思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 唱歌「灯台守」

~灯台守~NHK東京児童合唱団 - YouTube

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作詞:勝承夫

1
こおれる月かげ 空にさえて
ま冬のあら波 寄する小島(おじま)
思えよ灯台 守る人の
尊きやさしき 愛の心
2
はげしき雨風 北の海に
山なす荒波 たけりくるう
その夜も灯台 守る人の
尊きまことよ 海を照らす

1947年(昭和22年)、文部省発行の教科書「5年生の音楽」に掲載

灯台守の歌が2週続きます。

言うまでもなく、「喜びも悲しみも幾年月」からの単純な連想です。これという思い出があるわけではありませんが、小学校の高学年で習ったこの歌は結構好きな曲で、YouTubeでよく視聴していました。

すると、歌声サークルの動画が上がっていたりして、やはり中高年には好まれているんだなと再認識した次第です。

 

今回、この歌を取り上げるに際して、いつものようにネット検索から入りますと、上の灯台の画像にある「イギリス民謡」というのは、根拠不明のようです。

灯台守」:勝承夫作詞の学校唱歌。曲はイギリス民謡と言われていたが、「仰げば尊し」がアメリカの曲であることを発見した桜井雅人によって、この曲もアメリカの曲であったことが明らかにされた。
原曲は一般的に「イギリス曲」「イギリス民謡」とされるが、典拠は不明である。

一橋大学教授(後に名誉教授)の櫻井雅人は、ほぼ同じメロディの曲が、1881年にニューヨークで出版された『フランクリン・スクウェア・ソング・コレクション第1集』(Franklin Square Song Collection, No.1)に「The Golden Rule」として収録されていることを突き止めた。同書は作詞・作曲者はともに不明と記している。同書は初出の作品を集めた歌集ではないため他の歌集からの転載と推測されるが、それ以上のことは不明である。(Wikipedia

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「旅泊」その他 : 外国曲からの唱歌四曲
櫻井, 雅人
 2005-09-01
 一橋論叢 Volume 134

初めは、「鉄道唱歌」(汽笛一声新橋を~)で知られる大和田建樹の作詞により、大和田建樹・奥好義編 『明治唱歌第三集』 (明治28年・1895)に掲載されています。

このときは、「旅泊」というタイトルでした。

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 一 礒の火ほそりて 更くる夜半に
  岩うつ 波音 ひとりたかし
  かかれる友舟 ひとり寝たり
  たれにか かたらん 旅の心

 二 月影かくれて からす啼きぬ
  年なす長夜も あけにちかあし
  おきよや舟人 おちの山に
  横雲なびきて 今日も のどか
  (「明治唱歌(三)」明治22.6)

本当に、「こんな難しい歌詞をその頃の小学生は歌ってたの?」と疑いたくなるような歌ですね。特に、「かかれる友舟」とか「おちの山に」が耳慣れない言葉だと思います。

よく考えてみると、明治  20年代に小学校で西洋音楽を教えられる先生はまずいなかったはずで、この歌も実際には歌われてなかったとするのが妥当と思われます。

 

歌詞については、難しいはずです。

こんな論文がありました。

大和田建樹作詞の明治唱歌「旅泊」は、海辺での仮泊の旅愁を歌った名品であるが、曲自体はイギリスの曲と言われている。更にその歌詞は、唐の詩人張継の七言絶句「楓橋夜泊」をそっくり利用している。曲は西洋、歌詞は漢詩の利用、歌うのは日本人。両者の比較を通し切て当時の東洋と西洋との文化の融合蘇州寒山寺を詠んだ張継の「楓橋夜泊」はあまりにも名高い。この詩は中国でも愛唱されたが、現代日本でもNHKの「ゆく年くる年」などで除夜の鐘として放映されて名高く、時代劇の床の間などの掛け軸としてかかっていることも多い。その昔の流行歌「蘇州夜曲」にも「鐘も鳴ります寒山寺」とあった。

楓橋夜泊 張継

月落烏喘霜満天
江風漁火対愁眠
姑蘇城外寒山
夜半鐘声到客船

月落ち烏喘きて霜天に満つ
江風漁火愁眠に対す
姑蘇城外の寒山
夜半の鐘声客船に到る

(中略)

「旅泊」が「楓橋夜泊」を粉本としたことは、一目瞭然である。特に「月影かくれてからす喘きぬ」は「月落鳥喘」をそのまま訓読した感がある。現代の目からみると剰窃のようにも思えるが、明治時代には先行作品を利用することはごく普通に行われていた。歌詞が漢詩をそのまま翻訳しているだけでなく、うたわれている内容も起承転結の展開をしており、絶句の構成そのものである。

丹羽博之:大和田建樹作詞「旅泊」と唐張継「楓橋夜泊」
ー明治唱歌による和洋中文化の融合丹羽博之ー
大手前大学人文科学部論集』巻6、2005年

※現役時代に扱ったことのある教材(漢詩)ですが、仕事を離れて5年も経つとダメですね。明治時代の詩を見ても、全く想像できませんでした。

 

戦後の昭和22年に教科書に載ったときも、今、改めて見ると難しい言葉遣いになっています。

こおれる月かげ   寄する小島(おじま) 山なす荒波 たけりくるう

 

灯台無人化が進み、歌詞の文語調が時代に合わないということで、(いつ頃かは調べられていませんが)教科書から消えたのではないでしょうか。

 

作詞の勝 承夫さんについては、名前の読み方が長らく分かりませんでした。

一時、木山捷平さん関連の本を集めまくっていたことがあり、木山さんに影響を与えた人物ということは知っていたのですが・・・。

(かつ よしお、1902年(明治35年)1月29日 - 1981年(昭和56年)8月3日)は、東京市四谷区(現・東京都新宿区)出身の詩人。元日本音楽著作権協会会長。元東洋大学理事長。

 

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木山さんの師匠である井伏鱒二さんにこんな文章がありました。

その頃、田舎にいた木山君は、東京の若い詩人宵島俊吉にあこがれて、宵島の通学している東洋大学へ入るため上京した。宵島は本名を勝承夫と云い、若い天才詩人と云われて大変な評判であった。今で云えば、三島由紀夫太宰治を一緒にしたような人気があった、

井伏鱒二木山捷平の詩と日記」(『風貌・姿勢』講談社文芸文庫

 

知りませんでしたが、大正の終わりから昭和の初め頃には、人気のある詩人だったのですね。井伏さんの喩えはちょっとオーバーでしょうが(笑)

子どもの頃聞いた歌では、次のような歌の訳詞や作詞をされていました。

「故郷の人々」( フォスター作曲)・・・はるかなるスワニー河、その下(しも)~

「小ぎつね」・・・  小狐(こぎつね) コンコン 山の中 山の中~

「夜汽車」・・・ いつも、 いつも、とおる夜汽車

時代が変わっても、我々世代には、忘れられない歌の一つに違いはありません👌