小学校に入った頃、歌が苦手でした。いわゆる音痴というやつでした。
音楽の時間に歌のテストがあり、自分の番が近づくと、心臓が口から飛び出しそうになるほどの緊張を覚えたものでした。
ただ、聴く方は学年が進むとともに興味を覚え始めていました。
昭和30年代の終わり頃、三波春夫の「東京五輪音頭」がテレビ、ラジオからさかんに流れるようになった時期で、今とは違い、テレビでは歌謡番組が盛んでした。
我が家では、明治37年(1904)生まれの祖父が、若い頃は浪曲が好きで、当時すでに大スターだった三波春夫や村田英雄の歌を好んで視聴していたように記憶しています。
(隣家のお爺さんから、私の祖父は小学生の頃、学芸会で独唱するほど歌が上手だった聞いたことがあります)
そんな時代に、音痴の私がたぶん初めて口ずさむようになったのは、新川二郎(後に二朗)の「東京の灯よいつまでも」でした。
ちょうど前の東京オリンピックのあった昭和39年(1964)のことで、私は小学3年生になっていました。
「東京の灯よいつまでも」
作詞:藤間哲郎、作曲:佐伯としを
昭和39年7月キングレコードより発売
1 雨の外苑 夜霧の日比谷
今もこの目に やさしく浮かぶ
君はどうして いるだろか
ああ 東京の灯よ いつまでも2 すぐに忘れる 昨日もあろう
あすを夢みる 昨日もあろう
若い心の アルバムに
ああ 東京の灯よ いつまでも3 花の唇 涙の笑顔
淡い別れに ことさら泣けた
いとし羽田の あのロビー
ああ 東京の灯よ いつまでも
60年代のレコードプレーヤー(もちろんモノラル)
新川 二朗(しんかわ じろう、1939年11月2日 - )は、日本の演歌歌手。旧芸名は新川二郎
経歴
石川県羽咋郡志雄町(現在の宝達志水町)出身。
金沢ヘルスセンターで歌っているところを、村田英雄にスカウトされ、1962年にキングレコードから『君を慕いて』でデビュー。
1964年、『東京の灯(ひ)よ いつまでも』が大ヒット(年末までに50万枚を越える売上し、当時では破格の400万円の年収を上げた。 また、この曲で同年の「第15回NHK紅白歌合戦」に初出場した。
2017年現在、石川県出身では唯一の紅白出場歌手である。その後は地方のステージをこなすなどし、現在も所々で懐メロ番組に出演している。
2014年1月26日放映の「BS日本のうた」(NHK BSプレミアム)に出演
ジャンルは青春歌謡ということになるのでしょうか。
小学3年生に、正確な歌詞の意味、地名、背景など分かるはずもなく、ただ、新川さんの独特の鼻にかかった、あの歌い方を真似て風呂場などで歌っていました。
ネットで検索していて、こんな文章に出会いました。
東京オリンピック直前に発売されて大ヒットしました。
東京との別れですが、その夜景、心に残るその「灯」を「いつまでも」永遠なれ、と歌った名曲。逆説的な東京讃歌とします。
「雨の外苑 夜霧の日比谷」――風景は雨と霧にしっとり濡れています。羽田空港も別れの涙で濡れています。歌詞にも曲調にもやわらかな情感が流れます。
東京との別れに恋人との別れを重ねるのですが、思い出の場所は銀座や新宿といった盛り場ではありません。だからその別れさえも「淡い別れ」。濃厚な油絵ではなく、パステル画のような淡い色調で描かれた淡い恋。しかし、「ことさら」泣けるほどに思いは深い。情感を抑えたこの淡さが青春歌謡の抒情です。
新川二郎の少し田舎なまりを感じさせる演歌風の素朴さもかえってよかった。あんまり都会風に「小粋に」「ハイカラに」歌われるとこの清純な印象が損なわれてしまったでしょう。ブログ「遊星王子の青春歌謡つれづれ」
「逆説的な東京讃歌」という言葉が気になります。
それまでに多かったのは、東京に暮らす若い男女の恋の物語であったり、地方に住む青年の東京への憧れを歌ったりなどの歌謡曲ではなかったかと思います。
この歌が世に出た前後では、以下のような曲がよく知られていますが、これらとはまたひと味違って、上の引用文にもあるように、「少し田舎なまりを感じさせる演歌風の素朴さ」が播州の片田舎に住む小学生にも親しみやすく、さらにはメロディーが短く、覚えやすいということもあって、すんなりと受け入れられたのではと思ったりもします。
「東京のバスガール」初代コロムビア・ローズ(1957)
「東京だョおっ母さん」島倉千代子(1957)
「銀座九丁目水の上」神戸一郎(1958)
「東京タワー」美空ひばり(1959)
「地下鉄は今日も終電車」井上ひろし(1959)
「浅草の鳩ポッポ」こまどり姉妹(1961)
「恋の山手線」小林旭(1964)
「ウナ・セラ・ディ東京」牧秀夫とロス・フラミンゴス(1964)
「新宿ブルース」扇ひろ子(1967)
今、YouTubeで聞き直すと、前奏から歌い出しにかけては、素人にも入りやすく、サビの部分の高い音も高すぎず、全体としてはシンプルな曲の作りになっているために、音痴の少年でもそれほど抵抗なく歌えたのではないでしょうか。
この3年後に鶴岡雅義と東京ロマンチカのデビューシングルとなった「小樽のひとよ」(1967年9月25日発売)が後に私の十八番で、現役時分にはカラオケでよく歌ったものです。こちらは、少し年季を積まないといけないような難しい歌でした・・・。
思えば便利な時代になったもので、ふと思いついてYouTubeで探すと、たいていの楽曲は視聴できますね。CDが売れないはずで・・・。
オリジナル歌手だけでなく、意外な人が歌っているのを見つけて聴くのも楽しいものです。
というわけで、何かのきっかけで気に入り、自ら歌ってみようと思った最初の歌は、この「東京の灯よいつまでも」なのでした(😀)
※いつもは日曜日の午前中に新しい記事をアップするのですが、明日は急に村の土木係の草刈りの仕事が入り、この殺人的な暑さの中で仕事をした後にたぶんアップは無理だろうと、一日早めて土曜日に書きました。