思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 「雨降りお月さん」

https://www.youtube.com/watch?v=FFPei6yDzvg

はいだしょうこ

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野口雨情作詞・中山晋平作曲/大正14年

1番(雨降りお月さん)
雨降りお月さん 雲の蔭
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
ひとりで傘(からかさ) さしてゆく
(からかさ)ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴付けた
お馬にゆられて 濡れてゆく

 

2番(雲の蔭)
いそがにゃお馬よ 夜が明けよ
手綱(たづな)の下から ちょいと見たりゃ
お袖でお顔を 隠してる
お袖は濡れても 干しゃ乾く
雨降りお月さん 雲の蔭
お馬にゆられて 濡れてゆく

  平年よりも20日以上早く、近畿地方梅雨入りしたようです。
 五月晴れの期間は短く、雨で黒くなった田んぼに雑草の緑が目立ち、気になるのは耕作者だけでしょうが、週明けは蒸し暑く、鬱陶しいスタートとなりました。
 「雨」にかかわる楽曲は、これまでにもいくつかとりあげましたが、今回はふと浮かんだ懐かしの童謡から「雨降りお月さん」です。
 幼児の頃は、「あめあめふれふれ かあさんが~」という出だしの「あめふり」のほうは歌ったでしょうが、こちらは歌詞も旋律も難しく、もっぱら聴くばかりであったように思います。
 今回、ネットで色々と調べてわかりましたが、なかなか「擬人法」には気がつきませんでした。(あなたは元々何の教師やったの!?と云われそうですが)

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野口雨情・茨城県北茨城市ホームページ

「野口雨情記念館 湯本温泉 童謡館」https://www.iwaki-cc.ac.jp/douyou/ame.html
ホームページの説明が歌の背景も含めて分かりやすかったので、以下に挙げておきます。 

雨降りお月さん

 「雨降りお月さん」は大正14年(1925年1月)にできた作品です。
詩を読むだけでも切ない感じをうけます。
 この歌詞は、太陽や月のまわりに見える輪のような光を暈といい、月の暈がかかることをお月さんが傘をさす、といいます。そしてお月さんが暈をさすと翌日は雨になるといわれています。この歌は、かさをさしたお月さんを現実に踏まえて、幻想的にうたったものです。
大好評
 最初に作られたのは1番だけでしたが、その後2番が新たに付け加えられました。1番と2番は別々に作られた違う曲で、旋律を微妙に変えているのです。  最初は、題名を「雨降りお月」としていましたが作曲者の晋平の要望で「さん」をつけて発表しました。 この歌は子供たちから大好評であり大人もじゅうぶんに楽しめる曲です。
しきたり
 雨情の孫、野口不二子さんによると、雨情夫人ひろから興入れの日は雨が降っていて、栃木県塩谷郡喜連川(きつれがわ)から馬で2日もかかって来たという話しを聞かされていたそうです。当時この辺りのしきたりでは、花嫁は馬に乗って婚家に嫁ぎ、花婿や村人たちは、家の前で行列を迎えたそうです。
ひろも、しきたり通りに馬に乗って野口家に嫁ぎました。しかし、その日は、あいにくの雨でした・・・。
 迎えた雨情は、白無垢姿の花嫁の濡れた綿帽子を心優しくはずしました。これが、2人の初めての対面でした。この詩はそのときのことを歌ったものです。
  お嫁さんは、新しい生活への希望に満ちて、凛として馬に乗って嫁いできたことからこの詩は、雨の中を、遠く長い道のりを濡れながらやってきた花嫁に対するねぎらいの思いを歌ったものなのです。

  作詞家・作曲家の俗にゴールデンコンビというのがあります。
 「北原白秋山田耕筰」とか、「西条八十古関裕而」とか、まだまだあると思うのですが、この「野口雨情・中山晋平という組み合わせも音楽史上に残るゴールデンコンビです。
 我々世代には懐かしい次のような歌があります。

「兎のダンス」(ソソラ ソラ ソラ うさぎのダンス~)
「証城寺の狸囃子」「あの町この町」(あの町この町 日が暮れる 今きたこの道 帰りゃんせ~)
「黄金虫」(黄金虫は金持ちだ~)
「シャボン玉」「波浮の港」(磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る~)

 

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中山晋平記念館ホームページより

 「雨」にまつわる楽曲が多いのは、やはり自由に外出もできず、家に籠もって内省的になり、そういう状況から詩想や旋律が浮かんでくるからなのでしょうか?
 古今東西を問わず、心に残る曲が多いように思います。
 この記事もタダタケさんの「雨」をYouTubeで聴きながら書きました(笑)

 

♪ 「モルダウ」初めて聴いた外国のオーケストラ

www.youtube.com

 日曜日の朝は、NHKラジオで「音楽の泉」を聴きながら朝食、と言うといかにも優雅な生活のように聞こえますが、いつもせいぜい初めの10分かそこらで、次の支度に。
 今朝は、ドボルザーク「新世界」ー(管弦楽ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、(指揮)小澤征爾ーが流れていました。

 ふと思い出したのは、初めて外国のオーケストラを聴きに行ったときのことでした。
 昭和49年(1974)か50年(1975)、広島での大学生活1年目か2年目の春でした。
 ヴァーツラフ・ノイマン (Václav Neumann, 1920年9月29日 - 1995年9月2日) 指揮のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団を聴きに行きました。
 懐に余裕があったのか、割と前の方の席でした。プログラムはおそらく、モルダウ」と「新世界」という、地方公演によくある定番の組み合わせだったのではないでしょうか。
 

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 会場は広島郵便貯金ホール。まだ出来て間もない、ずいぶんと音響効果の良いホールだったそうです。
 それまでに「生」で聴いたことがあるのは、中学生の頃に町の小学校の体育館で聴いた大阪フィル朝比奈隆指揮、これもたぶん「新世界」)と、高校2年の時に近くの中学校の芸術鑑賞で聴いたNHK交響楽団の小編成(20数名?)が演奏した「運命」ぐらいでした。

 

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 さて、モルダウは、「モルダウの最初の源流」を描写したフルート、クラリネットによる例の序奏から徐々に楽器が増えて、いよいよ弦楽器によるあの有名な主題が演奏されるわけですが、その瞬間の迫力のある弦の響きは、それまでに体験したことのない、体が震えるような感動的なものでした。 

 

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 古くほこりをかぶったファイルに綴じている昔のコンサートのパンフレットを探していたら、昭和63年(1988)にも姫路への来演時に聴きに行っているのですが、記憶に残っていません。
 それほど、初めてのチェコフィルの響きは印象深いものだったわけですね。

 長かった独身時代に、もっといろいろと聴いておくべきだったと今になって思います。
 暇も出来て、聴きに行こうと思えばいつでも(?)行ける境遇ではありますが、近年は音楽でも落語でもYouTubeで、というのが普通になってしまいました(笑)

 しかし、前期高齢者ともなると、なかなか没頭して視聴するということが少なくなります。

 やはり、安直に得られる感動なんていうものは、期待してはいけませんね(笑)

 

♪  「鯉のぼり」(甍の波と~)

www.youtube.com

 ゴールデンウィーク間近ではありますが、世間は3度目の緊急事態宣言で、行楽の自粛を余儀なくされ、たまの農作業の他はテレビやスマホ、パソコンに向かうことが多い日々が続いています。
 薫風香る好季節のこの頃になれば、広い村のあちこちに鯉のぼりが風に泳ぐ姿が見られたのもずいぶんと昔になりました。(今年30になる息子が幼い頃はうちでも上げていました)
 近年は近所に子どもの姿は見られず、聞くところでは地元の公立小学校への新入生はたった一人とか。(60年前の私の同級生は10人。さらに上の団塊の世代は20人ぐらいはいたそうです・・・)

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 この時期に思い出す歌と言えば、やはり「鯉のぼり」でしょうか!
 ただ、下のように同じ曲名で三つもあるそうで、最近は3の歌が歌われることが多いようですが、やはり我々世代には2が懐かしいですね。近年では混声合唱組曲「ふるさとの四季」(源田俊一郎)の中で歌いました。
(1については今まで知りませんでした)
1 作詞・東くめ、作曲・瀧廉太郎 『鯉のぼり』
2 作詞者不詳、作曲・弘田龍太郎 『鯉のぼり』1914年(大正3年
3 作詞・近藤宮子、作曲者不詳 『こいのぼり』1931年(昭和6年

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広島大学教科書コレクション画像データベース」より 

上は昭和16年(1941)の教科書


こいのぼり 作詞:不詳/作曲:弘田龍太郎

1

(いらか)の波と 雲の波
重なる波の 中空(なかぞら)
(たちばな)かおる 朝風に
高く泳ぐや 鯉のぼり

2
開ける広き 其の口に
舟をも呑(の)まん 様見えて
ゆたかに振(ふる)う 尾鰭(おひれ)には
物に動ぜぬ姿あり

3
百瀬(ももせ)の滝を 登りなば
(たちま)ち竜に なりぬべき
わが身に似よや 男子(おのこご)
空に躍るや 鯉のぼり
1913年(大正2年)に刊行された『尋常小学唱歌 第五学年用』が初出

  小学校5年生ぐらいに習ったでしょうか、1番の歌詞が印象深いのです。
 というのも、 「橘(たちばな)かおる 朝風に」というところを、休み時間に替え歌風に「森本(もりも~と)馨(か~お~る)」(同級生の男子の名前)と友達が歌っていたことが思い出されてくるからです。
 彼は家業の石屋さんを継いでおり、我が家のお墓でもお世話になりました。

 

 ちなみに、3の歌詞は鯉が滝を上って竜になる中国の伝説「登竜門」が元になっているといわれ、男の子が「こいのぼりのように雄大な姿に成長するように」という立身出世の願いが込められているということです。
 「登りなば」とか「なりぬべき」という文語調の歌詞から、戦後は歌われなくなったのではないしょうか。
 この歌を思い出すと、いつもこの部分のメロディー(ラララーソ ファラソファミ)と森本君のふっくらとした優しい顔つきが脳裏に浮かんできます。

 

 実は私の住んでいる加東市のうち、旧東条町域の一部では鯉のぼり作りやひな人形作りが今も行われているのです。

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加東市の鯉のぼりは「播州鯉」とよばれ、写実的で格調高く品質のよさが高い評価を得ています。明治30年頃から東条地域で始まりました。ひな人形とともに節句を祝う品としてこの地で定着しています。(加東市観光協会ホームページ)

  初めての孫(男の子・葵)の生まれたときに鯉のぼりをプレゼントしましたが、マンション住まいのために、ミニチュアのようなのをネットで探して送りました。

 本格的な鯉のぼりを買って上げられる家も少なくなってきています。

♪ 「ハイケンスのセレナーデ」

https://www.youtube.com/watch?v=8cXqwAJLQOo

(ウィーン管弦楽団)

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    今年に入ってから、昼食後の寛ぎの時間は、「家鉄」として全国各路線の前面展望動画を地図帳を片手に視聴しています。
 四国は一周して、今は九州は佐賀県筑肥線)あたり。
 あるとき、オススメ動画に上がってきたのは、今はほとんど絶滅した夜行寝台列車でした。
 かつての国鉄時代に、「銀河」(大阪ー東京)、「筑摩」(大阪ー長野)、「なは」(姫路ー西鹿児島)に乗ったことがありました。

ふと、思い出したのは車内放送のチャイムに使われているハイケンスのセレナーデの旋律でした。

 【車内放送】寝台特急はやぶさ(24系 ハイケンスのセレナーデ 東京発車前) - Bing video

 スマホの着信音はこれまではデフォルトの中から「発車メロディー」にしていましたが、昨夜少し手こずりながらも、この「ハイケンス」に変更したところです(笑)
 作曲家のハイケンスについては、下のような説明がありましたが、なぜチャイムに採用されたのかは不明です。

ジョニー・ハイケンス(Jonny Heykens, ヨハネス・ヤコブス・ハイケンス オランダ語: Johannes Jacobus Heijkens, 1884年9月24日 フローニンゲン - 1945年6月28日 ヒルフェルスム)は、オランダの作曲家。

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人物・来歴
ベルギーに留学し、ブリュッセル音楽院でウジェーヌ・イザイにヴァイオリンを学ぶ。その後、自ら楽団を設立し、指揮者としてヨーロッパ中で活躍した。
ハイケンスは、ナチスの忠実な支持者であった。新聞紙上などでアドルフ・ヒトラーを賞賛し、ユダヤ人や黒人に対する人種差別的な見解を表明していた。ハイケンスは、第二次世界大戦終結後までドイツで演奏家として活躍していたが、戦争末期にオランダに帰国後、連合軍にナチス・ドイツに対する協力的な姿勢を問われて、ヒルフェルスムの監獄に収監され、間もなくして獄中にて死去した[2]。60歳没。
以降、オランダにおいて、ハイケンスの名は重要な音楽家とは見なされることなく、忘れ去られた。
ハイケンスは「ハイケンスのセレナーデ」(Ständchen, Op.21-1)の作曲者として知られる。ハイケンスは他にも多くの楽曲を作曲したが、戦争などでほとんどの作品は消失し、現在ではハイケンスのセレナーデ以外は全くと言ってよいほど知られていない。
日本において、この曲は1943年に日本放送協会のラジオ番組『前線へ送る夕』(ぜんせんへおくるゆうべ)のテーマ曲として採用されたことで一般に知られるようになり、戦後は旧日本国有鉄道国鉄)の客車の車内放送用チャイムに第一主題の旋律の末尾部分が採用された。現在でもJR各社の客車やその譲渡車、JR北海道の特急列車、高速乗合バスJAMJAMライナーの新日本観光自動車運行便などに搭載・使用されている。(Wikipedia)

 太平洋戦争たけなわの頃に、連合国側のオランダ人の作った「敵性音楽」をNHKが流していたというのは、違和感がありますが、上記のように「ナチスの忠実な支持者であった」ということから、大目に見てもらっていたのでしょうか!? 

 

 いつ頃からか、あちこちの駅で発車メロディーを競うかのように設定するようになりました。

 関西では大阪環状線がよく知られています。贔屓の落語家の桂雀三郎さんのヨーデル食べ放題が鶴橋駅で使われているのを、ご本人がマクラでよく話していますね。

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 鉄ちゃんにも、ホントに色々なタイプがありまして、よく知らないのですがひょっとして「発車メロディー」あるいは「社内放送」専門の人もあるのでしょうね。
 私の場合は、家鉄、またはYouTube鉄とでも言うんでしょうか。

 なかなか、気ままに列車旅というような状況ではなく、日に日にコロナ陽性者が増えてきています((;。;))

 まだまだ「家鉄」が続きそうな予感。

♪ 「東京ラプソディー」(藤山一郎)

https://www.youtube.com/watch?v=mfB_UAwcXhA

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「東京ラプソディ」
門田ゆたか作詞・古賀政男作曲/昭和11年
1.
花咲き花散る宵も
銀座の柳の下で
待つは君ひとり 君ひとり
逢えば行く ティールーム
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

2.
現(うつ)つに夢見る君の
神田は想い出の街
いまもこの胸に この胸に
ニコライの かねも鳴る
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

3.
明けても暮れても歌う
ジャズの浅草行けば
恋の踊り子の 踊り子の
ほくろさえ 忘られぬ
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

4.
夜更けにひととき寄せて
なまめく新宿駅
あのこはダンサーか ダンサーか
気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

5.
花咲く都に住んで
変わらぬ誓いを交わす
変わる東京の 屋根の下
咲く花も 赤い薔薇
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

 

 

 平日の昼食時には、毎日のようにラジオでNHKのニュースの後、「昼のいこい」を聴いています。
 先日、藤山一郎さんの「東京ラプソディ」がかかっていました。
 ふと思い出したのは、4年前に所属する混声合唱団(コロナ禍で一年あまり活動を休止中)の定期演奏会でこの曲を歌ったことでした。
 改めて、歌詞を見ると1番2番は何と言うこともないのですが、3番では「恋の踊り子の」という文句がちょっと気になります。
 そして、一番気になるのが4番です。
 「夜更けにひととき寄せて なまめく新宿駅の~」という一節。
 「ひととき寄せる?」何を寄せるのでしょうか?
 「なまめく新宿駅?」
 その昔、地下鉄ネタで知られた東京漫才の三球照代さんのセリフではありませんが、考えれば考えるほど夜も寝られない(笑)

 こういう用語に意味的な飛躍がある(?)独特の歌詞は、あの西条八十さんかなと思って調べると、違っていましたが、作詞の角田さんは、西条さんの直弟子でした。
やっぱり、師の薫陶の成果でしょうか?

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門田 ゆたか(かどたゆたか、1907年(明治40年)1月6日-1975年(昭和50年)6月25日)は昭和期の作詞家。本名門田穣。
経歴
福島県信夫郡福島町(現・福島市)出身。早稲田大学文学部仏蘭西文学科中退。
西條八十に師事、後に作詞家となり、1933年(昭和8年)、ビクターレコードより「東京祭」でデビュー。 1936年(昭和11年)、藤山一郎の「東京ラプソディ」が大ヒット。 その他の代表作には、灰田勝彦・大谷冽子「ジャバのマンゴ売り」、岡晴夫「東京の花売娘」(佐々詩生名義)、藤山一郎「ニコライの鐘」、美空ひばり「私のボーイフレンド」、「ひばりが唄えば」、コロムビア・ローズ「プリンセス・ワルツ」、「ロマンスガイド」などを作詞。
ハワイアンを多数作詞したことでも有名で、「小さな竹の橋で」、「月の夜は」、「林檎の木の下で」などを作詞。(Wikipedia

  yahoo知恵袋では1件質問がありましたが、回答も1件であまりに馬鹿馬鹿しいので転載はやめておきます。

はてなブログ 日本百名曲20世紀編」(https://songs20thcentury.hateblo.jp/entry/2016/03/26/011049)にあった次のような解釈が無難なところでしょうか。

「夜ふけにひと時寄せて なまめく新宿駅

深夜にちょっと立ち寄った 夜の顔を見せる新宿駅
今も昔も新宿の夜はなまめかしい。

 【参考】なま‐め・く【▽艶めく】 の解説
[動カ五(四)]《「なま」は未熟の意》
1 異性の心を誘うような色っぽさが感じられる。また、あだっぽいふるまいをする。「―・いたしぐさ」
「このくるまを女車とみて、寄り来てとかく―・くあひだに」〈伊勢・三九〉
2 若々しく美しく見える。清新である。
「その里に、いと―・いたる女はらから住みけり」〈伊勢・一〉
3 しっとりとして、品がある。優美である。
「高麗 (こま) の紙の…色などは華やかならで―・きたるに」〈源・梅枝〉
4 物や情景などが、美しく趣がある。風流である。
「秋の野のいと―・きたるなど見給ひて」〈源・賢木〉
出典:デジタル大辞泉小学館

 

 歌詞もさることながら、昭和11年(1936)といえば、あの二二六事件のあった年で、殺伐とした世相からいうと、こういう明るい歌が大ヒットしたのが、ちょっと不思議ですね。

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♪ 滝廉太郎「花」

組歌《四季》より 花 - YouTube

組歌《四季》より 花 · 藤原伊央里・紀野洋孝

組曲」ではなく、「組歌」というのを初めて知りました。

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現在の墨田河畔

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「写真の中の明治・大正」より「墨堤花見之図」!?

服装から時代を判別する知識はありませんが、4月上旬(?)にしては厚手の着物の人が多いように思います。3月末に満開で、昼間は20度を上回る、温暖化の現在よりもやはり気温は低かったのでしょうか。

 

作詞:武島羽衣 作曲:瀧廉太郎

春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂(かい)のしずくも 花と散る
ながめを何に たとうべき


見ずやあけぼの 露あびて
われにもの言う 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく青柳を


錦おりなす 長堤に
暮るればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとうべき
※1900年(明治33年)同年11月1日歌曲集(組歌)『四季』の第1曲

 

 

 先日購入した半藤一利『歴史探偵 忘れ残りの記』(文春新書)を読んでいたら、「春はうららかにあらず」という項があり、その中に「昔、田辺聖子さんから『花』の歌詞のもとが『源氏物語』胡蝶の巻にあると聞いて、それが『六条院の宴』にあるのを見つけた」という下りがありました。

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 この件に関する分かりやすいコラムを、同志社女子大学のホームページで見つけました。

「花」と『源氏物語
吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

 滝廉太郎作曲の「花」ができたのは明治33年のことでした。作詞は、日本女子大学教授で歌人武島羽衣(はごろも)が担当しています。その一番の歌詞は、

    春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が
    櫂のしづくも花と散る ながめを何にたとふべき

となっています。のどかな隅田川の春の光景が、七五調で見事に描写されていますね。「うらら」は「うららか」でしょう。(中略)

 それだけではありません。実はこの歌詞には、どうやら『源氏物語』胡蝶巻が踏まえられているようなのです。胡蝶巻というのは、光源氏が築いた六条院の春の御殿が舞台となっています。その女主人である紫の上が龍頭鷁首(げきしゅ)の船を池に浮かべて船楽を催し、そこに秋好中宮付きの女房を招待し、春のすばらしさをこれでもかと見せつける趣向になっています。見物にやってきた女房達はただもううっとりとして、本来はライバルであるはずの春の御殿を讃える和歌を詠じてしまいます(春秋優劣論としては秋の敗北を意味します)。その最後の歌こそが、

    春の日のうららにさしていく船は棹の   しづくも花ぞ散りける

でした。いかがですか。一見しただけで、「花」の一番の歌詞と類似していることがわかりますね。
(中略)
 ただし「棹のしづく」が「櫂のしづく」に変っています。もちろん「棹」より「櫂」の方が、「花のように散るしずく」がたくさん散るはずです。というより『源氏物語』では、「さす」に「日射す」と「棹指す」が掛けられているので、どうしても技法的に「棹」でなければならないのです。
 あるいは「のぼりくだりの舟」そのものが、「櫂」を用いる西洋的なボートをイメージしているのかもしれません。もしこれがボートレース(早慶レガッタ)の光景だとすると、従来想像されていた古風なイメージは、それこそ幻想だったことになります。さて、いかがでしょうか。

https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2015-03-13-09-00

 

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 引用したコラムにもありますが、これまでは、いくつかの参考文献やネット上の記事から、作詞の武島羽衣氏が隅田川で繰り広げられるボートレースを観て書いたものかなと思い込んでいましたが、必ずしもそうではないようですね。
 下のように宮内省御歌所寄人も務めた」著名な歌人だったのですから、「源氏」のこの場面もよくご存知だったことでしょう❗️

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武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月2日[1][2][註 1](1872年12月2日) - 昭和42年(1967年)2月3日)は、日本の国文学者、歌人、作詞家、日本女子大学名誉教授。宮内省御歌所寄人も務めた。本名は武島 又次郎。瀧廉太郎の歌曲「花」の作詞者として知られる。(Wikipedia

 

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 墨田河畔には遠く及びませんが、昨日近くにある千鳥川桜堤公園に初めて行ってきました。山の桜もいいでしょうが、清流に沿って咲いている桜は格別ですね。遠くに源平古戦場の三草山も見えていました。

♪ 「東京五輪音頭」(三波春夫)

www.bing.com

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作詞:宮田 隆
作曲:古賀政男
歌:三波春夫

ハアー
あの日ローマで ながめた月が (ソレ トトントネ)
今日は都の空 照らす (ア チョイトネ)
四年たったら また会いましょと かたい約束 夢じゃない
ヨイショ コーリャ 夢じゃない
オリンピックの 顔と顔
ソレトトント トトント 顔と顔

 

ハアー 待ちに待ってた 世界の祭り (ソレ トトントネ)
西の国から 東から (ア チョイトネ)
北の空から 南の海も こえて日本へ どんときた
ヨイショ コーリャ どんときた
オリンピックの 晴れ姿
ソレトトント トトント 晴れ姿

 

ハアー 色もうれしや かぞえりゃ五つ (ソレ トトントネ)
仰ぐ旗みりゃ はずむ胸 (ア チョイトネ)
すがた形は ちがっていても いずれおとらぬ 若い花
ヨイショ コーリャ 若い花
オリンピックの 庭に咲く
ソレトトント トトント 庭に咲く

 

ハアー きみがはやせば わたしはおどる (ソレ トトントネ)
菊の香りの 秋の空 (ア チョイトネ)
羽をそろえて 拍手の音に とんでくるくる 赤とんぼ
ヨイショ コーリャ 赤とんぼ
オリンピックの きょうのうた
ソレトトント トトント きょうのうた

 

  一昨日から、オリンピックの聖火リレーが始まりましたが、開会まで4ヶ月を切っても、依然不透明な部分も多く、国民的な機運の盛り上がりにはほど遠いように感じます。
 57年前のときは、小学校3年生でした。10月の農繁期の最中、農家でもマラソンの中継などは農作業を休んで、小さな白黒テレビを皆で観ていた、そんな記憶があります。
 また、開会のずいぶん前から、テレビやラジオを通して、この東京五輪音頭」がさかんに流れてきたものでした。

 いわゆる高度経済成長期にあたり、東海道新幹線の開通も、たしかオリンピックの直前だったと思いますが、まさに”イケイケドンドン”の時代でした。

 

贔屓の落語家・瀧川鯉昇さん定番のマクラに、こういうのがあります。

「昨日の晩何食べたかは覚えていないのに、何十年も前の子どもの頃のことはよく覚えている」という語り出し。

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  瀧川鯉昇 昭和27年・1952、静岡県浜松市生まれ)

 前の東京オリンピックの時は小学6年生でした。当時、航空自衛隊浜松基地に所属していたブルーインパルスの部隊が何ヶ月も前から、浜松市の上空で開会式当日に上空で五輪を描く訓練を重ねていました。
 

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 山下少年(本名・山下秀雄)たちは、そうした事情を知らないまま、日を重ねる毎に五つの輪の完成度が高まるのを「すごいな!俺たちも大きくなったらやってみたいな!」と言いながら空を見上げていました。
 そんなことで、その頃の自分たちは、将来の夢を聞かれると、きまって「編隊(変態)となって飛行(非行)に走る」と言っていましたが、後に友達の何人かは望みが叶って、刑務所に入りました。

 

 さて、三波春夫さんの、この東京五輪音頭」なのですが、意外にも多くの歌手が歌っていました。(Wikipediaで知りました)

藤山一郎橋幸夫三橋美智也坂本九北島三郎畠山みどり大木伸夫・司富子、つくば兄弟・神楽坂浮子菅原洋一、初音家賢次
失礼ながら、初めて見るお名前の方も何人かありますね。

 歌詞の特徴や音頭という性格上、この歌はやはり、民謡系か浪曲系の方には似合っていても、洋楽、クラシック系の歌い手さんには向かないかも知れませんね。

 リアルタイムにこの歌を聞いていた、現在60以上の世代でも、三波さん以外の方が歌っていたのを知っているという人はあまりいないのではないでしょうか。

 「ハアー」という明るく張りのある美声の歌い出し。これ一つとっても、他の方には真似できないことでしょう。


 「国民的歌手」という言葉がありますが、私など、まず頭に浮かぶのは三波さんと藤山一郎さんですね。
 中でも、三波さんは昭和39年(1964)の東京オリンピックに続き、昭和45年(1970)の大阪万博でも「世界の国からこんにちは」(作詞:島田陽子、作曲:中村八大)を歌われています。
 戦後の国家的規模な二大イベントのテーマソングを、(競作ではありますが、実質は独占状態)見事に歌い上げられたという意味でも、「国民的歌手」と呼ぶのに最適の方だと思います。

    ネット検索をしていて、東京五輪音頭2020」東京2020大会開催されることを機に、パラリンピックの要素を付加し、歌詞と振り付けをリメイク)というのがあるのを知りました。

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 竹原ピストル 石川さゆり 加山雄三 

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踊りの振り付けビデオがいくつもYouTubeには投稿されていますが、今の状況では広めるのは難しいでしょうね(;。;)