思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 「ブルーシャトウ」(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)

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 先日、某地方紙の夕刊のコラムで、 ジャッキー吉川とブルー・コメッツの大ヒット作である、この「ブルーシャトウ」のことを取り上げている記事を見て、すぐさま頭の中にメロディーが浮かんできました。
   「シャトウ」が、身分の高い人が暮らす「城」「宮殿」ということなど、何も知らず聴いたり歌ったりしていた、50数年前の田舎の小学生時代のことが次々と思い出されてきました。

「ブルー・シャトウ」橋本淳作詞・井上忠夫作曲    

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

 

森と泉に かこまれて
静かに眠る ブルー ブルー
ブルー シャトウ

 

あなたが僕を 待っている
暗くて淋しい ブルー ブルー
ブルー シャトウ

きっとあなたは 紅(あか)いバラの
バラのかおりが 苦しくて
涙をそっと 流すでしょう

 

夜霧のガウンに 包まれて
静かに眠る ブルー ブルー
ブルー シャトウ ブルー

ブルー ブルー ブルー ブルー
ブルー シャトウ

きっとあなたは 紅いバラの
バラのかおりが 苦しくて
涙をそっと 流すでしょう

夜霧のガウンに 包まれて
静かに眠る ブルー ブルー
ブルー シャトウ ブルー

ブルー ブルー ブルー ブルー
ブルー シャトウ

 

昭和42年(1967)3月15日に発売され、レコード売上150万枚の同グループ最大のヒット曲となり、第9回日本レコード大賞を受賞した。またこの曲は『第18回NHK紅白歌合戦』(1967年)の際の出場曲で、同時にグループとして2回目の出場曲でもある。橋本淳作詞、井上忠夫(後に井上大輔)作曲、森岡賢一郎編曲。(Wikipedia

 

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若い人たちには,右上の「45」の意味はわからないでしょうね(笑)

 昭和39年(1964)の東京オリンピックが終わった後、40年代に入ると、(自分の記憶の中では)グループサウンズの大ブームとムードコーラスグループの流行があったように思います。
 前者で覚えているのは、ヴィレッジシンガーズザ・タイガース、ザ・テンプターズザ・ワイルドワンズなどですが、よく聴いたのは、このジャッキー吉川とブルー・コメッツが一番でしょうか。
 グループサウンズには、若い女性を中心に熱狂的なファンが多かった中で、ジャッキー吉川とブルー・コメッツは、ザ・タイガースと比較するとよくわかりますが、少し大人っぽく、真面目な感じのスーツにネクタイという衣装に歌っている曲の雰囲気もあってでしょうか、もう少し広い世代に好まれていたように思います。

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ザ・タイガースのメンバー、中央が沢田研二

 

 後者では、内山田洋とクール・ファイブ黒沢明ロス・プリモス鶴岡雅義と東京ロマンチカ和田弘とマヒナスターズなどのヒット曲が今でも鮮明に思い出されます。

 

 それまでの謡曲では、歌い手の背後でフルバンドが演奏するという形態が一般的でしたが、グループ・サウンズの登場は、当時小学6年生でしたが、子ども心にかなりインパクトのある出来事でした。
 既にビートルズベンチャーズなどに影響された若者たちは、すぐさまエレキギターの虜(とりこ)になっていましたが、グループサウンズの登場で、さらに範囲が拡大したと思います。
 純農村地帯に育った私ですが、同級生には商店の跡継ぎやサラリーマンの子女も多く、そんな「町の子」の中でちょっと生意気な(?)男の子が一人エレキギターを買ってもらっていました。

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当時のエレキギター



 エレキギターをみせたろうか!?」というので、商店街の一角にある、その子のうちに同級生と行ったこともありましたね。
 ただ、一般には長らく「エレキ=不良」というイメージが、特に田舎ではつきまとっていましたし、その後、中高と吹奏楽部に入ったこともあり、クラッシックには少し親しみましたが、エレキも含めてギターには、とうとう縁がないままでした。

 

 さて、「ブルーシャトウ」ですが、間奏の中で作曲者である井上忠夫(後に井上大輔)さんが、フルートを少し吹いてから歌に入るというのが、斬新でカッコよく見えたものでした。(冒頭の動画では、フルートをバトンのように回しています・笑)
 また、前奏も歌謡曲や演歌に慣れていた少年にとっては、半世紀以上経っても忘れられないメロディーとして耳の奥に残っています。

 

 その頃、よく流行った替え歌「森トンカツ、泉ニンニク~♪」を歌っていた小学生たちも、もう60代後半!多くはジイジ、バアバになってしまいました(;。;)
  

 エレキギターを見せてくれたH君は、地方紙の三面記事で久しぶりに名前を見かけた(たしか覚○剤所持だったかな?)後は消息不明でしたが、40代で亡くなったと風の便りで聞きました。

♪ 合唱曲「群青」

https://www.youtube.com/watch?v=hwWIBwaXkUs

先日、高校の同級生のLINEグループに、「娘の卒業式に出席して感動した」という内容の投稿がありました。
私も遅かったですが、この投稿者A君の場合は、48歳の時の子どもさんということで、もうお孫さんに近く、可愛くてしかたないのでしょうね(笑)

去年の今頃に投稿しましたが、卒業式の歌も時代の流れにつれて変わってきているようです。
「卒業式ソングランキング30」
 https://www.uta-net.com/user/close_up/graduation2014/

この中に、それほど多くはないのですが、合唱曲「群青」があります。

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パナムジカホームページより https://www.panamusica.co.jp/ja/appeal/gunjo/

作詞:福島県南相馬市立小高中学校平成24年度卒業生(構成:小田美樹)
作曲:福島県南相馬市立小高中学校音楽教諭 小田美樹
編曲:信長貴富

 ああ あの町で生まれ
君と出会い
たくさんの思い抱いて
いっしょに時を過ごしたね

 

今 旅立つ日
見える景色は違っても
遠い場所で 君も同じ空
きっと見上げてるはず

 

「またね」と手を振るけど
明日も会えるのかな
遠ざかる君の笑顔 今でも忘れない

 

あの日見た夕陽 あの日見た花火
いつでも君がいたね
あたりまえが 幸せと知った
自転車をこいで 君と行った海
鮮やかな記憶が
目を閉じれば群青に染まる

 

あれから2年の日が
僕らの中を過ぎて
3月の風に吹かれ 君をいまでも思う

 

響け この歌声
響け 遠くまでも
あの空の彼方へも
大切なすべてに届け

 

涙のあとにも 見上げた夜空に
希望が光っているよ
僕らを待つ群青の町で

 

きっとまた会おう
あの町で会おう
僕らの約束は
消えはしない 群青の絆

 

また 会おう 群青の町で・・・

この歌の成り立ちについては、東日本大震災との関連でよく知られてはいますが、念のために・・・。
 

 福島第一原子力発電所から半径20km圏内に位置する福島県南相馬市小高(おだか)区は、東日本大震災による原発事故のため全住民が今なお避難生活を余儀なくされており、小高中学校も市内の別の学校に間借りをして授業を行っています。「群青」は、その小高中学校の生徒たちが、離ればなれになってしまった仲間を思って、つぶやいたり、書き留めた言葉の数々を同校の小田美樹教諭が綴って曲をつけた作品です。
 2013年3月に行われた復興支援コンサート「Harmony for JAPAN 2013」で同校合唱部によって演奏され、 会場に大きな感動を呼び起こしました。その「群青」が、やはりそのコンサートに居合わせて曲に感銘をうけた作曲家・信長貴富氏の編曲を得て 3種の合唱編曲版となりました。子どもたちのこれ以上ない正直な気持ちと、 彼らを一番近くで見守り共に歩んできた小田先生が作り出した音楽が放つ強いメッセージは、私たちの心に深く突き刺さります。
 どうぞ皆さん歌ってください!ご自分の中にある大切な友やふるさとを思いながら…
 そして「群青の子」らがいつの日か「群青の町」で再会する日を願いながら…。
(パナムジカホームページより)

さて、この曲との出会いですが、数年前の9月に隣の市で開かれた混声合唱フェスティバルという、近隣三つの市の混声合唱団の発表会でした。

主催者の代表が40年来のコーラス仲間のSさんということで聴きに行ったのですが、そこで初めてこの曲を知りました。

30代後半から定年までの間は合唱と縁が切れており、この間に結構知られていたはずですが、私には初めてでした。

大変失礼ながら、もう少し大編成で上手な演奏をとYouTubeでさがして色々聴いているうちに、じわじわとこの曲の素晴らしさがわかってきたような気がしました。

 

これを学年の全員で卒業式で歌うとなると、相当な練習が必要です。コロナ禍以前はどこの中学校でも、時間をかけて練習されていたようですが、今や音楽室から歌声が聞こえてこないという異常事態が2年も続いています。私たちのほぼシルバーコーラス(笑)も同様で、練習休止が2年を過ぎました(;。;)
同級生A君が出席した母校では、録音した音源を流していたということですから、きっと全国的にも同じようなことなのでしょう。

 

有本真紀『卒業式の歴史学』(講談社選書メチエ 2013年)によれば、小学校の卒業式が定型化して、式中に君が代」「蛍の光」「仰げば尊しがセットで歌われるようになったのは、明治30年前後(1890年代後半)ということです。それから120年ぐらいは必ず何らかの式歌を歌ってきたわけですが、ここに来て初めて(100年ほど前のスペイン風邪の時のことは不明ですが)「歌わない卒業式」が続いているのですね!!

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※前回の記事からちょうど一月経ってしまいました。別のブログに忙しくというのが言い訳ですが、少しは暖かくなってきているので、折に触れて思い出した楽曲のことを、またとりとめもなく書いてみたいと思います。

 

♪ 「わが里程標」(わがマイルストーン)

 

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1981年(昭和56年)度NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部【優良校】兵庫県立赤穂高校(指揮・赤松秀幸)

「わが里程標(マイルストーン)」片岡輝作詞・平吉毅州(たけくに)作曲

 

時を追いかけ 駆けて行けば 光る街角で出会う まぶしい愛
生きるよろこびを 心にこめて 石に積もう   石に積もう
それは青春の日々の 里程標マイルストーン

 

時に抗(さから)い立ち止まれば 闇の沈黙(しじま)に深まる永遠の謎
生きるのぞみさえ 見失って 悩み惑う
それは それは それは 青春の日々の迷い路(みち)

 

けれどふたたび 陽はのぼり 行く手に並ぶ里程標マイルストーンを照らし出す
それは 先に歩いていった人々の 勇気のあかし
さあ さあ 一歩をふみだして 明日に石を積もう 明日に石を積もう
小さな 小さな 小さな石を積もう

1981年(昭和56年)度のNHK全国学校音楽コンクール高等学校の部の課題曲として、混声四部版・男声四部版・女声三部版が同時に発表された。イ長調の歌いだしに始まり、終盤ヘ長調に転じる。片岡・平吉コンビの曲は3年前の「ひとつの朝」に続く。その後コンクールを離れて広く歌われるようになり、中学生向けに混声三部合唱にも編曲された。(ウィキペディア

 

 どこかの国で冬季オリンピックが始まっているらしいのですが、全く見る気がしなくて、相変わらずYouTube三昧の日々を過ごしています。
 昼食後は鉄道路線前面展望がメインで、九州、四国を経て、今やっと地元兵庫県内を進行中(笑)
 夜は、落語、音楽、市況、たまに農業関連など様々ですが、賢い(?)YouTubeは私の好みを熟知していて、次々と「オススメ」動画を紹介してくれます。
 昨夜偶然に出てきたのが、冒頭の兵庫県立赤穂高等学校が今から41年前にNコンで優良賞(全国3位)を受賞されたときのものです。
 以前に、この動画に感想のコメントを書いていたのをすっかり忘れていましたが、いつだったか、30年余前に音楽部(コーラス部)にいた人(現在は小学校教師の男性)が、それを偶々見つけて、年賀状の添え書きに書いていたことがありました。

 

 Nコンの課題曲が近年どんな風なのかよくは知らないのですが、私が関係していた期間のそれを調べてみると、以下のような曲名があがっていました。

 

第45回    1978年
       ひとつの朝
第46回    1979年
       冬・風蓮湖
第47回    1980年
       走る海
第48回    1981年
       わが里程標(マイルストーン
第49回    1982年
       水のうた
第50回    1983年
       みぞれ
第51回    1984年10月24日
       A    君は夕焼けを見たか
    B  ひとつの朝
    C    男声合唱組曲『月光とピエロ』から「秋のピエロ」
第52回    1985年
       A    青春のノートブック
    B    混声合唱のための組曲『旅』から「行こうふたたび」
       C    男声合唱組曲『柳河風俗詩』から「柳河」
    D    落葉松
第53回    1986年
          A    さようならの季節に
    B    混声合唱組曲筑後川』から「河口」
       C    男声合唱のための組曲『蛙の歌』から「小曲」
    D    海はなかった
第54回    1987年10月25日
    A    巨木のうた
    B    わが里程標(マイルストーン
       C    ともしびを高くかかげて
    D    赤い機関車
第55回    1988年
       A    時代 -飛び立つ鳥は-
    B    冬・風蓮湖
    C    日本のみのり
    D    ねむの花

 「さようならの季節に」兵庫県予選に出場したのは間違いないのですが、翌年に「わが里程標(マイルストーン)」が再び課題曲の一つとなっていますから、この曲でも出場したかもしれません。(資料などの保管がきちんとできていなくて・・・・・)

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毎年Nコンが開催されていた明石市民会館
合唱に最適の音響のように思われました

 「ひとつの朝」わが里程標(マイルストーンもともに、片岡・平吉という素晴らしいコンビで出来上がった曲で、間違いなく後世に残る名曲だと思います。

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平吉毅州(作曲家、神戸市出身、1936-1998))

 さて、冒頭動画の穂高ですが、私などの若い頃は、兵庫県内では「西の赤穂、東の神戸(高校)」と並び称されるほどの合唱の名門校でした。

 指揮をされている赤松秀幸先生は、長らく同校に勤務された後、定年後は市のハーモニーホールの館長をされていましたが、程なくお亡くなりになりました。

 没後に先生を追悼する音楽会も開かれていたようで、その功績の偉大さがしのばれます。

 

 昨日もニュースで、文科大臣が「音楽の授業で合唱は控えるように」と言ったというのを報じていましたが、コロナ禍の2年あまり、高校合唱の現場はどうなっているのでしょうか。

 私たちの「ほぼシルバーコーラス」(笑)もまるまる2年の間休止状態ですが、3年という限られた期間のある高校生にとっては、なんともやりきれないのではと察します。

 

♪ 「通りゃんせ」 歌詞の謎

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通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して くだしゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ

この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ

『通りゃんせ』(とおりゃんせ)は、江戸時代に歌詞が成立したと見られる日本のわらべうた(童謡)。遊び歌として知られ、その遊戯もいう。
作詞者不明、本居長世編・作曲、あるいは、野口雨情作とも伝えられる。(Wikipedia

 先日の日曜日、2年余ぶりに旧友と三宮で会い、昼食を共にしながら、近況を語り合いました。

 駅前の横断歩道で聞こえてきたのは、「ピヨピヨ」という鳥の鳴き声の擬音で、ふと「昔は『通りゃんせ』がよく流れていたがな・・・」と調べてみたら、20年近く前から置き換えられているのだとか。
 「通りゃんせ」といえば、この歌にも歌詞によく意味のわからない部分があります。
ネットで「通りゃんせ」を調べようとすると、後に「意味」とか「怖い」などとくっついてくるので、世間にはやはり同じように思う人がたくさんいらっしゃるのでしょう。

 まず、なぜ門番は「御用のないもの 通しゃせぬ」と言うのでしょうか。
お宮に門番もちょっと気になりますが、何か事故があるか、または相当に混雑でもしていない限りは参詣者に対して、普通はそのようには言わないものでしょうに。
 また、これが一番の謎ですが、「行きはよいよい 帰りはこわい」
なぜ、「帰り(道)は怖い」のでしょうか。

 あれこれとネット検索の結果、「神奈川県小田原市南町の山角天神社、および同市国府津の菅原神社や、埼玉県川越市三芳野神社が舞台であるという説があり、共に発祥の碑がある」ということがわかりました。
 中でも、「埼玉県川越市三芳野神社」説というのに、説得力があるように思います。

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 童歌「とおりゃんせ」は三芳野神社の参道が舞台と言われています。

 川越城内にあったため、一般の人は許可がないと参拝できませんでした。たとえ参拝できたとしても、帰りには所持品を厳しく調べられたといわれており、その様子が歌われていると伝えられています。
 当時の川越は新河岸川の船運で江戸と結ばれていたため、江戸を通じて童歌が広まっていったといわれています。

https://kawagoe-blog.com/miyoshino-temple/#index_id2

 この神社が城内にあって、通行制限があったという点がポイントです。
 写真で見ると、参道もかなり長く、夕方には薄暗くなるように見えます。  
  というわけで、とりあえずは納得できました。

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 ただ、「そんな厳しいところへ参らなくても、他に自由にお参りできるところもあったろうに」などと言われると、反論はできませんが・・・・。

 

※ 「この歌詞の意味に神隠し伝説や人柱、埋蔵金伝説の関連付けをする人は多く」とか「被差別部落への一本道を意味しているとする説があるため、東京では放送できるが大阪では放送できず排除される形となっている」とか色々とあるようですが、興味本位の悪ノリというか、根も葉もな都市伝説と言うべきではないでしょうか。

 

♪ 「My Old Kentucky Home」とバルサモ氏のこと

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(Stephen Collins Foster、1826年7月4日 - 1864年1月13日)

The sun shines bright in the old Kentucky home,
Tis summer, the people* are gay;
The corn-top's ripe and the meadow's in the bloom
While the birds make music all the day.
The young folks roll on the little cabin floor
All merry, all happy and bright;
By'n by hard times comes a knocking at the door
Then my old Kentucky home, Good-night!
Weep no more my lady. Oh! Weep no more today!
We will sing one song for my old Kentucky home
For the old Kentucky home, far away.
* 元の歌詞では「darkies」(黒人への当時の呼称で、現在は差別的とされる)
 

 ケンタッキーの我が家は、1852年に スティーブン・フォスター(Stephen Foster)によって作詞・作曲され、1853年に出版された。1928年3月19日には公式州歌としてケンタッキー州議会により採用される。 州北部の町バーズタウンにあるフォスターの従兄弟で法律家のジョン・ローアンの家が、この「我が家」のモデルといわれる。しかし、フォスターがその時期に彼の家を訪れたという証拠がなく、これを疑問視する声もある。「ケンタッキー」の名称の採用は「故郷の人々(スワニー河)」と同様に語呂の良さで選んだのではないかとする説もある。1852年には、黒人奴隷問題に大きな影響を与えた「アンクル・トムの小屋(Uncle Tom’s Cabin)」が出版されており、作曲の動機になったのではないかとの説も有力である。

Wikipedia

 

 テレビにもYouTubeにも飽きた正月の二日。久しぶりに「レコード鑑賞」と、多くもないLPレコードを探していると、ロジェワーグナ合唱団のフォスター曲集がありました。

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 ふと、思い出したのは、30数年も前のこと。当時の勤務校にALT(外国語指導教員)として来られていたウィリアム・バルサモ氏(William BALSAMO)のことでした。 

 研究者情報のサイトで確認すると以下のような記述があり、当時すでに40代半ばだったでしょうか。

J-GLOBAL ID:200901057796452420  更新日: 2008年02月14日
BALSAMO William
バルサモ ウィリアム| William BALSAMO
所属機関・部署: 旧所属 賢明女子学院短期大学 英語科
職名: 教授
ホームページURL (1件): http://www.geocities.com/yamataro670/Asiahelp.htm
研究分野 (3件): 文学一般  ,  中国文学  ,  宗教学 
  学歴 (5件):
- 1985 ニューヨーク大学大学院 アジア史
- 1985 NEW YORK UNIVERSITY ASIAN HISTORY
- 1965 セントバーナード大学 哲学
- 1965 ST. Bernard's College PHILOSOPHY
ST. John's University Asian Theology

 イタリア系のアメリカ人だという氏は、とてもシャイな感じの方で、物腰の柔らかく、温厚なお人柄から、生徒教師ともに人気がありました。ご先祖はイタリア系の移民で「バルサモ」はマフィアの名前だと、苦笑いをされていました。いずれにしても、田舎の高校にはもったいないような方でした。

 片言の英語で話した中で、氏がニューヨークで教員をしながら、夏休みなど長期の休暇はアルバイトとして歌劇場のコーラスの一員として歌っていたということを聞き、ぜひ文化祭での音楽部の発表時に、一緒に歌ってくれるようお誘いしたのでした。

 楽譜や関係資料がなく、うろ覚えなのですが、たしか、この「ケンタッキーの我が家」を含むメドレー曲で、氏にはソロ部分をお願いをしました。

 練習では、やはりテノールの素晴らしいお声を聴かせてくださり、部員たちにとてもよいお手本になってくださいました。
 ただ、大変残念なことに、久しぶりのステージで緊張されたのか、指揮者の指示がまずかったのか、本番では練習のようには上手くいきませんでした((;。;))

 ステージが終わった後の申し訳なさそうなお顔が忘れられません。

 

 その後彼はALTを辞めて短大にお勤めになり、私も他校へ転勤をしたのですが、その後一度だけバルサモ氏に偶然お会いしたことがありました、

 姫路の駅前にあるメインストリート御幸通りにおいてでした。片言の英語で、私が「結婚して(氏は当時も独身でした)男の子が生まれたばかり、名前を「ナオヤ」という」と言ったつもりが、氏は「ナゴヤ?」と返されました。
 ネットで検索すると2003年頃までに、何冊か本を出されているようです。勤務されていた短大も今はなく、その後どうされたのでしょうか。日本に痕跡を見つけられないということは、母国にお帰りになったのかもしれません。

 40年近くの間に、多くのALTを見てきましたが、忘れられないお一人です。今でも素晴らしいテノールのお声とあの優しい面差しがよみがえってきます。

 

♪ 「異国の丘」(吉田正)

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 増田幸治作詞(佐伯孝夫補詞)、吉田正作曲。
1943年(昭和18年)に陸軍上等兵として満州にいた吉田正が、現地で療養中に部隊の士気を上げるため作曲した「大興安嶺突破演習の歌」が原曲である。戦後、シベリアに抑留されていた兵士の間で歌われ、抑留兵のひとりだった増田幸治が作詞した。非常に強い望郷の思いを歌っている。原題は『昨日も今日も』である。
竹山逸郎、中村耕造の歌唱で、1948年(昭和23年)9月、ビクターレコードから発売された。

 たぶん市内の図書館に行ったときだったでしょうか。広報誌や催し物のチラシが置いてあるところで、吉田正記念オーケストラ」の公演チラシを見つけ、さっそく家内と二人分を買いに走りました。
 まだ早かったのか、購入時点ではガラガラでしたが、当日(11月27日)はほぼ満席。しかも、自分も含めて9割方が前期及び後期の高齢者(笑)

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 この歌は、子どもの頃からテレビの懐メロ番組で聴いていて、「シベリア抑留」との関連もぼんやりと知ってはいました。

 当日は、演奏の合間のトークが面白いことで知られる指揮者の大沢可直(よしなお)さんが、「北朝鮮拉致被害者」と関連付けて、「日本人が忘れてはならない」歌だと言われたのが印象的でした。
  YouTube動画では、大沢さんが客席に降りてきて、観客と共に歌っていらっしゃいますが、もちろん今は時節柄、「一緒に歌いましょう」とは言われませんでした。
 それでも、私も含めて多くの方々が、マスクをしたまま口ずさんでいるのが、二番、三番と曲が進むにつれて、はっきりとわかりました。

 おそらく80名を超える、フル編成に近いオーケストラに合わせて歌うなどとは、コーラスをやっていて「第9」を歌ったことのある人以外は、まずあり得ないことでしょう。 そういう意味でも、この「異国の丘」は、当日の多くの観客にとって忘れられない思い出の一曲とはなるのではないでしょうか。

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吉田 正(よしだ ただし、1921年(大正10年)1月20日 - 1998年(平成10年)6月10日)は、茨城県日立市出身の国民歌謡作曲家。死後の1998年7月に国民栄誉賞受賞。位階は従四位

生涯作曲数は2400曲を超える。都会的で哀愁漂うメロディーは都会調歌謡と称され、ムード歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広く手掛けた。また、鶴田浩二三浦洸一フランク永井松尾和子橋幸夫和田弘とマヒナスターズなど多くの歌手を育て上げた、第二次世界大戦後の日本歌謡史を代表する作曲家の一人である。(Wikipedia

 

 Wikipediaで、改めて調べてみると、私にとっては小学校に入る前あたりから、高校生あたりにかけての長い間、よくもこれだけのヒット曲が書けたものだというぐらい、後世に残る名曲を多く世に出しておられます。
 菊池清麿『昭和演歌の歴史 その群像と時代』(アルファベータブックス、2016年)によると「都会派ムード歌謡」というのが、所属していたビクターレコードの「売り」だったということですが、下に挙げたような曲目は、題名を見ただけで今でもメロディーが浮かんでくるほど、素晴らしい歌ばかりでした。
 コンサートの後も、夜の「YouTubeタイム」(?)には、動画を再生して余韻に浸っています。おかげで、イントロも間奏も覚えてしまいました。
 たしか、今週末も東北のどこかの町で公演があったはずです。会場は高齢者の方々で埋め尽くされていることでしょう。 

異国の丘(1948年/竹山逸郎・中村耕造)
落葉しぐれ(1953年/三浦洸一
街のサンドイッチマン(1953年/鶴田浩二
東京の人(1956年/三浦洸一
好きだった(1956年/鶴田浩二、1959年/和田弘とマヒナスターズ - ハワイアン風に後年カバー)
有楽町で逢いましょう(1957年/フランク永井
夜霧の第二国道(1957年/フランク永井
泣かないで(1958年/和田弘とマヒナスターズ) - マヒナのオリジナル曲第1弾である。
好きな人(1958年/藤本二三代)
誰よりも君を愛す(1959年/松尾和子&和田弘とマヒナスターズ) ○第2回日本レコード大賞
潮来笠(1960年/橋幸夫) - 橋幸夫のデビュー曲。○第2回日本レコード大賞(新人賞)
再会(1960年/松尾和子
江梨子(1962年/橋幸夫
寒い朝(1962年/吉永小百合
いつでも夢を(1962年/橋幸夫&吉永小百合) ○第4回日本レコード大賞
美しい十代(1963年/三田明)
あの娘と僕〜スイム・スイム・スイム(1965年/橋幸夫) ○第7回日本レコード大賞(企画賞受賞曲)
おまえに(1966年/フランク永井
恋のメキシカン・ロック(1967年/橋幸夫
傷だらけの人生(1970年/鶴田浩二) ○第13回日本レコード大賞(大衆賞)
子連れ狼(1971年/橋幸夫) ○第14回日本レコード大賞(大衆賞)

 

 

 

 

 

♪ 「叱られて」

弘田龍太郎:叱られて(清水かつら) - YouTube

歌:小川明子

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「叱られて」 作詞:清水かつら、作曲:弘田龍太郎
大正9年(1920)4月に少女雑誌「少女号」に発表    2007年、文化庁日本PTA全国協議会により「日本の歌百選」に選定。

 


叱られて 叱られて
あの子は町まで お使いに
この子は坊やを ねんねしな
夕べさみしい 村はずれ
こんと きつねが なきゃせぬか

叱られて 叱られて
口には出さねど 眼になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなた(彼方)の 花の村
ほんに花見は いつのこと

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 子どもの頃から幾度となく聴いているこの歌ですが、歌詞に切ないものを感じるからでしょうが、自分から口ずさんでみようとは思わない曲ではあります。
 ただ、合唱曲としては、40年余り前に所属していた今は無き伊丹混声合唱団(現在、主要メンバーはアクア・ピュアという合唱団に)で歌ったことがありました。
 たしか、法務省が毎年7月に行っている社会を明るくする運動のイヴェントだったと思いますが、これも今は無き伊丹市文化会館のステージで、林光「日本抒情歌曲集」に収められたこの曲を演奏したことがありました。
 浄土真宗の僧侶でもある指揮者の井上一朗氏が、まだ30歳過ぎでしたが、この運動と関連付けた巧みな前説をされて、壇上でスタンバイしながら感心した記憶があります。

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 誰しも思うのは、歌の中の「あの子」と「この子」という「二人」はどういう境遇に置かれていて、誰に「叱られて」いるのだろうかということです。
 一番の歌詞に「お使い」や「ねんねしな」の言葉があり、二番には「二人のお里」があることから、どうやら、この子達は親元を離れ、遠くの裕福な家に子守奉公に出されているのかなと気づかされはしますが、小説や何かでは知っているものの、ピンと来ないのも事実です。
 作詞家清水かつらのことを調べると、必ずと言っていいほど、彼が幼い頃に母と生き別れたことに言及してあり、そのときの悲しさや辛さを、この歌で奉公へ出された子供の心境と重ね合わせたのではないとかという説明があります。
  時代背景は曲のイメージは違うかも知れませんが、「五木の子守歌」「竹田の子守歌」に共通するものを感じさせられます。
 秋の夜長に、しみじみ聴くのはいいとしても、唄ってみようかという気にはならない歌ではあります。

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清水かつら
1898年(明治31年)7月1日 - 1951年(昭和26年)7月4日)
和光市ホームページより)

 清水かつらは、多くの童謡を作詞した童謡詩人です。明治31年7月に深川で生まれたかつらと和光市の接点は、かつらが小学6年のときに迎えた継母が、現在の和光市新倉の出身だったことでした。

 青年期、かつらは小学新報社に就職し、少女雑誌の編集に携わります。このころからかつらは作詞をスタートし、「靴が鳴る」「叱られて」「雀の学校」などを次々と世に送り出しました。大正12年、父を亡くし、関東大震災で家まで失ったかつらは、継母や弟たちと現在の和光市新倉に避難してきます。その後、大正14年に白子界隈に転居し、昭和12年には新田坂にほど近い白子二丁目に転居しました。

 戦後、かつらは白子川の風景をモチーフにした「みどりのそよ風」を作詞します。しかし、昭和26年7月、「酒が飲めなくなったら終りだ」という言葉を残して世を去りました。現在は東京都文京区本駒込の吉祥寺で永遠の眠りについています。 和光市デジタルミュージアム和光市ゆかりの文化人」より
  https://rekitama-wako.jp/museum/bunkajin/shimizukatsura/shimizukatsura.php