思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪卯の花の 匂う垣根に~(「夏は来ぬ」)

「夏は来ぬ」の検索結果 - Yahoo!検索(動画)

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『夏は来ぬ』  佐佐木信綱作詞 小山作之助作曲

 

一          
卯の花の 匂う垣根に
時鳥ホトトギス 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ


さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ


タチバナの 薫る軒端(のきば)
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ


(おうち)ちる 川べの宿の
(かど)遠く 水鶏(クイナ)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ


五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(クイナ)鳴き 卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ

明治33年(1900)に『新撰国民唱歌二』

 

6月の初め、村の土木係の仕事で、普段はめったに行かないような、地区の中でも山奥の方のため池に行ったとき、一番の歌詞にあるようなホトトギスの忍音(しのびね)(その年に初めて聞かれる鳴き声)を耳にしました。

 

ふと浮かんだのがこの曲。
佐佐木信綱の詩は一・二番はそうでもないのですが、三番の「蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる」とか、四番の「川べの宿の門(かど)遠く 水鶏(クイナ)声して 」などは、なかなか難解です。
 詳しい歌詞の意味については、以下のページが参考になります。
 http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/natsuhakinu.htm

 

昭和の終わり頃だったでしょうか。お中元のCMで、この「夏は来ぬ」「夏は絹(石鹸)」をかけて、放送していたのを鮮明に覚えています。

現役時代、授業の中で小ネタとして使えていた時期もありました。

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 ※当然知っているものと思っていても、年代の差が大きいとそうでもなくて、だんだんとネタには使えなくなりました(笑)

 

赤いたすき姿の乙女が田植えをしているシーンは、イヴェントでは見られるかもしれませんが、今や乗用田植え機に乗ったオジさん(その多くは前期高齢者、私もそうですが)が、10アール(1反)なら、1時間ほどで植えてしまいます。(画像は適当に拝借したものです)

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歌詞、メロディーともに格調高い名曲ですが、現役時代は歌詞の一部を古文教材の補助に使ったこともありました。

来ぬ(カ行変格活用、完了の助動詞)
玉苗(美称の接頭語)
川辺の宿(旅館ではなく、民家)
植えわたす(一面に~する)  等々

 

ちょっと次元が低いですが、「夏は来ぬ」を、「きぬ」ではなく「こぬ」と読んでしまうような生徒さんが、昔いたことも思い出されます。

 

 

 例年より早い田植えが終わると同時に、梅雨入り。

二週間ぶりにこのブログを書いていると、遠くからあの「テッペンカケタカ(天辺かけたか)」というホトトギスの鳴き声が、雨音や県道を走る自動車の音に混じって聞こえてきました。

 

 

♪ リリーのテーマ「北国のリリー」(映画「男はつらいよ」第11作)

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このブログでは、昨年の12月20日の記事で、「映画『男はつらいよ』の音楽 その2(劇中音楽)」というタイトルで、山本直純さんの映画音楽のすばらしさをとりあげました。

  「さくらのテーマ~歌子のテーマ」のメロディ!
 https://sf63fs.hatenadiary.com/entry/2019/12/20/165352

 

コロナ騒動の、いわゆる巣ごもり生活(田んぼの仕事は別ですが)の中、amazonプライムビデオで「プラス松竹」に入会し、このシリーズの第1作から48作までを視聴し終わって解約。
あるとき、U‐NEXTという動画視聴サイトがあるのを知り、今度は一ヶ月の無料体験をすることにしました。理由は「男はつらいよ」を高画質で配信していることでした。
寅さんのシリーズを最初から観ていくのが、いったいこれで何回目になるのか、自分でも分からなくなっています(笑) 
ストーリーはだいたい頭に入っているので、新たな発見といえば、どうしても登場人物のちょとした演技や背景(風景)、さらには重要なシーンでの音楽などについつい注意が向けられることになります。

 

そんな中で第11作「寅次郎忘れな草に使われている「リリーのテーマ」浅丘ルリ子三演じるリリーは計4回登場し、その都度テーマ音楽も変わりますが)は、素晴らしい曲ばかりの本シリーズの中でも、イチオシの名曲です!!
私が、テレビを観ながら、手元のタブレットで時々参考に見ている男はつらいよ覚え書きノート」というHPにも次のようにあります。

(第11作は)リリーと寅が網走の橋の袂で出会って、お互い短いひと時を過ごし、別れるまでのシーンはこのシリーズの屈指の名場面であるばかりか日本映画の屈指の名場面にもなりうる美しい叙情的なシーンだ。山本直純さんが作られた最高のテーマ曲のひとつである『リリーのテーマ』がなんともいえないもの悲しさを出していた
 http://www.yoshikawatakaaki.com/index.html

 

明るい爽やかなメロディーもいいですが、この「北国のリリー」(山本直純ほど、放浪の歌姫リリーの境遇や心情をよく表したものはないでしょう。

クラシックギターの伴奏で、主旋律をマンドリンが奏でています。
二人が出会うのが、朝の小さな漁港というのも、このメロディーと相俟って、なおさらこのシーンを忘れられないものにしています。

 

※無料体験はあと十日足らず、全部観ないでこれはというものに絞る必要がありますね。あるとき、娘にDVDをセットで買えばと言われたことがあります。

いっそ○○給付金をそれに充てましょうかね(笑)

♪ 「望春風」(台湾民謡)

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(女性歌手)

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望春風 - Bing video

(オーケストラ)

 

 

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このブログでは、これまではタイトル通りに、私が子どもの頃からリアルタイムで聴いてきた色々な歌や楽曲にまつわる思い出などをつづってきましたが、今回は「初めて聴くのに懐かしい」歌をとりあげました。

 

出会いはYouTubeです。
童謡「夕焼け小焼け」のオーケストラ演奏動画(徳岡直樹さん指揮の台湾のオーケストラ)を見つけて何度か聴いているうちに、「あなたにオススメ」ということで、台湾音楽の動画が紹介されるようになりました。

その中の一曲が、この「望春風」だったのです。独唱、合唱、オーケストラ、さらには二胡など様々な演奏形態があることから、この曲が台湾ではいかに有名かがよくわかりました。

この曲、歌詞の方は当然さっぱり分からないのですが、メロディーが妙に印象深く、折りに触れて頭の中で、繰り返し甦ってきます。やはり、名曲の持つ不思議な力なのでしょうか。

 (気に入った一つのメロディーが繰り返し繰り返し頭の中で奏されるという現象?が吹奏楽で生徒指揮をやっていた高校時代によくありました。苦手な理数系の授業中に多かったようですが・・・笑)

 

今風の曲とは違い、大変にゆったりとした曲調で、甘くせつなく恋する女心を歌い上げたということで、時代を超えて歌い継がれているようです。

 

望春風 bang chhun hong (1933年) 

李臨秋 詞 鄧雨賢 曲 (台湾語
一、
tok ia bo-phoaN siu teng e chheng-hong tui bin chhoe
獨夜 無伴 守燈下    清風 對面 吹
chap-chhit poeh hoe be chhut-ke tng-tioh siau-lian-ke
十七、八歳   未出家    當著 少年家
ko-jian phiau-ti bin-bah peh siaN-ka lang chu-te 
果然 標緻  面肉 白  誰家人 子弟
siuN-beh mng i kiaN phaiN-se sim-lai toaN pi-pe
想要 問伊 驚歹勢   心内 弾 琵琶
ひとりぼっちの夜 灯りの下に佇めば
 清らかな風が 頬を撫でて行く
 年頃を迎えた私は 素敵な男性を見かけたの
 ハンサムで色白の彼 どちらの家の方でしょう
 声をかけてみたいけれど ドキドキしてちょっと怖い
 高鳴る胸は まるで琵琶の音色のよう
二、
siu-beh long-kun choe ang-sai i-ai chai sim-lai
想要 郎君 做翁婿   意愛在心内
tan-thai ho-si ku lai chhai chheng-chhun hoa tong-khai
等待 何時 君來採   青春花 當開
thiaN-kiN goa-bin u lang lai khui mng ka khoaN-mai
聴見外面 有人來  開門 該 看覓
geh-niu chhio gun gong toa tai ho' hong phian m chai
月娘 笑 阮 愚 大呆   被風 騙 不知
 彼と結ばれたいと願う気持ちはそっと胸に秘めるだけ
 あなたはいつ摘みに来てくれるのでしょう
 今まさに美しい花を咲かせているこの私を
 おもてに誰か来たみたい きっとあの人よ
 扉を開けてみるけれど おかしいわ 誰もいない
 風のいたずらとも気付かない お馬鹿さんねと
 お月様が笑ってる
     「真美的 台湾郷土歌謡」
    https://ameblo.jp/chinsuie-taiwan/entry-10012784407.html

 

例によってWikipediaで調べてみますと

『望春風』(ぼうしゅんぷう、バンチュンホン、台湾語白話字:Bāng Chhun-hong)は、1933年に発表された台湾の民謡。作詞者は李臨秋、作曲者は鄧雨賢で、日本統治時代の歌手・純々(劉清香)のヒット曲である。現在は台湾語歌謡のうち、『雨夜花』と並んで最も代表性のある名曲であると言われる。
1933年、『桃花泣血記』の大成功を受け、台湾語歌謡への意欲を示した台湾コロムビアの社長である柏野政次郎の手によって制作された。歌詞は少女が一目惚れした男性との恋愛に憧れる様子を描く。
1941年に台湾総督府の下で、志願制度の実施予定により、越路詩郎が作詞する軍歌・『大地は招く』(霧島昇歌唱)にも改編された。
戦後にはテレサ・テン、鳳飛々、張清芳、一青窈などの歌手によりカバーされた。

 作曲者の鄧雨賢については

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鄧 雨賢(とう うけん、Teng Yu-hsien、1906年7月21日 - 1944年6月11日)は、日本統治時代の台湾の作曲家。唐崎夜雨のペンネームでも活動し、後に東田暁雨という日本名に改名した。

桃園県龍潭郷出身。広東省嘉応州鎮平県(現在の梅州市蕉嶺県)から移住した客家人の子孫。父の鄧盛猶が台湾総督府から台北師範学校(現在の国立台北教育大学)の漢文教師に招かれたため、3歳で父に従って台北に移住。1914年、艋舺公学校に入学した。1921年、15歳の時に台北師範学校に入学し、オルガンやマンドリンなどの西洋楽器に接した。1925年に卒業後に、大稲埕の日新公学校に勤務するが、24歳の時に日本に渡って作曲を学んだ。

1930年に台湾に戻り、台中地方裁判所の通訳を務めた。1932年、文声曲盤公司というレコード会社に入社し、『大稻埕行進曲』を作曲した。翌年、コロムビアレコードに移籍し、『望春風』『月夜愁』などの歌曲を作曲した。

1937年、台湾総督に小林躋造が就任すると「皇民化」政策が推進され、漢文歌曲は禁止された。『望春風』『月夜愁』などの曲が軍歌に書き換えられ、鄧雨賢は大きなショックを受けた。1940年に台北を去り、新竹県芎林郷で小学校の教師をするようになった。その後、健康状態が徐々に悪化し、1944年に肺疾患と心疾患により死去した。

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台北市内に銅像が建てられています。

 

上の引用文には「24歳の時に日本に渡って作曲を学んだ」とあり、「鄧 雨賢」で検索すると、解説文の中には日本に留学して「東京音楽学院」で学んだというのと、中には「東京音楽学校」(東京芸大)でというのがありますが、詳細は不明です。

 

いずれにしても、冒頭のYouTube動画にあるように、たぶん何かのコンサートのアンコールだと思いますが、オーケストラ伴奏で会場の人たちが一斉に歌っているのを見ると、いわば国民的な名歌ということが言えるのではないでしょうか。

 

YouTubeではいろんな演奏パターンの動画があって、次々聴いていると、ますますこの旋律が耳に焼き付いてしまいそうです(笑)

♪ あの影は 渡り鳥~「わたりどり」(大中恩)

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「渡り鳥」   詞:北原白秋
あの影は渡り鳥、
あの耀きは雪、
遠ければ遠いほど空は青うて、
高ければ高いほど脈立つ山よ、
ああ、乗鞍嶽、
あの影は渡り鳥。
(『水墨集』/アルス/1923年)

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去年始めたFacebookで、昭和53年(1978)から4年間所属していた伊丹混声合唱(残念ながらその後発展的に解消)の指揮者だった井上一朗浄土真宗古刹のご住職)の投稿を毎日のように見ているうちに、氏の(たぶん龍谷大学時代の)お友達の投稿に、この「わたりどり」の記事を見つけました。

 

伊丹混声では、その頃毎週火曜・金曜の夜7時から9時の練習の最後に、この曲を歌っていました。
(これもたぶんですが、井上氏が龍谷大学ラポール時代から唄っておられたのではないでしょうか)

 

短い曲で、歌うのにもそれほど難しくはありませんが、いくら繰り返し歌っても飽きの来ないと言うか、歌い終わると気持ちがスーッと落ち着くような、そんなのびやかで感じの良い旋律でした。

このたび、気になってネットでいろいろと調べていくと、この曲は大中恩氏にとっては初めての合唱曲であったようです。

 

  大中恩(おおなか めぐみ)

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1924年7月24日、作曲家大中寅二のもとに生を受ける。東京都生まれ。東京音楽学校(現・東京藝術大学)作曲科卒業。その後、歌曲や合唱曲を中心に精力的に創作活動を行う。
1955年中田喜直らと5人で「ろばの会」を結成、童謡と出会う。「サッちゃん」、「いぬのおまわりさん」、「おなかのへるうた」など、長く愛され続ける童謡を数多く創作。1982年には「現代こどもの歌秀作集・大中恩選集」で日本童謡大賞を受賞。「ろばの会」では、2000年の解散まで、45年にわたり子どものための音楽の創造と発展に尽くした。
1957年、自作品のみを演奏する合唱団「コールMeg」を主宰。数々の混声合唱作品を送り出しながら、9夜連続演奏会や日本縦断コンサートなど、ユニークな活動で名声を得る。現在も合唱団「メグめぐコール」、「コールグレース」での活動を続けている。
1960年からJASRACメンバー。
1989年紫綬褒章受章。
  「作家で聴く音楽」  https://www.jasrac.or.jp/sakka/vol_37/inner3.html

童謡
●サッちゃん
●いぬのおまわりさん
●おなかのへるうた
●バナナをたべるときのうた
●かぜのなかのおかあさん
●すっからかんのかん

合唱曲
●わたりどり
●島よ
●かたつむりのうた
●旅に出よう
●水のうた

歌曲
●時雨に寄する叙情
●淡月梨花の歌
●晝下がりのジョージ

他多数

 

Wikipediaによりますと大中氏は、 

「1942年に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)作曲科入学。学徒出陣で海軍に召集された。1943年の混声合唱曲『わたりどり』(詩:北原白秋)は戦地で果てる覚悟で書いたという」

ことです。

翌年、海軍少尉に任官後、海軍の横浜港湾警備隊へ。特攻兵器「回天」の乗組員として、3度も特攻隊に志願した。

 一つ間違うと、戦後の名曲群は生まれなかったわけですね。

 

昭和の50年代から合唱をやっていた者には、やはり混声合唱曲「島よ」(1970)がインパクトある名曲で、忘れがたい曲には違いないのですが、この「わたりどり」のような小品と違って、気軽に口ずさむという訳にはいきません。
 

大中氏の作風は、「歌詩に基づく優しいメロディとリズム、美しい語感をたたえた和声が特徴」といわれます。

さすがは、あの「椰子の実」の作曲者である大中寅二氏を父に持ち、幼少期から教会の音楽に親しまれたお方ですね。

 

「わたりどり」を聴くと、40年ほど前の伊丹市文化会館の練習室の様子や、自宅まで50数キロの道のりを車をとばして帰ったことなどが懐かしく思い出されます。

 

※2月末から二カ月半ほどコーラスの練習がストップしています。

3月中は、6月末の定演でやる予定のモーツァルトのミサkv220などを練習したりしていましたが、定演中止が決定すると自主練も中止(笑)。

ときどき、無性に昔の合唱曲が聴きたくなる今日この頃です。

♪ ロシア民謡「一週間」~謎めいた歌詞~

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歌:ボニージャックス(1963年『第14回NHK紅白歌合戦』、司会・宮田輝

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日曜日に 市場に出掛け
糸と麻を買ってきた。

テュリャ テュリャ テュリャ・・・・
     ( 以下   囃子言葉を簡略 )
月曜日は お風呂を焚いて

火曜日に お風呂に入り

テュリャ テュリャ テュリャ ・・・・

水曜日は 友達がきて

木曜日は 送っていった。

テュリャ テュリャ テュリャ ・・・・・

金曜日は 糸巻きもせず

土曜日は おしゃべりばかり

テュリャ テュリャ テュリャ ・・・・・

友達よ これが私の

一週間の 仕事です

テュリャ テュリャ テュリャ ・・・

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前の東京オリンピック(昭和39年・1964)の後ぐらいだったでしょうか、3歳年上の従兄(現在、胆石の手術で入院中、コロナで見舞いも行けず)が、中学で覚えてきたものか、よくこの歌を唄っていました。

当時、私は10歳ぐらい。歌謡曲に興味が芽生え始めた頃でした。

この歌のメロディーの調子の良さと、歌詞の不思議さが妙に印象深かったのを覚えています。

今と違って、謎めいた歌詞の意味を調べる手段もなく、何十年とそのままだったのですが、このブログを書くにあたって、ネット検索をしてみると、やはり同じような疑問を持った方は多いと見えて、「yahoo知恵袋」にも質問があがっていました。

 

まずは、ウィキペディアですが・・・

「一週間」、原題「Неделька」(ニェジェーリカ、「週」)は、ロシアの民謡。
女性の一週間の様子を歌ったロシア民謡で、作詞・作曲者は不詳。19世紀頃に成立。

日本では「楽団カチューシャ」による訳詞(1954年)が有名で、その内容はロシア語原詞を比較的忠実になぞったものである。この他訳詞担当は不明だが、「日曜日はにこにこ」「月曜日はげんきに」と、曜日のだじゃれで構成されたのも有った。
1963年4月にはNHKの『みんなのうたで紹介。編曲は若松正司で、歌はボニージャックスが担当した。2016年12月現在音声のみ見つかっており、映像は見つかっていない。同年8月にはボニージャックスの歌唱でキングレコードからシングル発売され、同年12月の『第14回NHK紅白歌合戦でもボニージャックスにより披露されている。また、同じくNHKの『おかあさんといっしょ』『歌はともだち』『歌のメリーゴーラウンド』『ドレミノテレビ』などでも歌われた。
2015年3月22日から、JR西日本大阪環状線野田駅の発車メロディに採用されている。楽団カチューシャの訳詞にある「日曜日は市場に出かけ」という歌詞と、大阪市中央卸売市場本場の最寄駅であることにちなむ。
日本では、この曲のメロディがCMソングとして使用される機会が多い。1960年代後半にスバル・360、1980年代にハウス食品「ザ・シチュー」(1983年)やタイヘイ「タイヘイファミリーセット」、エッソ、1990年代前半に丸美屋食品工業(以下略)

 

歌詞の内容については、ふれてありません。

 

主人公の娘さんが、「私はこんなに単調な生活を送ってるのよ~」と嘆いているのでしょうか?

いろいろな解釈があるようで、「直訳自体が間違っていて、~私は一週間働きづめだった」(yahoo知恵袋)というのも見られます。

 

また、ブログで取り上げていらっしゃる方もありました。

「孤舟の多事雑感ブログ」

ameblo.jp


 

この歌詞の主題は、 この家の娘さんが、愛しい恋人に向けた素朴な彼女の胸のうちなのです。

日曜日に麻布と紡錘(巻き軸)を
買ってきて
一週間が始まる。
今週は 年末年始だったため
仕事はあまり捗らなかった。
月曜日から サウナに火を入れたり
年末だから家にエミーリカ、貴方が挨拶にきてくれたわ。
そして 宿泊していった。
金曜日は 新年の1月1日。
皆 仕事を休むわ。
翌日の土曜日は内乱で亡くなった人や祖先に供養をして新年を迎えたの。
エミーリカ。これが 私の一週間だったの。
早く 私をここから連れ出して!
毎日の夢のない退屈な生活と、内乱の中で男達は死んでゆく。
エメーリカ、早く私をこの町から連れ出してよ。

このような 田舎の素朴な娘さんの心境を歌ったものと解釈できます。

ネット上には、本当に様々な解釈が見られますが(玉石混淆!)、どうも時代背景などを考慮すると、この方の解釈が説得力がありそうです。

 

ロシア語という高いハードルがあるために、メロディーに馴染みはあるものの、その歌の本来の意味がわからなくなっている一例ですね。

逆に、その謎めいた部分が、何十年たっても、その歌を忘れられないものにしているのでしょうか。

 

※ボニージャックスの皆さん、さすがは早稲田のグリーで鍛えられただけあって、音響設備の未発達な当時ですが、すばらしいお声ですね!

♪ 夕焼け小焼けの~ 「赤とんぼ」(山田耕筰)その2

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 歌:鮫島有美子

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■ 歌詞の勘違い

「赤とんぼ」 作詞:三木露風 作曲:山田耕筰

 

夕焼小焼の 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を
小籠(こかご)に摘んだは まぼろし

十五で姐や(ねえや)は 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた

夕焼小焼の 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

昔からよく言われていることですが、1番の「負われて」を「追われて」という勘違いが、子どもの頃の私にもありました。

赤とんぼに追いかけられるシーンなんて、まずあり得ないわけですが、「背負われる」ならまだしも「負う」(負われる)という言葉がピンと来ませんでした。

 

十五姐や(ねえや)は~」という部分も、今の若い人たちにはわかりにくのではないでしょうか。

「姐や」を「姉」ととってみたり、「十五」は作者が十五歳の時と解釈する人も多いことと思います。

言うまでもなく、「姐や」は子守の女中奉公に三木家に来ていた少女のことです。

三木露風の祖父は旧龍野藩士で初代龍野町長を務めたような人でした。

露風の母も元鳥取藩家老の娘さんだったということで、「実の母が我が子を負ぶって~」などということは到底あり得ない家柄だったのです。

 

幼い露風を子守してくれた女性(北隣の宍粟郡:現在の宍粟市出身)が15歳で嫁入りし、嫁ぎ先からの便りもぷっつりとなくなったというのが三番の歌詞です。

 

■ 高低アクセントと旋律の関係

 

山田耕筰という作曲家が、日本語の歌詞の高低アクセントに忠実に作曲をしたというのはよく知られています。

ところが、この曲の「赤とんぼ」の部分については、昔からいろいろな議論があるようです。

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「あか」(赤)だけですと、確かに上のような音程(高→低)となると思われます。

しかし、「赤とんぼ」となると、普通は「あ“かと”んぼ」と「かと」の部分を高く発音するのではないでしょうか?

このことについては、作曲された昭和の初めころの東京では「“”かとんぼ」と「」の部分が高く発音されていたから、作曲者はそのようにしたのではないかというのが有力なようです。

私たち素人にはそれ以上何も言えませんが、当地方では「あ」を高く発音すると、「赤」ではなく「垢」のことになるので、やはり気にはなりますね。

 

※ そもそも、一番の歌詞の冒頭「夕焼け小焼け」の「小焼け」って、どういう意味なんでしょうか?

手元にある『日本国語大辞典13』(小学館)と『新明解国語辞典』(三省堂

でこの言葉を引いてみました。すると・・・

日国:「こやけ」は語調を整えるために添えたもの。「ゆうやけ」に同じ

新明解:夕やけがだんだん薄れること

私的には、上の解釈が妥当ではないかと思いますが、いかがでしょうか。

例えば、「大波小波」、「大寒小寒」(おおさむこさむ)、「仲良しこよし」などという言い方がありますし・・・。