・・・・。
1番  「海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき
2番  「国の鎮めなり」 「国の固めなり」
3番  「細きよすがも軽からぬ」
4番  「吾妻はやとし日本武」        等々

 

 「地理、歴史に多少関心がないと~」と言いましたが、実はこの歌は明治時代後半に流行した「地理教育唱歌と呼ばれるジャンルの曲だったのです。
 「♪汽笛一声新橋を~」で知られる、あの鉄道唱歌(大和田建樹作詞・多梅稚 おおのうめわか作曲)と同じジャンルではありますが、こちらは「郷土唱歌の性格をより強く持っていたということができますね。

    当時(明治35年頃)の長野県の尋常小学校では, 児童の誰もが「信濃の国」を暗唱で きるほどであったことを示す ものでもある。「信濃の国」は昭和43年に長野県県歌に制定され, 今日においても県民に愛唱される郷土唱歌の代表的存在といえるもので, 鉄道唱歌」(汽笛一声)とともに, 地理教育唱歌の双壁ということができるかも知れない。
  山口幸男「明治期における地理教育唱歌について」『新地理 41-4』1994年3月

 

浅井洌, 内田慶三 著[他]「信濃唱歌」土原書店、1901年

楽譜には五線譜がなく、数字が並んでいますが、これは「数字譜」*というものだったのですね。「明治から昭和前期までは、五線譜よりむしろ数字譜のほうが普及していた」(Wikipedia)ということです。
* 記譜法の一つ。五線譜上の音符のかわりに、階名唱法(移動ド法)によって音階のドから順に1から7までの数字をあてはめ、高音部、低音部にはそれぞれ数字の上下に点を付し、付点音符は数字の右に点を付して示すなどしたもの。数字記譜法。

 長野県民なら誰でも歌える、県人会の締めくくりはこの歌の大合唱とか聞いたことがありました。
 「誰でも」とは言っても、ある程度の年代以上かと思っていたのですが、明治・大正時代に唱歌遊戯」という形で運動会などで披露されていたものが、現代でも形を変えて行われていることがわかりました。

令和元年諏訪市立下諏訪小学校3・4年生 ダンスバーションの「信濃の国」で踊る児童たち
https://www.city.suwa.lg.jp/soshiki/66/4108.html

  翻って、わが兵庫県はどうなのか。「県歌」とか「県民歌」などというものがあるのかと調べてみると、1947年(昭和22年)に日本国憲法の公布を記念して兵庫県が制定した「兵庫県民歌」というのがあるらしいのですが、県当局も長らく存在を無視したような態度をとっており、実質的に歴史から抹消されたようなことになっています。

 価値観の多様化に伴い、音楽の好みも種々バラバラになった現代に、「今さら県民歌でもないだろう」というのが、多くの人々の本音ではないでしょうか。

 しかし、それにしてもこういう時代を超え、世代を超えて歌い継がれる歌があるというのは素晴らしいことですね!

 長野県と言えば、スキーの修学旅行と個人旅行で8回ぐらいは訪れたでしょうか。中でも、野沢温泉、小諸懐古園などが印象的でした。今度訪れるなら、唱歌「ふるさと」の作詞者・高野辰之記念館などに行ってみたいと思っています。

 もう50年近くも前になりますが、学生時代の下宿に1年間、片桐君という長野県は飯田の出身の人がいました。長野県人で直接知っているのは、その人ぐらいですが、まだ山陽新幹線が広島まで開通していなかった当時、高速バスもないし、いったい広島までどれぐらいの時間を要していたのでしょうか!?飯田線豊橋まで出て、夜行列車にでも乗り継いでいたのかも・・・・。

 たしか、その当時あった教育学部東雲分校の盲学校教員養成課程に在籍していたはずです。どういう経緯かは聞きませんでしたが、志を立ててということだったのでしょうね。

 YouTubeでこの歌を聴いていて、色々なことが思い出されてきました。