思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 犬童球渓「旅愁」

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作詞: 犬童球渓(1884 - 1943)
作曲: ジョン・オードウェイ(1824 - 1880) 原曲: 「家と母を夢見て」(Dreaming of Home and Mother、1868年)

1.
更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに 一人悩む
恋しや故郷 懐かし父母
夢路にたどるは 故郷(さと)の家路
更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに 一人悩む
2.
窓うつ嵐に 夢も破れ
遥けき彼方に 心迷う
恋しや故郷 懐かし父母
思いに浮かぶは 杜(もり)の梢
窓うつ嵐に 夢も破れ
遥けき彼方に 心迷う

 

朝のラジオで天気予報を聴いていると、11月7日(土)は立冬とか。
たしかに、内陸部の当地では朝方2度とか3度とか冷え込む日もありましたが、農繁期も終わった今日この頃は、7時以前に起きることもなく、そんな冷え込みは実感してはいません。
紅葉のたよりが聞かれるこの時期になると、「更け行く秋の夜~」で始まるこの歌が思い出されます。
長い間、犬童球渓作曲と思っていました。犬童が音楽教師だと知っていたからでした。
ところが、昨年まとめた自費出版『「坊っちゃん」に見る明治の中学校あれこれ』amazonで好評?発売中)の中で、犬童がわが兵庫県下旧制中学初の音楽教師だということを載せたときに、これは作曲ではなく、「訳詞」と知ったのでした。

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二 音楽教師・犬童球渓のこと

 表の中には、「唱歌」(音楽)が週に一時間設定されていますが、これには「法制及経済」とともに、「当分之ヲ欠くコトヲ得」(当分はこの科目を開設しなくてもよい)という但し書きがついていました。
 したがって、男子ばかりで進学指向の強い中学校にあっては、英語、数学などに振り替えられるのが普通で、東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高等学校)のように、明治二十年代から「唱歌」の授業を実施していた学校は希(まれ)でした。
  そんな中、「故郷の廃家」、「旅愁」などの訳詞で知られる犬童球渓(いんどうきゅうけい)(本名・信蔵、明治十二年~昭和十八年・一八七九~一九四三)は 、明治三十八年(一九○五)東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)甲種師範科を卒業後、「兵庫県下中学校初の唱歌科教師」として県立柏原(かいばら)中学校(現在の県立柏原高等学校)に赴任しました。同校同窓会「柏陵会」のホームページでは、その頃の様子を次のように紹介しています。

    当時の校長、平沢金之助が、日露戦争で荒れる生徒の心をやわらげ、情操教育に役立てるため、音楽科を設け、犬童を招いたのだが、生徒たちは「音楽は女子がするもの」として反発。授業中、やじを飛ばし、机をたたくなど、授業を妨害した。犬童は心身ともに疲れ、赴任した年の十二月、辞職願を提出。新潟高等女学校に転任した。
                                
 傷心を抱きながら柏原を去った犬童ですが、次の赴任先となった新潟県立新潟高等女学校で「旅愁」や「故郷の廃家」を作りました。
 犬童にとって、柏原町は失意の赴任地ではありましたが、故郷の熊本県人吉の山河に似た土地に愛着があったのでしょうか、後に依頼されて柏原中学校の校歌を作曲しています。
 この「唱歌」が「音楽」と改称され、一応必修科目となったのは昭和六年(一九三一)のことでした。
『「坊っちゃん」に見る明治の中学校あれこれ』第6章 「学科目あれこれ」より)

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(昨年、この丹波市柏原町に「旅愁」の歌碑が建立されたと、地元の新聞が伝えていました。「旅愁」歌碑 | 丹波新聞

 

旅愁を取り上げたブログをいくつか拝見すると、この柏原での出来事を紹介しているものが2,3ありました。
ただ、どれも西洋音楽排斥運動」といったとらえかた(おそらくコピーでしょうが)となっているのに違和感がありました。
やはり、ここは日露戦争の真っ最中、明治時代の田舎中学(失礼)の生徒気風などを考慮すべきだろうと思います。
「唱歌」(音楽)=軟弱というのが、一般の受け取り方だったのでしょう。

 

犬童は熊本県人吉市に生まれ、東京音楽学校を卒業した。大学卒業後、音楽教師として各地を転々とし、新潟高等女学校に勤務していた期間中に、ジョン・P・オードウェイの『家と母を夢見て』の曲を知り、故郷の熊本県から遠く離れた自分の心情と重ね合わせながら訳詞した。明治40年(1907年)8月に発表された「中等教育唱歌集」において、犬童の訳詞曲として『旅愁』と『故郷の廃家』の2曲が採用された。これはすべて日本国外からの翻訳唱歌を集めた音楽教科書であったが、当時としては画期的な試みのひとつとして各曲にピアノ伴奏楽譜がついていた。当時の翻訳唱歌の大半は「学校唱歌校門を出ず」のレベルにとどまっていたが、犬童球渓の訳詞による『旅愁』はアメリカの曲にも関わらずすっかり“日本の歌”として広く親しまれている。(Wikipedia

国立国会図書館デジタルコレクションで上記の「中等教育唱歌集」を見ると、歌詞が次のようになっていました。

(一)更け行く秋の夜よ、 旅の空の、
わびしき想ひに、 ひとりなやむ。
戀しやふるさと、 なつかし父母、
夢路ゆめぢにたどるは、 故郷の家路。
更け行く秋の夜よ、旅の空の、
わびしき思ひに、ひとりなやむ。


(二)窓うつ嵐に、 夢もやぶれ、
はるけき彼方に、 心運ぶ
戀しやふるさと、 懷かしちゝはゝ、
思ひに浮ぶは、 杜のこずゑ。
窓うつ嵐あらしに、 夢もやぶれ、
はるけき彼方に、 こゝろはこぶ

掲載: 山田源一郎編『中等教育唱歌集』共益商社楽器店、1907年(明治40年)8月
底本: 『中等教育唱歌集』再版

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元の詩にある「心運ぶ」という言い方は聞いたことがありませんね。

言葉のつながりから言うと、たしかに「遥けき彼方に 心迷う」よりも「彼方に」「運ぶ」のほうが理屈は合っているように思いますが・・・・?
著作権というものがあまり意識されていない当時のことですから、文部省のお役人か、ひょっとして楽譜の出版関係者が、勝手に書き換えた可能性はあると思います。

以前、「浜辺の歌」を取り上げたときに作詞の林古渓氏の話の中に、同じようなことがありました。

 

いずれにせよ、遠い異郷(兵庫県柏原、新潟)での犬童の音楽教師としての挫折と失意の経験から生まれた詩であると知ると、名曲の味わいがさらに深まるのではないでしょうか。

何かで読んだのですが、オードウェイの元歌は母国ではすっかり忘れられているとか。

他にもこうした例はあるようですが、 やはり訳詞意訳でしょうが)のすばらしさということになると思います。

 

※「広報ひとよし」2011年12月号に「愛郷詩人 犬童球渓」として特集されていました。

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