(加藤まさを画、藤枝市立博物館・文学館)
作詞:加藤まさを 作曲:佐々木すぐる
1
月の砂漠を はるばると
旅のらくだが 行きました
金と銀との くら置いて
二つならんで 行きました
2金のくらには 銀のかめ
銀のくらには 金のかめ
二つのかめは それぞれに
ひもで結んで ありました
3先のくらには 王子さま
あとのくらには お姫さま
乗った二人は おそろいの
白い上着を 着てました
4
ひろい砂漠を ひとすじに
二人はどこへ いくのでしょう
おぼろにけぶる 月の夜を
対のらくだで とぼとぼと
砂丘を越えて 行きました
だまって越えて 行きました
佐々木 すぐる
(本名:佐々木 英、1892年4月16日 - 1966年1月13日)は、日本の作曲家である。童謡をはじめとする2000曲もの楽曲を作曲し、中でも「月の沙漠」「お山の杉の子」が有名。三男の佐々木行綱は元童謡歌手、声楽家(バス)、音楽評論家、元山形大学教授。
生涯
兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)出身。元は士族であり、父親が郡役所に勤務する家庭に育つ。幼い頃に近所の住人から笛を貸してもらったことで、音楽に興味を抱く。しかし、家庭が貧しかったことから学費のことを考え、音楽学校ではなく姫路師範学校(現在の神戸大学の前身の一つ)へと進学。在学中は生活費を得るためにボイラー技士として働きながら勉学に励む。卒業後しばらく郷里の小学校で教鞭をとるが、後に東京音楽学校に進学し、甲種師範科を卒業。東京音楽学校卒業後は、浜松師範学校(現在の静岡大学)で教員として働く傍ら「青い鳥」や「じゃんけんぽん」などの童謡を発表する。1922年(大正11年)に師範学校を退職し、上京。作曲家に専念する。1923年には「月の沙漠」を作曲。1924年(大正13年)には、自分の作品を掲載した「青い鳥楽譜」を発刊し、昭和初期まで自費で出版する。また、青い鳥児童合唱団を主宰し、精力的に全国を回った。1932年(昭和7年)には日本コロムビアの専属作曲家となる。1930年代には唱歌や「兵隊さんよありがとう」のような愛国歌を数多く発表し、当時の子供たちの間に広く知れ渡った。後に音楽の教科書の編纂を行い、日本作曲家協会理事を務めるなど子供のための音楽や歌曲の普及に貢献した。浦和市立(現さいたま市立)針ヶ谷小学校の校歌が最後の作品であると考えられる(1966年2月27日に校歌制定発表会)。
主な作曲作品
月の沙漠
昭和の子供
ひょうたんぽっくりこ(昭和8年、久保田宵二作詞)
兵隊さんよありがとう(橋本善三郎作詞、歌・松原操、飯田ふさ江)
お山の杉の子(1944年、吉田テフ子作詞 / サトウハチロー補作(戦後改作))
赤ちゃんのお耳
日本教職員組合組合歌(Wikipedia)
昨夜、以下のような内容のニュースを見て、図書館の開館直後に借りに行ったところ、最寄りの中央図書館は貸し出し中。検索で5キロほど離れた市立の別の図書館にあるとわかり、直行しました。
米国で最も権威のある文学賞の一つ、全米図書賞が18日夜(日本時間19日朝)発表され、翻訳文学部門に福島県南相馬市在住の作家、柳美里さん(52)の長編小説「JR上野駅公園口」の英語版が選ばれた。
1冊だけでは遠くまで来た甲斐がないと、音楽関係の書棚で見つけたのが、長田暁二「心にの頃日本の歌101選」(ヤマハミュージックメディア、2007年)という本でした。目次に上がっている曲目を眺めていて、目にとまったのがこの「月の砂漠」でした。
101の歌の殆どは知っている(メロディーが浮かぶ)ものですが、忘れられない思い出と結びつくというのは、ごく限られた曲です。
あれは(不確かな記憶ですが)小学校の低学年の頃だと思うのですが、従兄妹が子供会のバス旅行に行くのに、誘ってもらったことがありました。
純農村地帯でありましたが、従兄の住む地区には、我が村にはまだなかった子供会が組織されていたのです。
行き先は、たしか芦屋の奥池遊園地(今は別荘地になっているようですが)だったと思います。
バス旅行と言えば、車中でカラオケ(おちろんその頃はまだありません)がつきもの。
順番がある母子(従兄の家の二軒となり)に回ったとき、そのお母さんが「なくなった○○(男の子の名前でした)の好きだった月の沙漠を歌います」と言ってから、この歌を切々と唄われました。
あとで母親に聞くと、その方は終戦直後、小学校の代用教員をされていたとか。
童謡とはいえ、なかなか難しい歌です。
60年近くが経っても覚えているのは、さきほどの言葉(「なくなった○○(男の子の名前でした)の好きだった月の沙漠」)とやはり上手な歌いぶりが、子供心によほど印象的だったからだと思います。
同じ年頃の子供が亡くなるというのは、他では見聞きしたことがなかっただけに、強く心に刻まれたものと思われます。
さて、この歌ですが、題名からしてロマンチックです(上述の本には「エキゾチックなメルヘンの世界」とあります)が、よく考えてみると不思議な歌詞ですね。
長田暁二「心にの頃日本の歌101選」には、この曲の成立事情が次のように書かれていました。
エキゾチックなメルヘンの世界
加藤まさをは、竹久夢二や蕗谷虹児とともに「抒情画三羽がらす」と称されました。大正末期から昭和初期にかけて、少女雑誌で、憂いを含んだ額の美しい少女の絵と、そのそばに添えた数行の詩によって、乙女たちを甘い陶酔に誘った人気画家でした。
夏になると毎年のように、加藤は病気療養のために千葉県外房の御宿海岸を訪れましたが、この詞は立教大学在学中の大正10(1921)年、砂丘の幻想から生まれました。
王子も王女も黙って、一対のラクダさえ足音を立てずひたすら歩くといったエキゾチックな情景を、ズームカメラの望遠で見ているような描写が、メルヘンの世界を浮かび上がらせています。
熱心か歌唱指導が実を結ぶ
大正中期から新しい童謡運動に加わった佐々木すぐる(当時31歳)は、この詞を読むなりインスピレーションが沸いて、弱起の美しい東洋的な曲を付けました。自ら謄写版刷りの楽譜を作って持ち歩き、小学校の先生たちの音楽講習会で配っては、どこへ行っても「月の沙漠」を中心に歌唱指導したのです。そのためもあって、関東大震災の直後あたりから次第に知られるようになり、特に少女たちが愛唱した。
昭和44年の7月上旬に、御宿海岸に、ラクダに乗り砂漠を旅するかのような王子と姫の像と、三日月形の記念像が建てられました。(下の写真)
童謡歌手といわれる方を初めとして、多くの歌い手さんの歌唱がYouTubeなどにはアップされていますが、女優としてはもちろん歌手としても大のファンである倍賞千恵子さんのを選びました。
30数年も前でしょうか、まだ独身時代に大阪のサンケイホールへ倍賞さんのリサイタルを聴きに行ったこともありました。
松竹歌劇団(SKD)で鍛えられた、明るく伸びやかで素直な発声には素晴らしいものがあります。
多くの方々が、国民的な映画「男はつらいよシリーズ」で寅さんの妹「さくら」を演じていらっしゃることはご存じでしょうが、「下町の太陽」に始まり、様々なジャンルの歌を見事に唄いこなしておられることも知ってもらいたいですね。。