コロナ禍のために、高校スポーツの夏の全国大会は中止や代替大会となった今年。
吹奏楽や合唱は、代替も無く、コンクールは中止となってしまいました。
今から48年前の昭和47年(1972)の夏、当時田舎の高校の弱小吹奏楽部で生徒指揮をしていた私は、兵庫県の吹奏楽祭(コンクールと同時に開催、審査はなし)に向けて、連日練習に励んでいました。
吹奏楽祭はコンクールと違って、自由曲1曲のみの演奏。
選んだのはオリヴァドーティの「ポンセ・デ・レオン」という曲で、難易度からいうと主に中学生がよくやるような、比較的易しいものでした。
しかし、当時の我が母校は20名程度の小編成で、パートによっては助っ人を頼まないといけないようなお寒い状況でした。
写真のように、打楽器パートにティンパニもなく、その当時でも近隣他校に比べると10年は遅れていたと思われます。
吹奏楽祭兼コンクールは、尼崎市の玉江橋近くにあった尼崎文化会館で行われました。
設備が十分でなかったのでしょうか、チューニングやリハーサルは隣の中学校の教室でやった記憶があります。
吹奏楽祭の出場校は少なく、なんとコンクールの休憩時間に演奏しました。
当然、審査員は昼食・休憩に入っており、講評もなかったと思います。
さて、この「ポンセ・デ・レオン」という曲名ですが、当時は知るよしもなかったのですが、15,16世紀のスペインの探検家の名前だったのでした。
フアン・ポンセ・デ・レオン(Juan Ponce de León, 1474年 - 1521年7月)は、スペインの探検家、コンキスタドール。
スペインの都市サンテルバス・デ・カンポス(バリャドリッド県)に生まれる。若い頃より、イベリア半島にあるムーア人最期の地、グラナダ征服の戦争に参加する等していた。ポンセ・デ・レオンは新世界への2度目の航海で、クリストファー・コロンブスにも同行している。彼は当時のスペイン君主によって、プエルトリコの最初の統治者にも任命された。また、ヨーロッパ人としては初と言われるフロリダまでの航海を行い、若返りの泉の伝説とも結びつけて考えられる人物である。 (Wikipedia)
いよいよスタンバイして、指揮台の上に乗ったとき、客席前方から「ガンバレヨー」という声援が!!
(今では考えられないことですが、数年ぶりに大きな舞台に出た後輩たちに、休みを取って駆けつけた卒業生のTさんが思わず声を出してしまったようです)
一部の部員は中学時代にもコンクールを経験していましたが、殆どは大きな舞台が初めてとあって、指揮者の私も含めて緊張はピークに達していたと思います。
来る日も来る日も、この曲ばかり練習していたので、無事に(?)最後まで大きなミスもなく到達したとは思いますが・・・
今、写真を見ていると、卒業後一度も会ってない人、消息不明の人も数名あります。
一方で、医師、弁護士、地元企業の社長を始め、60代半ばの今も各界でご活躍されている人もあり、一度OB会でも開いて(コロナの収束までは無理ですが)、50年前の思い出話で一杯やりたいなと思う今日この頃です。
#ふと思いついて、この曲を取り上げ、YouTubeでいくつか聴いてみましたが、「え!こんな曲やったっけ!」と思うぐらいに、当たり前ですがレベルは全然違いますね。
吹奏楽に熱中して、高校3年間で最も成績が下がったのが、高2の2学期でした((;。;))