思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪  序曲「ポンセ・デ・レオン」(オリヴァドーティ)

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コロナ禍のために、高校スポーツの夏の全国大会は中止や代替大会となった今年。
吹奏楽や合唱は、代替も無く、コンクールは中止となってしまいました。

 

今から48年前の昭和47年(1972)の夏、当時田舎の高校の弱小吹奏楽部で生徒指揮をしていた私は、兵庫県吹奏楽(コンクールと同時に開催、審査はなし)に向けて、連日練習に励んでいました。

 

吹奏楽祭はコンクールと違って、自由曲1曲のみの演奏。
選んだのはオリヴァドーティの「ポンセ・デ・レオン」という曲で、難易度からいうと主に中学生がよくやるような、比較的易しいものでした。
しかし、当時の我が母校は20名程度の小編成で、パートによっては助っ人を頼まないといけないようなお寒い状況でした。

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写真のように、打楽器パートにティンパニもなく、その当時でも近隣他校に比べると10年は遅れていたと思われます。

 

吹奏楽祭兼コンクールは、尼崎市玉江橋近くにあった尼崎文化会館で行われました。
設備が十分でなかったのでしょうか、チューニングやリハーサルは隣の中学校の教室でやった記憶があります。

吹奏楽祭の出場校は少なく、なんとコンクールの休憩時間に演奏しました。
当然、審査員は昼食・休憩に入っており、講評もなかったと思います。

 

さて、このポンセ・デ・レオン」という曲名ですが、当時は知るよしもなかったのですが、15,16世紀のスペインの探検家の名前だったのでした。

フアン・ポンセ・デ・レオン(Juan Ponce de León, 1474年 - 1521年7月)は、スペインの探検家、コンキスタドール
スペインの都市サンテルバス・デ・カンポスバリャドリッド県)に生まれる。若い頃より、イベリア半島にあるムーア人最期の地、グラナダ征服の戦争に参加する等していた。ポンセ・デ・レオンは新世界への2度目の航海で、クリストファー・コロンブスにも同行している。彼は当時のスペイン君主によって、プエルトリコの最初の統治者にも任命された。また、ヨーロッパ人としては初と言われるフロリダまでの航海を行い、若返りの泉の伝説とも結びつけて考えられる人物である。 (Wikipedia

 いよいよスタンバイして、指揮台の上に乗ったとき、客席前方から「ガンバレヨー」という声援が!!

(今では考えられないことですが、数年ぶりに大きな舞台に出た後輩たちに、休みを取って駆けつけた卒業生のTさんが思わず声を出してしまったようです)

 

一部の部員は中学時代にもコンクールを経験していましたが、殆どは大きな舞台が初めてとあって、指揮者の私も含めて緊張はピークに達していたと思います。
来る日も来る日も、この曲ばかり練習していたので、無事に(?)最後まで大きなミスもなく到達したとは思いますが・・・

 

今、写真を見ていると、卒業後一度も会ってない人、消息不明の人も数名あります。
一方で、医師、弁護士、地元企業の社長を始め、60代半ばの今も各界でご活躍されている人もあり、一度OB会でも開いて(コロナの収束までは無理ですが)、50年前の思い出話で一杯やりたいなと思う今日この頃です。

 

#ふと思いついて、この曲を取り上げ、YouTubeでいくつか聴いてみましたが、「え!こんな曲やったっけ!」と思うぐらいに、当たり前ですがレベルは全然違いますね。

吹奏楽に熱中して、高校3年間で最も成績が下がったのが、高2の2学期でした((;。;))

 

♪ 「雨の来る前」(多田武彦 男声合唱組曲「雨」よりⅠ)

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(京都産業大学グリークラブ)

 

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「雨の来る前」
伊藤整作詞 多田武彦作曲

 

ざあっとやって来いよ 夏の雨
地上のすべてのものは用意している。

山の麓から低くかぶさってしまった雲よ。
夏の緑はうす暗い蔭におおわれ
物ほしに白いものがかかり
燕は黒く曇天の下を飛び交い
人は重い頭をして室にいる。

降って来いよ 夏の夕立
その時 始めて人の目はほっと開かれ
草木も葉を そよがせるのだ

ざあっとやって来いよ 夏の雨

 

前回「海の日」にちなんで、「われは海の子」をアップしてから半月あまり。
今度は「山の日」がやってきました。

長い梅雨が明けたと思ったら、今度は連日の猛暑!十日あまり、一滴の雨も降りません。
たっぷりと余裕のあったため池の用水も、係としては減り具合が気になる今日この頃です。
そんな日々の中で思い出されるのが、タダタケさんの名曲「雨」。
5ヶ月前の3月8日にも、組曲の中のⅥ「雨」(八木重吉を取り上げていますので、これで2回目となります。

 

言うまでもなく、組曲中のどの曲にもそれぞれの良さや味わいがあるので、甲乙つけがたいのですが、降雨が待ち望まれる今の時季にはこの曲がピッタリです。

(「燕」が読み込まれているので、もう少し早い時季かもしれませんが・・・・)

 

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作詞の伊藤整については、「若い詩人の肖像」という小説が彼の自伝的作品ということで、興味深く読んだことがあります。
この詩は、氏が小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)を卒業してすぐの21歳の時、小樽市立中学に英語教師として勤め始めた頃の作品だそうです。
そういえば、なんとなく若々しい感じをたたえていますが、北海道で生まれた詩だというのは、正直意外な感じがします。

 

異常気象がいわれ続けて久しいですが、自然が相手の農家にとって、この雨というのはもちろん天の恵みなのですが、一方で近年毎年のようにとんでもない大水害を引き起こす、なんとも厄介な自然現象です。

♪ 「われは海の子」(文部省唱歌)

 

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https://www.youtube.com/watch?v=wNihBleQg54

われは海の子 文部省唱歌

 

一、

我は海の子 白浪の さわぐいそべの松原に 

煙たなびくとまやこそ  我がなつかしき住家なれ。

二、
生まれてしほに浴して  浪を子守の歌と聞き

千里寄せくる海の氣を  吸ひてわらべとなりにけり。

三、
高く鼻つくいその香に  不斷の花のかをりあり。

なぎさの松に吹く風を  いみじき樂と我は聞く。

四、
丈餘のろかい操りて  行手定めぬ浪まくら

百尋千尋海の底  遊びなれたる庭廣し。

五、
幾年こゝにきたへたる  鐵より堅きかひなあり。

吹く鹽風に黑みたる  はだは赤銅さながらに。

六、
浪にたゞよふ氷山も  來らば來れ恐れんや。

海まき上ぐるたつまきも  起らば起れ驚かじ。

七、
いで大船を乘出して  我は拾はん海の富。

いで軍艦に乘組みて  我は護らん海の國。 

『尋常小学読本唱歌』(明治43年・1910年)​

 歌詞が難しいので、参考までに。

『苫屋:とまや』
 苫(とま)で屋根を葺いた(粗末な)家。
 苫(とま)というのは菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだ、菰(こも)のようなもの云い、小屋や舟を覆って雨露をしのぐのに用います。

『不断の花:ふだんのはな』
 不断草。アカザ科一年草または越年草。高さ約1メートル。葉は大きく細長い卵形で、縁が波形にうねっています。6月ごろ、多数の黄緑色の小花をつける。若葉は食用として利用されます。ホウレンソウに似ていますが比較的季節に関係なく利用できるので『不断草』と呼ばれ恭菜とか唐萵苣(とうぢさ)とも呼ばれています。

『いみじき』
 形容詞で“著しい”とか“重大な”とかいう意味。副詞“いみじくも”と同様、“巧みな”とか“素晴らしい”とかの意味で使われています。

『丈余(じょうよ)のろかい』
 丈余は、一丈あまり。一丈は十尺で、約3メートル。『ろかい』は『櫓櫂』で、和船を漕ぐ道具。

『百尋千尋:ももひろちひろ
 『尋:ひろ』は、水の深さ、縄などの長さの単位。一尋は六尺(約1.8メートル)で、左右に広げ延ばした両手先の間の長さです。『百尋千尋は』、“とっても深い”という意味です。

『腕:かいな』
 腕そのものを云います。

『赤銅:しゃくどう』
 銅に金3~5%を加えた合金で象嵌(ぞうがん)細工などの日本の工芸用に使われます。赤銅色:日焼けした皮膚の色。

『いで』
 感嘆詞で「さあ」とか「いざ」とかいうのと同じ意味です

 

今日から4連休ということで、初日の今日は「海の日」でした。

(木曜日なんですけど・・・・?元々第3月曜では・・・?)

 

もちろん、「海の日」にちなんだ曲ということもあるのですが、明治時代に東大で国文学の教授を勤めた芳賀矢一のことを、例によってネットで調べていた中で、芳賀氏がこの歌の作詞者であるという記述に出会ったからでした。

作詞者・作曲者ともに不詳。ただし宮原晃一郎(本名、宮原知久)(1882年 - 1945年)の娘と芳賀矢一1867年 - 1927年)の義理の娘は、それぞれ自分の父あるいは義父が作詞者だと信ずると述べた。最近では宮原の原作を芳賀が改作したとする説が最も信頼されている[1]

永年作詞者は不詳とされていたが、1989年(平成元年)5月に宮原晃一郎の一人娘の典子が、この歌詞は宮原が小樽新聞記者当時の1908年に文部省の新体詩懸賞に応募し、佳作当選した「海の子」という詩が元になったと主張した。この主張に基づき、歌詞のモチーフとなった海は宮原が生れ育った鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)だとして、湾に面する鹿児島市祇園之洲町 の祇園之洲公園に歌碑が建てられた。しかし実際には宮原が作詞者であるという直接的な証拠が示されたことはなく、錦江湾がモチーフになったという根拠は全くない。一方、芳賀の義理の娘は、芳賀が育ったのも福井の海の近くだったことから、そこがモチーフになっている可能性もあるのではないかと述べた。(Wikipedia

 

もちろん、宮原有力説もあります!

https://archive.ph/20130427115844/http://homepage2.nifty.com/captysd/uminoko.htm

 

戦後、この歌は小学校で習うときは、GHQの指示により3番までとなりました。

ですから、4番以降を知っている人は、戦前に学校教育を受けた方か、こういう方面に興味のある方ということになります。

私の場合は、やっと(?)前期高齢者の仲間入りをしたばかりの若輩者ですから、当然3番までしか習ってはいません。

ところが、音楽、歴史、ミリタリー等、(いずれも大して深くはありませんが)興味があるもので、冒頭にあるような自衛隊音楽隊の演奏動画をよくYouTubeで視聴していました。

そんなことで、この曲の4番以降も知っていたわけです。

海自の歌姫・三宅由佳莉三等海曹の歌唱はいつ聴いても素晴らしいですね!!(陸自の鶫さんも負けず劣らず)

(デユエットされているホルンの男性も堂々たる体躯でいいお声をされていますが、なにせお相手が三宅さんだけにお気の毒・・・)

「われは海の子」には、よく少年少女合唱団の演奏があり、それはそれでいいのですが、こういう吹奏楽と二重唱というのもなかなか得がたいものですね!!

 

※余談ではありますが、映画「トラ・トラ・トラ」(3、4回繰り返し観ました)の中に、山本五十六連合艦隊司令長官を初めとする将官たちの昼食時に乗り組みの海軍軍楽隊が「海」(松原遠く~)を演奏する場面があったように記憶しています。

優雅な別世界だなと思いながら、観ていました。

 

♪ 「栄冠は君に輝く」(古関裕而)

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昨年の開会式


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栄冠は君に輝く(全国高等学校野球大会の歌)」
 加賀大介作詞・古関裕而作曲

雲は湧(わ)き 光あふれて
天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ
若人よ いざ
 まなじりは 歓呼に答え
 いさぎよし 微笑(ほほえ)む希望
ああ 栄冠は 君に輝く


風を打ち 大地を蹴(け)りて
悔ゆるなき 白熱の力ぞ技ぞ
若人よ いざ
一球に 一打に賭(か)けて
青春の 讃歌を綴(つづ)れ
 ああ 栄冠は 君に輝く


空を切る 球の命に
通うもの 美しく匂える健康
 若人よ いざ
緑濃き 棕櫚(しゅろ)の葉かざす
感激を 目蓋(まぶた)に描け
 ああ 栄冠は 君に輝く

 

コロナ禍で中止になった夏の甲子園大会(交流試合というのがあるようですが)のかわりに、いわゆる代替大会が各地方で始まっています。

 

■ 甲子園での3回の応援経験

思い起こすと、私は吹奏楽部員(生徒指揮)、顧問として計3回、甲子園に行くことができました。

1回目は、もう50年近く前の高校2年生の時でした。

私たちの兵庫県では(いつまで続いていたのかは不明ですが)県大会の1、2回戦あたりでも甲子園球場を使っていたのです。

当時の我が母校は1回勝てば「ようやった!」といわれるぐらいの学校でした。
この年(昭和47年)もたしか初戦で大差で敗退しました!

応援団の位置は、全国大会とは違い、アルプススタンドではなく、ベンチ裏後方あたりだったでしょうか。
20数名の弱小バンドでしたが、なにせ観客が両校の応援団だけですので、球場内にはよく響いていた記憶があります。
景気づけにいろんなマーチを(軍艦行進曲もやりました)演奏したり、「闘牛士のマンボ」なんかもやったりという風でした。
山本リンダの「狙いうち」やピンク・レディーの「サウスポー」、「ルパン三世のテーマ」などがよく演奏され始めたのは、かなり後のことだったと思います。(強豪校は知りませんが・・・)

 

2回目と3回目は、7年前に西脇工業高校野球部が「第95回全国高校野球選手権記念大会」(平成25年8月開催)に兵庫県代表として初出場したときでした。
当時の勤務校(西脇高校)と西脇工業高校はもともと兄弟校だった関係から、西脇南中学とともに友情応援という形で参加したわけです。

ただ、顧問とは言っても、長らくマネージャー専任(?)で、実技の指導はしていません。生徒引率の出張ということで、今度はアルプススタンドで応援・観戦することができました。

 

■70年余も歌い継がれてきた「栄冠は君に輝く」!!

「甲子園と音楽」(そういうテーマの研究や著作があってもいいと思いませんか?)というと、まっさきに思い浮かぶのが、「大会歌」として大会の開会式、閉会式で演奏されるこの「栄冠は君に輝く」です。

 

調べてみると、昭和23年(1948)に朝日新聞が募集した全国高等学校野球選手権大会の大会歌なのですね。今から72年前、新制高校発足の年です。
さすがに歌詞には時代を感じさせる表現があります!

例えば 「まなじりは 歓呼に答え」(1番)
 「若人よ いざ 一球に 一打に賭(か)けて 青春の 讃歌を綴(つづ)れ」(2番)

 一番難しいのは3番の「緑濃き 棕櫚(しゅろ)の葉かざす 感激を 目蓋(まぶた)に描け」という箇所ではないでしょうか?

「yahoo知恵袋」のベストアンサーは次のようになっています。

直接甲子園や野球とは関係しませんが、「棕櫚の葉かざす」とは勝利をたたえると言う意味です。
 古代ローマ帝国では、闘技会の勝利者には勝利の証には棕櫚の葉が与えられ、特に優れたもの(優勝者)にはオリーブの冠(月桂冠)が与えられました。

  作詞の加賀 大介(1914年10月1日 - 1973年6月21日)さんは、この当時すでに短歌や演劇の会を主宰したり、脚本を書いたりしていたプロの文筆家であったそうです。

そこで、後に奥様となる女性の名で応募。5,252篇中の1位となったということです。

加賀さんは16歳の時に野球の試合による怪我がもとで右足の膝から下を切断したこともあって高校野球(当時は中等学校野球)への想いも強かったものと思われます。

ただ、生前一度も甲子園に行ったことはなかったいうことですが、毎夏必ずテレビやラジオから流れてくるこの曲を楽しみにされていたことでしょう。

 

※8月10日開会式が予定されていた日に、リモートでこの曲を演奏しようという試みがあるようです。

幻の開幕日、みんなで「栄冠」演奏しよう リモートで - 高校野球:朝日新聞デジタル

 

 

♪「鉾をおさめて」

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中山晋平“鉾をおさめて”

唄:ヴィタリ・ユシュマノフ/ピアノ:塚田佳男
ヴィタリ・ユシュマノフ
Vitaly Yushmanov
サンクトペテルブルク生まれ。マリンスキー劇場の若い声楽家のためのアカデミーで学ぶ。ライプツィヒメンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学を卒業。在学中に、ドイツのバート・ヘルスフェルト・オペラ音楽祭で「ドン・ジョヴァンニ」主役を演じ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの「ニューイヤーコンサート」にも出演。
2013年の秋以来、度々来日し、「ブラームス/レクイエム」のソリストをはじめ、オペラ、ソロ・リサイタル、ジョイント・リサイタル、オーケストラとの共演など各地で演奏。2015年春より日本に拠点を移し、デビューアルバム『歌の翼に』(フロレスタン)に続き、イタリア歌曲アルバム『Parole d’amore』(オクタヴィア)、そして2018年10月には日本歌曲を歌ったアルバム、「ありがとう」を風にのせて〜日本名歌曲集〜(オクタヴィア)をリリース。
2015年「ドン・カルロロドリーゴ侯爵役、2016年「ドン・ジョヴァンニ」主役でオペラ出演。2017年3月びわ湖ホールオペラ「ラインの黄金」にドンナー役、10月NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」、6月にはプレトニョフ指揮、ロシア・ナショナル管と演奏会形式で、チャイコフスキーの歌劇「イオランタ」にエブン=ハキア役で出演。そして2019年1月・2月には井上道義指揮、森山開次演出・振付、日本語上演での「ドン・ジョヴァンニ」をタイトル・ロールとして全国4公演に出演した。日本トスティ歌曲コンクール2015 第1位および特別賞、第14回東京音楽コンクール声楽部門第2位、第52回日伊声楽コンコルソ第1位および最優秀歌曲賞受賞。現在、藤原歌劇団団員

 

 

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【作詞】時雨 音羽
【作曲】中山 晋平

(大正15 ・1926年)

1.鉾をおさめて 日の丸上げて
  胸をドンと打ちゃ 夜あけの風が
  そよろ そよろと 身に沁みわたる

2.灘の生酒に 肴は鯨
  樽を叩いて 故郷の唄に
  ゆらり ゆらりと 陽は舞いあがる

3.金の扇の 波 波 波に
  縄のたすきで 故郷のおどり
  男 男の 血はわきあがる

4.エンヤッサ エンヤッサ
  ヤンレッサ ヤンレッサ
  おどりつかれて 島かと見れば
  母へ 港へ みやげの鯨

「鉾をおさめて」は、遠洋の漁師たちの鯨漁の威勢のよさを詠んだ時雨音羽(しぐれ おとわ)の詩に、中山晋平が付曲。藤原義江の歌唱で人々の愛唱歌となった。

 

 夕食後、観たいテレビもないときは、テレビ画面でYouTubeを視聴していることが多い昨今ですが、先日買い求めた「日本名歌選集」の目次で、今度は「鉾をおさめて」に目がとまり、YouTubeで検索。

すると、吾等のテナー・藤原義江さんを始め、数名の歌手のビデオがあった中に、ヴィタリ・ユシュマノフというロシア人のバリトン歌手の歌唱がありました。
 三十代後半のようですが、なかなか渋いバリトンです。さっそく、写真のCDをamazonで買い求めました。

 

さて、この曲の思い出というと、今から三十数年前の昭和五十年代の終わり頃。
当時、顧問をしていた高校の音楽部(合唱部)は、11月に校内で開かれる文化部発表会(春の文化祭以後、ステージ発表のない文化部に配慮して開催されていました)に出演。
なにせ、指揮者が素人の、満足なプログラムが組めないような弱小コーラス部!

今から思うと「若気の至り」というのでしょうか、部員の2年男子W君(お寺の息子で、立派な体格の持ち主。荒削りですが、歌が好きで多少自信もあり、自ら入部してきたテナーでした)が「出船」(今宵出船かお名残惜しや~)を、そして私がこの「鉾をおさめて」を歌うことになりました。どちらも、中高年子のみのシブい曲です。
マイクを使わなければ良かったのですが、どうも後から聞くと、うまく拾って響いていなかったようでした。

後にも先にもステージ上の独唱はこれ1回きり!(もちろん、いろんな宴席では結構ありましたが・・・😀)

 

話はもどって、ロシア人のバリトンが歌う日本歌曲ですが、やはり外国人独特の子音の発音に我々日本人には少し気になるところはありますが、これはこれでコーラスをやる者には参考にすべきところがあるのではないかと思います。

 

この歌は出だしが高いファ(F)の音で、本来はテナーの歌でしょうが、バリトンの力強い声は、この歌にはピッタリだなという感じを強くしました。

YouTubeでの素晴らしい出会いに感謝です!!

♪「Aura Lee オーラ・リー」(アメリカ民謡)

 

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When the blackbird in the spring
On the willow tree
Sat and rocked, I Heard him sing
Singing Aura Lee

Aura Lee, Aura Lee
Maid of golden hair
Sunshine came along With thee
And swallows in the air.

過ぎ行く春を
告げる鳥
今も歌うは
愛の歌

オーラ リー、オーラ リー
うるわしの
黄金の髪は
日に輝く

 

姫路に用がある家内について行き、ジュンク堂の音楽書コーナーで「世界名歌選集」と「日本名歌選集」の2冊を買い求めました。

楽譜など買うのは何年ぶりでしょうか。

楽譜を見ながら、有名な歌をYouTubeでいろんな歌い手で聴き比べてみようと思ったわけです。

 

「世界名歌選集」の目次を見ていて、この曲に目がとまりました。

今から五十年余り前、まだ中学に入ったばかりの頃、ブラスバンド部」(当時は「吹奏楽」とは言っていませんでした。略してブラバン!)の合奏基本練習で使っていた「ファーストデビジョンバンド教本」にこの曲がありました。

いわゆる「発展途上」だった田舎の中学の「ブラスバンド部」ですから、こんな簡単な曲から、毎日の練習を始めていましたが、自分のパート(下手なトロンボーンでした)を正確に吹くのが精一杯。

この曲の素晴らしさも、もちろん由来など知るよしもありませんでした。

 

例によってネットで調べてみると、結構有名な曲だったんですね!!

Aura Lee オーラ・リー

ラブミーテンダー原曲/エルヴィス・プレスリーもカバーした名曲

ELV1S~30ナンバー・ワン・ヒッツ
ELV1S~30ナンバー・ワン・ヒッツ

『Aura Lee オーラ・リー』は、1861年オハイオ州シンシナティミンストレル・ショー向けに出版されたアメリカ歌曲。

エルヴィス・プレスリーの名曲『ラブミーテンダー(LOVE ME TENDER)』は、この『Aura Lee オーラ・リー』をカバーしたもの。

 

アメリ南北戦争の兵士も愛唱していた?

『Aura Lee オーラ・リー』が出版された1861年頃のアメリカは、史上最悪の「南北戦争」が始まった頃の混乱期。故郷に彼女を残して出兵していった多くの若い兵卒等によってこの『Aura Lee オーラ・リー』が広く歌われていったという。

当時のアメリカの歴史的背景、そしてジョン・ブラウンが「リパブリック讃歌」とアメリカの歴史に与えた影響については「ドナドナ研究室 リパブリック讃歌」で詳しく解説している。「世界の民謡・童謡」http://www.worldfolksong.com/songbook/usa/auralee.htm 

 

夏に学校の体育館で定期演奏会を初めて行ったのは2年生の時でした。

演奏できる曲が少ないので、教本に載っていたこの曲もプログラムに入っていたと思います。

あれから50年余り。

今ではもちろん、市の立派なホールで開催されています。

長い間、聴きに行ってはいませんが、ケーブルテレビで録画放映される様子を見ると、言うまでもなく、いろんな意味で隔世の感がありますね。(それも当然で、今の中学生の親御さんたちの殆どはまだ生まれてない頃ですから)

昭和30年代の楽器だったんでしょうか、使いふるされた楽器を、みな汗だくになりながらブーブー吹いていた丸坊主の中学生の頃が懐かしく思い出されます。

 

近年は、その頃の友達と互いの定期演奏会(オーケストラと私のコーラス)を聴きに行くような余裕(笑)もできました👴

♪思い込んだら 試練の道を~「行け行け!飛雄馬」(アニメ『巨人の星』主題歌)

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「行け行け飛雄馬

歌/アンサンブル・ポッカ
作詞/東京ムービー企画部
作曲/渡辺岳夫


思いこんだら 試練の道を
行くが男の ど根性
真っ赤に燃える 王者のしるし
巨人の星を つかむまで
血の汗流せ 涙をふくな
行け行け飛雄馬 どんと行け



腕も折れよと 投げぬく闘志
熱球うなる ど根性
泥にまみれ マウント踏んで
勝利の凱歌を あげるまで
血の汗流せ 涙をふくな
行け行け飛雄馬 どんと行け



やるぞどこまでも 命をかけて
父ときたえた ど根性
でっかく生きろ 剛球燃えろ
男の誓いを 果たすまで
血の汗流せ 涙をふくな
行け行け飛雄馬 どんと行け

巨人の星』(通称「左腕編」)は1966年から1971年まで『週刊少年マガジン』に連載され、『週刊少年マガジン』連載直後にKC(講談社コミックス)全19巻で刊行された。KCスペシャル版と1995年の文庫版では全11集である。その続編『新巨人の星』は1976年から1979年まで『週刊読売』に連載された。『巨人の星』・『新〜』ともによみうりテレビ系でTVアニメ化され、アニメ映画も7作品が製作されている。

主人公の星飛雄馬は、かつて巨人軍の三塁手だった父・星一徹により幼年時から野球のための英才教育を施される。プロ野球読売ジャイアンツに入団後、ライバルの花形満や左門豊作やオズマらを相手に大リーグボールを武器に戦う。いわゆるスポ根野球漫画の走りともいえる作品。 (Wikipedia

 *小学校5年生あたりから、中学生頃にかけて熱心に観ていたテレビアニメのヒット作です。

50年以上たった今でも、何人かの登場人物の名前と顔は容易に思い出されます!

 

今回は、コーラスを始めたきっかけになった歌をご紹介します。

 

■ 入寮歓迎会での「巨人の星」がきっかけで・・・・

昭和53年(1978)、学校を卒業した私は伊丹市立伊丹高等学校に新採用となり、伊丹市の男子教員寮に入ることになりました。(阪急伊丹線の踏切に近く、一日中警報器がうるさいので、半年で退寮)
まもなく、寮の食堂で催された歓迎会で、新入りは皆何か一曲歌えということになり、今思うとなぜか分からないのですが、この巨人の星」の主題歌を歌いました。

その後、同じ階の近くの部屋にいた清水有作さんから、「伊丹混声合唱団に入っているんだけど、見学に来ないか?」と声をかけていただきました。

清水さんは小学校の先生でしたが、兵庫県立柏原高等学校でも、進学された高知大学でも混声合唱をやっておられ、よく響く典型的なバスのお声の持ち主でした。

 

私はというと、1月8日付けの記事に書いたように、合唱に興味を持ちながら、大学ではたった1週間しか練習に通わなかったような人間でした。

学科のコンパでは、当時はやった細川たかしの「♪わたし馬鹿よねー、お馬鹿さんよねー」 (「心のこり」)をよく歌っていた記憶はありますが、数年間はほとんど歌を忘れたような日々が続いていました。

(指導教官から「わたし馬鹿よね のフジワラくんだったね」と言われたことがありましたね(^▽^))

そういうわけで清水さんの紹介で、伊丹混声合唱団のテナーの一員となり、4年間週二回の練習に励みました(基礎ができてなくてテナーの高い音はしんどかったです)

 

■ その後の伊丹混声、清水さんのことなど

私は伊丹に4年いて、母校へ転勤したものですから、その後の伊丹混声のめざましい発展ぶりについては詳しくないのですが、ネットで調べると「全日本合唱コンクール全国大会」では平成10年(1998)には金賞を受賞されています。(20年前、私の在籍時は関西大会で奨励賞ぐらいだったでしょうか。)
  一般B/伊丹混声合唱団(混) [関西]
     豊中混声合唱団(混) [関西]
     大久保混声合唱団(混) [東京]
     合唱団ある(混) [中国]
     合唱団京都エコー(混) [関西]
     合唱団“まりもあ”(混) [中部] 
 豊混、大久保、京都エコーといえば、プロ顔負けの実力。一般の合唱団では最高レベルの団体です!? 

この頃には、指揮者が創設以来の井上一朗さんから清水さんに替わっていたのではないかと思います。
現在は、「アンサンブル アクア・ピュア」を主宰されています。
(団体の紹介文:2003年7月に解散しました伊丹混声合唱団の元団員20数名とその夏8月にベルギー、ルクセンブルク、北ドイツでの教会で歌いたいと集まった新メンバーが、伊丹混声の元指揮者清水有作氏の指導の下結成され、年1回の演奏会や伊丹市合唱祭・病院等での演奏会に活動しております。)

*「アクア・ピュア」(純粋な水→清水)
 

そういうわけで、「巨人の星」でなくても良かったのですが、(あの「わたし馬鹿よねー」はさすがにまずかったでしょうが・・・)あの教員寮に清水さんがいらっしゃらなければ、たぶん私は自ら進んで合唱団に入ることはなかったことでしょう。

その後、途中に25年の長いブランクはありましたが、トータルで17、8年は合唱に親しむ生活を送っています。

(今年は三月から八月まで、コロナで練習や演奏会が中止になっていますが・・・)

清水さんとは、40年近くお会いしていないのですが、私をコーラスの世界へと導いてくださった恩人です!

 毎年、定期演奏会の案内はいただきながら、農繁期と重なって行けてないので「今年こそは」と思っていたところが、このご時世・・・。

ぜひお会いして、お礼のご挨拶がしたいものだと思う今日この頃です。

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「アンサンブル アクア・ピュア」の3年前の写真(前列中央が清水さん)ですが、後列の男性数名のお名前は今も分かります。
自分が前期高齢者の仲間入りをしていますから、当時何歳か年上だったその方たちも70歳前後ということになりますね。