(Stephen Collins Foster、1826年7月4日 - 1864年1月13日)
The sun shines bright in the old Kentucky home,
Tis summer, the people* are gay;
The corn-top's ripe and the meadow's in the bloom
While the birds make music all the day.
The young folks roll on the little cabin floor
All merry, all happy and bright;
By'n by hard times comes a knocking at the door
Then my old Kentucky home, Good-night!
Weep no more my lady. Oh! Weep no more today!
We will sing one song for my old Kentucky home
For the old Kentucky home, far away.
* 元の歌詞では「darkies」(黒人への当時の呼称で、現在は差別的とされる)
ケンタッキーの我が家は、1852年に スティーブン・フォスター(Stephen Foster)によって作詞・作曲され、1853年に出版された。1928年3月19日には公式州歌としてケンタッキー州議会により採用される。 州北部の町バーズタウンにあるフォスターの従兄弟で法律家のジョン・ローアンの家が、この「我が家」のモデルといわれる。しかし、フォスターがその時期に彼の家を訪れたという証拠がなく、これを疑問視する声もある。「ケンタッキー」の名称の採用は「故郷の人々(スワニー河)」と同様に語呂の良さで選んだのではないかとする説もある。1852年には、黒人奴隷問題に大きな影響を与えた「アンクル・トムの小屋(Uncle Tom’s Cabin)」が出版されており、作曲の動機になったのではないかとの説も有力である。
テレビにもYouTubeにも飽きた正月の二日。久しぶりに「レコード鑑賞」と、多くもないLPレコードを探していると、ロジェワーグナ合唱団のフォスター曲集がありました。
ふと、思い出したのは、30数年も前のこと。当時の勤務校にALT(外国語指導教員)として来られていたウィリアム・バルサモ氏(William BALSAMO)のことでした。
研究者情報のサイトで確認すると以下のような記述があり、当時すでに40代半ばだったでしょうか。
J-GLOBAL ID:200901057796452420 更新日: 2008年02月14日
BALSAMO William
バルサモ ウィリアム| William BALSAMO
所属機関・部署: 旧所属 賢明女子学院短期大学 英語科
職名: 教授
ホームページURL (1件): http://www.geocities.com/yamataro670/Asiahelp.htm
研究分野 (3件): 文学一般 , 中国文学 , 宗教学
学歴 (5件):
- 1985 ニューヨーク大学大学院 アジア史
- 1985 NEW YORK UNIVERSITY ASIAN HISTORY
- 1965 セントバーナード大学 哲学
- 1965 ST. Bernard's College PHILOSOPHY
ST. John's University Asian Theology
イタリア系のアメリカ人だという氏は、とてもシャイな感じの方で、物腰の柔らかく、温厚なお人柄から、生徒教師ともに人気がありました。ご先祖はイタリア系の移民で「バルサモ」はマフィアの名前だと、苦笑いをされていました。いずれにしても、田舎の高校にはもったいないような方でした。
片言の英語で話した中で、氏がニューヨークで教員をしながら、夏休みなど長期の休暇はアルバイトとして歌劇場のコーラスの一員として歌っていたということを聞き、ぜひ文化祭での音楽部の発表時に、一緒に歌ってくれるようお誘いしたのでした。
楽譜や関係資料がなく、うろ覚えなのですが、たしか、この「ケンタッキーの我が家」を含むメドレー曲で、氏にはソロ部分をお願いをしました。
練習では、やはりテノールの素晴らしいお声を聴かせてくださり、部員たちにとてもよいお手本になってくださいました。
ただ、大変残念なことに、久しぶりのステージで緊張されたのか、指揮者の指示がまずかったのか、本番では練習のようには上手くいきませんでした((;。;))
ステージが終わった後の申し訳なさそうなお顔が忘れられません。
その後彼はALTを辞めて短大にお勤めになり、私も他校へ転勤をしたのですが、その後一度だけバルサモ氏に偶然お会いしたことがありました、
姫路の駅前にあるメインストリート御幸通りにおいてでした。片言の英語で、私が「結婚して(氏は当時も独身でした)男の子が生まれたばかり、名前を「ナオヤ」という」と言ったつもりが、氏は「ナゴヤ?」と返されました。
ネットで検索すると2003年頃までに、何冊か本を出されているようです。勤務されていた短大も今はなく、その後どうされたのでしょうか。日本に痕跡を見つけられないということは、母国にお帰りになったのかもしれません。
40年近くの間に、多くのALTを見てきましたが、忘れられないお一人です。今でも素晴らしいテノールのお声とあの優しい面差しがよみがえってきます。