思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 「広島高師 山男の歌」

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(歌:緑咲香澄)

https://home.hiroshima-u.ac.jp/kyo2/history/yamaotoko_full.mp3

広島大学教育学部音楽科による混声合唱

 

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広島高等師範学校 山岳部第一歌 山男 「廣島高師 山男の歌」

神尾明正 作詞 武山信治 作曲

1. 同じ山への 憧れを 胸に抱きて 行く道は  教への道ぞ 山男 広島高師の 山男

2. 人みな花に 酔ふときも 残雪恋ひて 山に入り  涙を流す 山男 雪解の水に 春を知る

3. 広島の山 低くとも 夏は故郷の 山が待つ  岩をよづれば 山男 無我を悟るは この時ぞ

4. 深山紅葉に 片時雨 テント濡らして 暮れてゆく  心なき身の 山男 もののあわれを 知る頃ぞ

5. 町の乙女ら 想ひつつ 尾根の処女雪 け立てては  シュテンボーゲン 山男 浩然の気は 言ひ難し

6. 同じ教への 道を行き まぶたに浮かぶ 山の道  道は一つぞ 山男 広島高師の 山男 広島高師の 山男

 

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連日のように、ニュースで取り上げられている日本学術会議の問題。
いったい、どんな人たちが会員なのか、中に我が母校の研究者はいるのかと検索してみると、3名の方の名前がありました。
言うまでもなく、東大、京大を初めとする旧帝大の方々が大半を占めていました。
その3人の中に、4年間の学生時代を過ごしたオンボロ下宿昭和50年前後で、2食風呂付きで月額17500円という格安の下宿代!)で、私が4年生の時に1年生だったSSさん(3名だから、イニシャルにしても同じことかもしれません😀)のお名前があってビックリ!!

SSさんとは、学年も離れているし、ほとんど話したことがなく、同じ兵庫県加古川東高の出身であるぐらいしか知りませんでしたが、後になって、これも奇遇ですが、私の高校2,3年時のS校長の息子さんだと分かりました。
その方が40年余り経って、「学者の国会」の一員になられていたのです。

 

今回取り上げるのは、そのオンボロ下宿で聞き覚えた「山男の歌」です。
単に、「山男の歌」で検索すると、ダークダックスが歌った「娘さんよく聞けよ 山男にゃ惚れるなよ・・・」というあの歌が出てきますが、それではありません。
前に「広島高師」が付きます。
ある年代以上の方々には、「芹洋子が昔歌ってヒットした『坊がつる賛歌』と同じメロディーではないか」と気がつかれるはずです。

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それもそのはず、実は「坊がつる賛歌」の元歌は、旧制の広島高等師範学校広島大学の教育・文・理学部の前身校)山岳部の歌だったのです。

たしか2年生の時だったと思います。その当時、下宿の部屋にテレビがある学生はほとんどなく、夕食後のひとときは、ラジオ、読書、洗濯、たまに麻雀(私はルールを覚えるのが面倒で加わりませんでしたが)などと思い思いに過ごしていたものでした。
同じ2階で廊下を隔てた広い部屋(4畳半+3畳)にいた岐阜県出身で教育学部高等学校教員養成課程理科のさんという2年先輩の方が、ギターをかき鳴らしながら、この歌を口ずさんでいました。
私は漏れ聞こえてくるメロディーが気になり、思い切って部屋を訪れ、この歌の曲名と歌詞を教えてもらいました。

3年生の後半になって、研究室(教育学科の教育経営学に所属すると、研究室単位のコンパがありましたが、やはり、その締めくくりはいつもこの歌の斉唱でした。

どうやら、その時代にはまだ旧制の高師、文理大ご出身の先生もおられ、特に教育学部では伝統的な「アイデンティティ・ソング」(こんな用法があるかどうか自信ありませんが・・・)であったようです。

就職した後も、尚志会という文理教育学部同窓会の兵庫県支部や地区の総会、懇親会などで、きまって最後にはこの歌を声高らかに歌ったものでした。

 

時間が前後しますが、広く世間に知られている芹洋子さんの「坊がつる賛歌」は昭和53年(1978)にヒットしましたが、そのとき「あれっ?『山男の歌』と同じだな!」と思い、当時の45回転のレコードを買って聴いたことがありました。

このたび、そのあたりを調べてみると、次のようなことが分かりました。

この歌は,広島高等師範学校の山岳部第一歌として作られたものであるが,その後山岳部のメンバーが多く所属していた広島大学内の理学部植物学教室や教育学部などで歌い継がれてきた.なお,現在唱われている歌詞や楽譜にはいくつか細かい違いがあるものが存在する.また,芹洋子のヒット曲「坊がつる讃歌」は本歌の替え歌であり,広島大学がオリジナルである.広島大学デジタル博物館)

 

『坊がつる讃歌 誕生物語 ~広島高師をめぐる人と人のつながりを追って~ 』という本を出されている山本明正さんのブログからの引用です。(「団塊の世代一代記」https://dankai.akimasa21.net/bougatsuru-sanka/

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広島高師「山男の歌」は、全国から広島に集まった教師志望の学生の間で歌われ、やがて、高師卒業とともに全国の中等学校(旧制)に拡散していきました。
そうしたルートの中から、「坊がつる賛歌」が生まれることになります。
まず、広島高師を卒業(昭和17年卒)した葱花勲(ぎぼう・いさお)が、大分県立日田中学校(旧制中学校)に赴任します。葱花は同校で山岳部顧問になり、広島で覚えた「山男の歌」をみんなに教えました。
そこに梅木秀徳が入学(入部)してきて、今度は梅木が「山男の歌」を覚えました。戦後間もなくの頃で、旧制中学から新制高校に変わっていました。
梅木が覚えた「山男の歌」をベースにして、坊がつる(大分県竹田市)にある山小屋(あせび小屋)で、九州大学の学生3名によって替え歌の「坊がつる賛歌」が作られました。1952年7月(昭和27)のことです。
あせび小屋は九州山小屋の会所有であり、九州大学の学生3名はいずれも同会に所属していました。「坊がつる賛歌」を作った時は3人で小屋番をしており、雨続きで登山客が途切れたため、暇に任せて作った歌の一つが「坊がつる賛歌」だったのです。

 

定年後は同窓会に行くこともなく、この歌を唄う機会もなくなりましたが、ネット万能の時代になって動画サイトなどで聴くことができるようになりました。

ちょっと堅苦しい学歌よりも、我々世代の者には、やはりこの歌に愛着がありますね。

 

今回は、「学術会議」に始まり→SSさん→下宿→辻さん→「山男の歌」と、記憶が記憶を呼んだそんな経験をつづってみました。