思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 「愛の喜び:Piacer d'amor」(マルティーニ)

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テノール:志摩大喜)

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『愛の喜びは』(仏語:Plaisir d'Amour, 伊語:Piacer d'amor)は、ジャン・ポール・マルティーニが作曲した歌曲。作詞はジャン・ピエール・クラリス

 アメリカのロックンロールミュージシャン・エルヴィス・プレスリーのシングル「好きにならずにいられない」の原曲でもある。

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ジャン・ポール・エジード・マルティニ(Jean Paul Egide Martini, 1741年8月31日 - 1816年2月14日 パリ)は、ドイツのフライシュタット出身のフランスの作曲家。本名はヨハン・パウル・エギディウス・シュヴァルツェンドルフ
 フランス語歌曲《愛の喜び Plaisir d'Amour》が代表作。作詞は ジャン・ピエール・クラリス。これは時にイタリア語の歌詞でも歌われる。日本では、好んで結婚式のBGMにも使われるが、歌詞の大意は「愛の喜びは長続きしない。愛の苦しみだけが長続きする。僕のつれないシルヴィアは……」というもので、恋愛賛美の内容ではなく、不実な恋人についての愚痴である。 (Wikipedia

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土曜の昼下がり、図書館で借りてきたばかりの「よくわかる音楽の仕組みと科学」(岩見や眞一郎著)を読み始めたとき、コラム「強烈な音楽体験」の中の次の一節に目がとまりました。
 

強烈な音楽体験には、音楽的要因、個人的要因のほか、どんな状況下で音楽を聴取したかの要因も関わっているのです。(p19)

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このとき、頭に浮かんだメロディーがありました。
それは、今から34年前の昭和61(1986)年の8月のこと。職場の同僚二人(どちらも英語科教員)と1週間のイギリス旅行(ロンドン中心)をしたときのことでした。
その当時のヨーロッパ行きは、まだアンカレッジ経由で成田からロンドンまで10数時間かかる時代でした。

機内(JALのジャンボ機だったと思います)ではいろんな音楽が流れていました。

そんな中、繰り返し流されていたある甘美なメロディーが、その後長らく気にはなっていましたが、曲名が分からないままでした。
たしか「愛の・・・」だったかなとYouTubeで探しましたが、ダメでした。

「愛の」で始まる有名な曲はとても多いんですね!

愛の夢(リスト)
2. 愛の挨拶(エルガー
3. 愛のロマンス(禁じられた遊び
4. 愛の喜び(マルティーニ)
5. 愛の小径(プーランク
6. 愛の調べ(グリーグ
7. 愛のワルツ(ブラームス
8. 愛の歌(シャンソン・ダムール)(フォーレ
9. 愛のアダージョアルビノーニ
10. ある愛の詩フランシス・レイ
11. 愛のよろこび(クライスラー
12. 愛の悲しみ(クライスラー
13. 愛の死~「ト「愛の夢」第3番

最近ではスマホのアプリで、鼻歌でも録音すると、曲名を教えてくれるものがあることを知り、さっそくインストールして試してみましたが、音程がまずい(笑)のか、全く反応しませんでした。

ところが、今朝のこと。

何気なく「世界名歌選集」(ドレミ楽譜出版)という、昨年買った本を開いてみて、それがマルティーニ『愛の喜びは』(「は」のない表記も)の旋律と分かりました。

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飛行機に乗ったのが、旅行と出張併せてたった4回という私ですが、初めての海外旅行ということ。

そして何より若かったということもあってか、色々なことに敏感に反応していたのではなかったかと思います。

その後も、3回は乗っているわけですが、機内の音楽が印象に残っているということはありません。
やはり、若い頃の感受性というのは大切なのですね。

 

先週の土曜は、大阪のいずみホール東京混声合唱、そして昨日は市内で篠崎史紀N響のマロ)バイオリンコンサートと、どちらも本邦最高峰の演奏家によるコンサートに行きましたが、若い頃と違って聴いたメロディーがその後も印象深く残るということがなくなってきたような気がして残念です。

(まあ、どちらもここ数年で何回か聴きに行っていますので、失礼ながら新鮮味がなくなっているからかもしれませんが・・・)

 

高齢者(前期ですが)に感受性・・・!?たぶん、難しい問題なのでしょうが、大切にしたいとは思いいます。

♪ 「いつでも夢を」

いつでも夢を 橋幸夫・吉永小百合 - YouTube

 

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1968年(昭和43年)12月日本レコード大賞10周年記念音楽会

いつでも夢を 橋幸夫吉永小百合

【作詞】佐伯 孝夫
【作曲】吉田 正
1
星よりひそかに 雨よりやさしく
あの娘はいつも 歌ってる
声が聞こえる 淋しい胸に
涙に濡れた この胸に
言っているいる お持ちなさいな
いつでも夢を いつでも夢を
星よりひそかに 雨よりやさしく
あの娘はいつも 歌ってる

2
歩いて歩いて 悲しい夜更けも
あの娘の声は 流れ来る
すすり泣いてる この顔上げて
きいてる歌の 懐かしさ
言っているいる お持ちなさいな
いつでも夢を いつでも夢を
歩いて歩いて 悲しい夜更けも
あの娘の声は 流れ来る

言っているいる お持ちなさいな
いつでも夢を いつでも夢を
はかない涙を うれしい涙に
あの娘はかえる 歌声で

 

当時は両者とも多忙な日々を送っていたためスケジュールが合わず、別々にレコーディングした音源を一つにミキシングして発売したという。なお吉永の歌がオーケストラと合わず、やむなくピッチを上げてオーケストラと合わせた。その特徴的な歌詞と、まだ舟木一夫西郷輝彦などもデビューしておらず、橋が若き王者として人気を極め、吉永も若手女優として高い人気を誇っており、その二人の初デュエット曲として発売当初より話題となり、発売から「1ヶ月で30万枚という驚異的な記録をたて……半年すぎた翌年5月には100万枚を突破した」。累計売上は260万枚を記録した。

歌詞に登場する「あの子」については、橋は当初は吉永を連想して歌っていたが、吉永も共に歌唱していることに気付き、上にいる妖精のような存在を連想して歌うようになったという

詞・曲ともに明るい憧憬にあふれたこの楽曲は、第4回日本レコード大賞の大賞を受賞し、1962年を代表する楽曲となり、1960年代の高度成長期を象徴する楽曲となった。その後も長い間、日本国民に愛された楽曲として人気を保っている。長年にわたりラジオやテレビの各番組で流され、この楽曲へのリクエストも多い。そのため、発売当時はまだ生まれていなかった世代にもこの曲はよく知られている。(Wikipedia

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1962年(昭和37年)と言えば、私が小学校に入った年でした。
子どもの頃に、テレビやラジオで流れていた歌は、何十年経ってもそのメロディーは、記憶に残っているものです。
この歌も、そんな大ヒット曲の一つです。

今回は、子どもの頃に持っていた歌詞に対する素朴な疑問について少し述べてみようと思います。
それは、「言っているいる お持ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を」の部分についてです。
今見ると、何ということもないのですが、長らくこの「お持ちなさいな」に少しひっかかっていました。

「いつでも」・「夢を」・「持ち続けなさい」ということなのですが、当時はなぜかこの単純な倒置法が分かりませんでした。
「持つ」というと、荷物か何か、形と重みのあるものという発想しかなかったものと思います。
また、歌のフレーズが、「言っているいる お持ちなさいな」でまとまっており、前後の歌詞のつながり具合が、田舎少年には理解できていなかったようです。

今回、この歌を取り上げるので、いろいろネットで調べていると、やはり、違和感を覚えている方がいらっしゃいました。

 

そんなスゴイ方の作品ではありますが、「いつでも夢を」の歌詞にわたしはずっと引っかかっていました。
♪星よりひそかに 雨よりやさしく♪
冒頭はなるほど、さすがの詩的表現だ!と唸ってしまうのですが、
♪言っているいる お持ちなさいな♪
ココ。この部分がどうにもしっくりこないんですよ。「言っているいる」の「いる」が2回出てくるのはまあ良しとして、どうして次に「お持ちなさいな」となるんでしょう。
「お持ちなさいな」は文脈としては次の「いつでも夢を」にかかるはずなのに、メロディ構成上は、♪言っているいる お持ちなさいな♪ がひとまとまり。しかも「言う」という内容に続くのが「持つ」なんですよ。「言ってます、持ちなさい」って言われたら「は?どういうこと」と思ってしまいませんか?

そして、♪いつでも夢を いつでも夢を♪とくる。この一連の歌詞がすごく不思議だったんですよね。曲の作り方が歌詞と合ってないのかなあなどとも考えてしまいました。いやでもそんなはずはない。吉田正も偉大なる作曲家ですよ。

「いつでも夢を」の歌詞はちょっと不思議
 「昭和よいとこ」 http://achikon.com/showa-music/itsudemoyu

 

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(吉永さんと作曲の吉田正さんのデュエット)

多くの人に尋ねてみたわけではありませんが、子ども心に「どういう意味?」とちょっとひっかかっていたのは、言葉の感覚(?)としては、むしろ正しかったのではないかと思ったりします。

(子どもの頃から、音感はダメでしたが、絶対語感のようなものはあったのでしょうか😀)

 

※子どもの頃に繰り返し聴いた楽曲は、何十年経っても忘れませんが、昨日大阪のいずみホールで聴いた東京混声のラフマニノフ「晩祷」。たしかに素晴らしいのですが、歌詞の分からない歌は、メロディーも記憶に残りませんね(;。;)

 

※※昔、「サユリスト」なる言葉がありました。熱烈な吉永さんのファンのことです。

そういう方がもしこのブログを見られたら、怒られそうなのですが、どうも吉永さんは歌のほうはあまりお得意でなかったように昔から思っているのですが、偏見でしょうか?

 

♪ 『第9』の季節ですが・・・

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10199845630www.bing.com

佐渡裕「1万人の第九」

 

「1万人の第九」、一般参加中止 毎日放送が発表、コロナ再拡大で
 毎日放送大阪市)は24日、大阪城ホール(同市)で12月6日に開催する年末恒例の合唱コンサート「サントリー1万人の第九」を、一般参加の合唱者と観覧客を入れずに行うと発表した。新型コロナウイルスの感染再拡大を受けた措置で、プロの声楽家4人と合唱団約40人がオーケストラに合わせて歌う。

 例年、ベートーベンの交響曲第9番を1万人の参加者で合唱してきたが、コロナ禍で今年は1000人に絞って募集。その後、500人に減らすなどしたが、最終的に断念した。当日は、事前募集した「第九」の歌唱動画を会場で流して「合唱」するという。

2020.11.24 20:49 「サンケイスポーツ

 

昨年末に2回にわたって投稿したのが、「年の暮れはやっぱり『第9』?」という記事でした。
はやいもので1年が経とうとしています。
ご多分に漏れず、3月から所属する合唱団は活動休止!再開のめどはたっていません。

その代わりというのはおかしいのですが、1週間後に大阪に来演の東京混声の演奏会を偶然知って、チケットを2枚ゲット。昨年五月の神戸以来、一年半ぶりの日本最高峰のハーモニーが待ち遠しい今日この頃です。

 

さて、昨年12月31日の記事にこんなことを書きました。

  ※合唱団には、「第九」を何十回と歌ったという方が、結構いらっしゃいます。
私は、通算でわずか4回です。地元でも毎年募集がありますが、どうも正直、気乗りがしません。その理由については、いずれまた書きたいと思います。

 

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(4年前、市制10周年記念の第9演奏会、助っ人はいますが、オケもコーラスも人口四万の我が町のものです‼️)

※市長、市会議長、大学教授、神主さん、警察官、等々いろんな方がステージにいました😆

 

「第九」は素晴らしいけど、「正直言ってもういいかな😔」というその理由です。

同じようなことを考えている人が居ました。

(「第9」のテノールとバスではどちらが難しいか?という質問に)

 ベートーベン第九第4楽章の合唱は、素人にはむずかしい曲です。音自体はとても簡単なんですが、音域が歌い手に無理を強いる音域なので、発声自体が大変になります。
バスとテノールを比べてどちらがむずかしいか、ということもないと思いますよ。ただ、音域的に無理を強いられる率が高いのは、テノールの方かもしれません。
わたしは男性・男声ではないので、自分で歌って感じているのではありませんが、ソプラノもアルトもひどいもんです、音域が。「yahoo!智恵袋」

 ここにあるように、なんと言っても「音域」ですね。普通、アマチュア混声合唱では(プロ用の凝った難曲は別ですが)あり得ないような高さの音が要求されます。
私はバスパートですが、ファルセットでごまかすすべを知らないと、歌う方は喉を痛めつけ、聴く方はたぶん不愉快に感じることでしょう。
練習の休憩時間によく愚痴を言ってました。「ベートーベンは自分では歌ってないだろう!頭の中だけで作り上げた曲だ!!」


もう一つは、旋律の書き方がいかにも器楽的な点です。下の画像のような動きがその典型でしょうか。歌う側としては面白みに欠けます。

 

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それでも、今年は別として第9人気が我が国で衰えないのはなぜなんでしょうか?


クラシック音楽にはそれほど興味のない従兄に数年前尋ねられたことがありました。
そのとき、私がとっさに思いついたのは、「素人で『第9』を歌いたい人たちは、この曲を練習し、発表することで、日本人の大好きな『一体感』・『高揚感』・『達成感』を感じられるからだろう!」と返答しました。

 

全国何百万(?)かの「第9ファン」の皆様から、猛烈なブーイングの起きそうな暴論かもしれませんが、乏しい経験からではあるものの、そんな認識(偏見?)を持っております。
もちろん、このようなことを思っているからといって、何もこの曲の素晴らしさを疑うものでは決してありません。
マチュアでもある程度発声の訓練を積んだ合唱ならぜひ聴きたいものです。

 

本当に、来年の今頃はどんな状況になっているでしょうか!?

第9の練習は遅くとも夏頃から開始しますので、それまでに事態が好転していることを祈るばかりです🙏

今日、本屋で見つけ、早速買い求めました😄我が人生の応援歌 | 小学館


我が人生の応援歌 | 小学館

 

実は、私も今年自費出版の本を2冊amazonで販売しています。

kindleという電子書籍版とPOD(注文印刷)形式の紙の本です。

試しに、amazonのサイトで自分の名前を入れて検索すると、

「もしかして藤原正彦?」と出ます。

実は一字違いで大違い(?)の名前なものですから、それもやむをえないのではありますが・・・。

「正」を「重」に変えて検索すると、拙著が表示されます😀

♪ 「真宗宗歌」

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真宗宗歌
作詞 真宗各派協和会 / 作曲 島崎赤太郎
1.
ふかきみ法(のり)に あいまつる
身の幸(さち)なにに たとうべき
ひたすら道を ききひらき
まことのみ旨(むね) いただかん

2.
とわの闇より すくわれし
身の幸(さち)なにに くらぶべき
六字のみ名を となえつつ
世の生業(なりわい)に いそしまん

3.
海の内外(うちと)の へだてなく
み仏(おや)の徳の とうとさを
わがはらからに 伝えつつ
浄土(みくに)の旅を ともにせん

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龍谷大学HP 龍谷大学の歌

https://www.ryukoku.ac.jp/about/outline/songs/shinshu.htm

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島崎赤太郎

生年明治7年7月9日(1874年)
没年昭和8(1933)年4月13日
出身地東京
学歴〔年〕東京音楽学校(現・東京芸術大学)専修部〔明治26年〕卒
経歴明治34年ドイツ留学、6年間オルガンと作曲を研修。39年帰国、東京音楽学校教授となり音楽理論を教え、オルガン普及に尽力。昭和5年退職。文部省視学委員、同唱歌編纂委員も務め、「尋常小学唱歌」「中学唱歌」などの選曲編集にも尽力した。著書に「オルガン教則本」(全2巻)、「詳解楽語辞典」などのほか訳書もある。(コトバンク

 

 以前(1月13日)に山田耕筰作曲の「龍谷大学歌」が素晴らしいとアップしたことがありました。
YouTubeでは、関連動画が次次と紹介されてきますが、その中にあったのが、この真宗宗歌」でした。
真宗の教義を分かりやすく詠み込んだ、大変に格調高い歌になっています。

キリスト教には賛美歌があるように、仏教にも声明とかご詠歌というのがあるようです(西洋の音楽になじんでしまっている耳には、ああいう発声はどうも違和感がありますが・・・)

 

「~ようです。」というぐらいに、その方面には疎いのです。
我が家は代々、真言宗なのですが、信仰心の乏しい(?)私は、高野山に行ったこともありませんし、今後進んで行こうかという気持ちも今のところはありません。

西本願寺大谷本廟へは行ったことがあります)
菩提寺浄土寺という大変有名なお寺なのですが)の住職のお名前も知らないというのが、実のところです。

一方、家内のほうが、この浄土真宗本願寺派)で、結婚後30年の間に義父母、義兄と3人のお葬式を経験しました。

その他に、年忌法要などを何回も行っていますので、そちらのご住職とは面識もあるというのが実情です。
また、息子が卒業したのが龍谷大学。40数年前に初めて所属した伊丹混声合唱団の指揮者・井上一朗氏が浄土真宗・法専寺のご住職というようなことで、自然と真言宗よりも浄土真宗のほうに親近感を覚えてしまいます。

さて、この歌ですが、調べてみると大正12年(1923)に作られたとあります。
島崎赤太郎という作曲家は、今では知名度は高くありませんが、あの滝廉太郎に続いてドイツへ留学し、作曲とオルガンを研究されたとか。
帰国後は音楽界の重鎮としてご活躍されました。

曲は、歌いやすい高さで始まり、「ひたすら道を ききひらき」の後半からは緩やかに盛り上がり、最終節「まことのみ旨(むね) いただかん」の前半でピークをなして、その後は穏やかに終息していくという、作曲の教科書のお手本のような(?)構成となっているように思います。

浄土真宗では、この他にも「恩徳賛」(おんどくさん)が有名なようで、こちらは合唱曲の作曲で知られる清水脩氏の作曲となっています。

ただ、宗派の専門用語が出てきて、ちょっと意味はとりにくい歌ではあります。

 

音楽と並び、もう一つの趣味でもある落語も、この浄土真宗と深い関係があることを最近知りました。「知ってましたか? 落語と仏教の意外な関係!?」(https://www.forever-kato.co.jp/topics/?t=000028

これもYouTubeで偶然見つけたのですが、神戸にある真宗のお寺で、ご贔屓の笑福亭松喬さんを招いて落語会を開催されているところもあります。

 また、上述の井上一朗住職は、Facebookを見ていると、定期的に「歌ごえ寺カフェ」を開いておられます。
いずれにしても、積極的に門徒たちにお寺に来てもらうという取り組みをなさっているようで、そもそもの宗派の成り立ち・性格が違う、と言ってしまえばそれまでなのですが、同じ仏教ではありながら、やはり真言宗とはずいぶんと違うんだなと思ってしまいますこういう方面に疎い人間ですから、認識不足でしたら、ごめんなさいです!!)

 

はてなブログで開いた3つめのこのブログも、ちょうど一年が経ちました。
一つ目は、「『坊っちゃんに』に見る明治の中学校あれこれ」で昨年末に自費出版。その後、amazon電子書籍と注文印刷という形で紙の本を販売しています。
二つ目のブログは「名作に見る明治・大正の教育あれこれ」です。こちらも、タイトルを「名作でたどる明治の教育あれこれ」と変えて、間もなくamazonで販売の運びとなっています。
電子書籍のデータ作成に、11月中は昼間のほとんどの時間を費やしてしまいました。
その理由はワードの操作に不慣れだったことでした(笑)

 

このブログも長い間、毎日数件のアクセスしかなかったんですが、今月は中頃から数十件になる日がありました。

これはたぶんNHKの朝ドラ「エール」で、番組内容が「東京オリンピックマーチ」に及んだことと関係しているのではないかと思います。

そして、ついでに他の記事も閲覧されたのではないかと(笑)

 

♪ 「月の沙漠」

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(加藤まさを画、藤枝市立博物館・文学館)

作詞:加藤まさを  作曲:佐々木すぐる

月の砂漠を はるばると
旅のらくだが 行きました
金と銀との くら置いて
二つならんで 行きました


金のくらには 銀のかめ
銀のくらには 金のかめ
二つのかめは それぞれに
ひもで結んで ありました


先のくらには 王子さま
あとのくらには お姫さま
乗った二人は おそろいの
白い上着を 着てました

 

ひろい砂漠を ひとすじに
二人はどこへ いくのでしょう
おぼろにけぶる 月の夜を
対のらくだで とぼとぼと
砂丘を越えて 行きました
だまって越えて 行きました

 

 

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佐々木 すぐる

(本名:佐々木 英、1892年4月16日 - 1966年1月13日)は、日本の作曲家である。童謡をはじめとする2000曲もの楽曲を作曲し、中でも「月の沙漠」「お山の杉の子」が有名。三男の佐々木行綱は元童謡歌手、声楽家(バス)、音楽評論家、元山形大学教授。
生涯
兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)出身。元は士族であり、父親が郡役所に勤務する家庭に育つ。幼い頃に近所の住人から笛を貸してもらったことで、音楽に興味を抱く。しかし、家庭が貧しかったことから学費のことを考え、音楽学校ではなく姫路師範学校(現在の神戸大学の前身の一つ)へと進学。在学中は生活費を得るためにボイラー技士として働きながら勉学に励む。卒業後しばらく郷里の小学校で教鞭をとるが、後に東京音楽学校に進学し、甲種師範科を卒業。

東京音楽学校卒業後は、浜松師範学校(現在の静岡大学)で教員として働く傍ら「青い鳥」や「じゃんけんぽん」などの童謡を発表する。1922年(大正11年)に師範学校を退職し、上京。作曲家に専念する。1923年には「月の沙漠」を作曲。1924年大正13年)には、自分の作品を掲載した「青い鳥楽譜」を発刊し、昭和初期まで自費で出版する。また、青い鳥児童合唱団を主宰し、精力的に全国を回った。1932年(昭和7年)には日本コロムビアの専属作曲家となる。1930年代には唱歌や「兵隊さんよありがとう」のような愛国歌を数多く発表し、当時の子供たちの間に広く知れ渡った。後に音楽の教科書の編纂を行い、日本作曲家協会理事を務めるなど子供のための音楽や歌曲の普及に貢献した。浦和市立(現さいたま市立)針ヶ谷小学校の校歌が最後の作品であると考えられる(1966年2月27日に校歌制定発表会)。

 

主な作曲作品
月の沙漠
昭和の子供
ひょうたんぽっくりこ(昭和8年、久保田宵二作詞)
兵隊さんよありがとう(橋本善三郎作詞、歌・松原操、飯田ふさ江)
お山の杉の子(1944年、吉田テフ子作詞 / サトウハチロー補作(戦後改作))
赤ちゃんのお耳
日本教職員組合組合歌(Wikipedia

昨夜、以下のような内容のニュースを見て、図書館の開館直後に借りに行ったところ、最寄りの中央図書館は貸し出し中。検索で5キロほど離れた市立の別の図書館にあるとわかり、直行しました。

  米国で最も権威のある文学賞の一つ、全米図書賞が18日夜(日本時間19日朝)発表され、翻訳文学部門に福島県南相馬市在住の作家、柳美里さん(52)の長編小説「JR上野駅公園口」の英語版が選ばれた。

 

1冊だけでは遠くまで来た甲斐がないと、音楽関係の書棚で見つけたのが、長田暁二「心にの頃日本の歌101選」ヤマハミュージックメディア、2007年)という本でした。目次に上がっている曲目を眺めていて、目にとまったのがこの「月の砂漠」でした。
101の歌の殆どは知っている(メロディーが浮かぶ)ものですが、忘れられない思い出と結びつくというのは、ごく限られた曲です。

 

あれは(不確かな記憶ですが)小学校の低学年の頃だと思うのですが、従兄妹が子供会のバス旅行に行くのに、誘ってもらったことがありました。
純農村地帯でありましたが、従兄の住む地区には、我が村にはまだなかった子供会が組織されていたのです。
行き先は、たしか芦屋の奥池遊園地(今は別荘地になっているようですが)だったと思います。
バス旅行と言えば、車中でカラオケ(おちろんその頃はまだありません)がつきもの。
順番がある母子(従兄の家の二軒となり)に回ったとき、そのお母さんが「なくなった○○(男の子の名前でした)の好きだった月の沙漠を歌います」と言ってから、この歌を切々と唄われました。
あとで母親に聞くと、その方は終戦直後、小学校の代用教員をされていたとか。
童謡とはいえ、なかなか難しい歌です。
60年近くが経っても覚えているのは、さきほどの言葉(「なくなった○○(男の子の名前でした)の好きだった月の沙漠」)とやはり上手な歌いぶりが、子供心によほど印象的だったからだと思います。

同じ年頃の子供が亡くなるというのは、他では見聞きしたことがなかっただけに、強く心に刻まれたものと思われます。

 

さて、この歌ですが、題名からしてロマンチックです(上述の本には「エキゾチックなメルヘンの世界」とあります)が、よく考えてみると不思議な歌詞ですね。

長田暁二「心にの頃日本の歌101選」には、この曲の成立事情が次のように書かれていました。

 

エキゾチックなメルヘンの世界

 

加藤まさをは、竹久夢二蕗谷虹児とともに「抒情画三羽がらす」と称されました。大正末期から昭和初期にかけて、少女雑誌で、憂いを含んだ額の美しい少女の絵と、そのそばに添えた数行の詩によって、乙女たちを甘い陶酔に誘った人気画家でした。
夏になると毎年のように、加藤は病気療養のために千葉県外房の御宿海岸を訪れましたが、この詞は立教大学在学中の大正10(1921)年、砂丘の幻想から生まれました。
王子も王女も黙って、一対のラクダさえ足音を立てずひたすら歩くといったエキゾチックな情景を、ズームカメラの望遠で見ているような描写が、メルヘンの世界を浮かび上がらせています。

 

熱心か歌唱指導が実を結ぶ


大正中期から新しい童謡運動に加わった佐々木すぐる(当時31歳)は、この詞を読むなりインスピレーションが沸いて、弱起の美しい東洋的な曲を付けました。自ら謄写版刷りの楽譜を作って持ち歩き、小学校の先生たちの音楽講習会で配っては、どこへ行っても「月の沙漠」を中心に歌唱指導したのです。そのためもあって、関東大震災の直後あたりから次第に知られるようになり、特に少女たちが愛唱した。
昭和44年の7月上旬に、御宿海岸に、ラクダに乗り砂漠を旅するかのような王子と姫の像と、三日月形の記念像が建てられました。(下の写真)

 

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童謡歌手といわれる方を初めとして、多くの歌い手さんの歌唱がYouTubeなどにはアップされていますが、女優としてはもちろん歌手としても大のファンである倍賞千恵子さんのを選びました。

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30数年も前でしょうか、まだ独身時代に大阪のサンケイホールへ倍賞さんのリサイタルを聴きに行ったこともありました。

松竹歌劇団(SKD)で鍛えられた、明るく伸びやかで素直な発声には素晴らしいものがあります。

多くの方々が、国民的な映画「男はつらいよシリーズ」で寅さんの妹「さくら」を演じていらっしゃることはご存じでしょうが、「下町の太陽」に始まり、様々なジャンルの歌を見事に唄いこなしておられることも知ってもらいたいですね。。

♪ 行進曲「大空」

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陸上自衛隊中央音楽隊

 

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例年なら、秋の取り入れの終わったこの11月は、所属する合唱団の発表のステージはありますが、一年で最も気候の面でも気分においても落ち着いた月になります。

還暦前後から、弱小ミリオタになりまして、(もっとも子どもの頃から零戦、戦車、戦艦などのプラモデルは好きでよく作ってはいましたが)自衛隊の公開イベントに行くようになりました。

陸自では駐屯地祭。福知山(普通科連隊)、姫路(特科)、青野ヶ原(高射)、今津(戦車大隊)それに伊丹にある中部方面隊ぐらいでしょうか。
海自では、護衛艦の一般公開で「いせ」(姫路港)「きりしま」(神戸港)の艦内に入ったことがありました。
空自では、小松基地岐阜基地と2回泊まりがけで出かけました。

 

さて、音楽との関連で言いますと、この自衛隊の音楽隊ですが、初めて聴いたのはいつ頃だったでしょうか。
もうすぐ取り壊しになる隣の西脇市の市民会館だと思うのですが・・・。
なにせ、今から50年前に田舎で市民会館のあるところは、昔播州織りで景気の良かった西脇ぐらいでしたから、たぶん間違いないでしょう。
県警音楽隊も中学の頃聴いて憧れてましたね。中学の一年後輩でほんとうに音楽隊に(若い頃ですが)いた人もありました。

 

今回取り上げた陸自の公式(?)行進曲である「大空」(なんで陸やのに「大空」?)は、駐屯地祭の初めに、音楽隊(普通は師団所属の第○音楽隊で20数名でしょうか)この曲を演奏しながら入場してきます。(その後「陸軍分列行進曲」と交互に演奏)

大変、明るく軽やかな曲調で、その点は「陸軍分列行進曲」と全く対照的ですね。
この曲は、陸上自衛隊中央音楽隊初代隊長であった須摩洋朔(明治440年~平成12年・1907~2000年、元陸軍軍楽大尉、元NKH交響楽団)が1951年(昭和26年)に作曲したものです。

昭和30年頃には全日本吹奏楽コンクールの課題曲にもなったとか。

 

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(福知山駐屯地での第3音楽隊)

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(山の中腹にあってロケーション抜群!)

 

自衛隊では、陸海空それぞれに制式または公式行進曲というのがあるようです。

陸自はこの「大空」が制式。海自は言わずと知れたあの行進曲「軍艦」(「儀礼曲」としているサイトもありました)

そして、空自は「空の精鋭」矢部政男、元空自音楽隊のフルート奏者)が公式行進曲となっています。

いま、その作曲年次を比べてみると

「軍艦」 明治33年(1900)

「大空」 昭和26年(1951)

「空の精鋭」 平成6年(1994)

ということで、これは先入観かもしれませんが、曲のスタイル、曲調、あるいは醸し出す雰囲気ともでもいいましょうか、それぞれの時代を反映しているように感じます。

また、それぞれの時代の作曲の流行、作曲技法のレベルもあったことでしょう。

「空の精鋭」は、曲の感じが、昔よくあった全日本吹奏楽コンクールの課題曲のマーチとどことなく似ているなと思っていたら、作曲者の矢部さんは、その前年1993年の課題曲を書いた方でもありました。

3曲を聞き比べての正直な感想ですが、この際、海自の「軍艦」は恐れ多いので言及しませんが、陸自のほうは、どうでしょうか、(この曲の素晴らしさを否定するものではありませんが)ぼちぼち新しいのを・・・と思うのは私だけでしょうか?

陸自の関係者が閲覧されていましたら、ごめんなさい!!

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福知山駐屯地祭では、例年海自の舞鶴音楽隊も観閲行進(もちろん「軍艦」の演奏です)のみですが登場。

地方の駐屯地祭で、陸海の二つの音楽隊を見ることが出来ます!!