思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 「川の流れのように」

混声合唱曲「川の流れのように」―見岳章(編曲・藤林由理) - Bing video

(合唱 京都エコー)

川の流れのように
秋元康作詞・見岳章作曲

1
知らず知らず 歩いてきた
細く長い この道
振り返れば 遥か遠く
故郷(ふるさと)が見える
でこぼこ道や 曲がりくねった道
地図さえない それもまた人生
ああ 川の流れのように ゆるやかに
いくつも 時代は過ぎて
ああ 川の流れのように とめどなく
空が黄昏(たそがれ)に 染まるだけ

2
生きることは 旅すること
終わりのない この道
愛する人 そばに連れて
夢 探しながら
雨に降られて ぬかるんだ道でも
いつかは また 晴れる日が来るから
ああ 川の流れのように おだやかに
この身を まかせていたい
ああ 川の流れのように 移り行く
季節 雪どけを待ちながら

3
ああ 川の流れのように おだやかに
この身を まかせていたい
ああ 川の流れのように いつまでも
青いせせらぎを 聞きながら

  例年なら、田植えが終わったこの時期から三週間程あとに、所属する混声合唱団の定期演奏会が催され、いよいよ練習もラストスパートとなるのですが、昨年の3月からコロナ禍で活動は休止のまま。再開のめどは立っていません。

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2019年の定期演奏会

 昼間の農作業の疲れを癒やすのは、夜のYouTubeタイム」!!あれこれ気ままに好みの曲をアトランダムに聴いています。
 定期演奏会との関連でいえば、数年前に唄ったこの曲。珍しく、男性パートが「♪知らず知らず~」と出だしから、メロディーを歌わせてもらえる(笑)編曲になっていました。 

 曲の途中で、バスパートにもお情けで(?)主旋律が廻ってくることはありますが、出だしからというのは、なかなか珍しいことなのです。
 だからという訳はありませんが、この曲は忘れがたい一曲になっています。
 歌詞の方も、熟年向けのとでもいいましょうか、前期・後期の高齢者主体の私たちの団には、身を以て実感できる内容ですし、旋律にも特に唄いにくいところがないのも気に入っている理由です。
 私の場合、正直申し上げて、若い頃は美空ひばりさんの歌はそれほど好きではありませんでしたが、晩年の「愛燦燦」とこの歌については、やはり年のせいでしょうか、その良さがしみじみと分かるようになってきました。

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 今更いうまでもなく、美空ひばりさん最後のシングルということで、ご本人はそれほどの回数を唄ったわけではないそうですが、その分、性別やジャンルに関係なく、ずいぶんと多くのミュージシャンがカバーされており、それらもYouTubeで楽しむことが出来ます。
 中でも、合唱編曲バージョンと、「三大テノール」の一人であるホセ・カレーラスの歌唱が好きで繰り返し聴いています。
 スケールの大きな楽曲なので、オーケストラをバックに朗々と歌い上げるというのが、よく似合っているように思います。

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https://www.youtube.com/watch?v=Ne_N9Zwpzbs

 

 発声練習用のCDを車の中にいつも置いているのですが、なかなかそれを使って練習しようかという気持ちが起こらない昨今です。

 いつまで続くか分からない合唱ブランクの間も、せめてもいい歌をたくさん鑑賞していきたいと思っています。

♪ 「海を越えて友よ来たれ」(1964東京五輪愛唱歌)

www.youtube.com

(前半:「東京五輪音頭」、4分13秒から「海を越えて~」唄:藤山一郎

 

 東京オリンピック開催予定日まで二ヶ月を切りました。依然として先行きに不透明な部分が多く、選手、関係者の「やきもき度」は頂点に近くなっているのではないでしょうか。
 スマホでネットニュースでも見ていたとき、たまたま記事中にあった「より速く より高く より強く」の文言から、この歌が思い出されました。
 この部分のメロディーははっきり思い出されたのですが、曲名は勿論、歌全体の旋律は出てきません。
 「より速く より高く より強く」で検索して、タイトルのような曲名であったことがわかりました。
 

 この歌は今から8年ほど前に当時の安倍首相(たしか一つ年上?)が歌ったというニュースも、おぼろげながら甦ってきました。
 

★安倍首相、歌って五輪招致

 安倍晋三首相は4日、来日中の国際オリンピック委員会IOC評価委員会メンバーを歓迎する行事で、1964年の東京五輪に向けて作られた歌の一節を高らかに歌い、2020年夏季五輪の東京招致に懸ける熱意を示した。
 首相が歌ったのは、63年に発表された「海をこえて友よきたれ」(土井一郎作詞、飯田三郎作曲)のさびの一部。当時小学生だった首相は「今でも歌詞を覚えている」と前置きし、左手を高く掲げながら、原曲よりゆっくりとした調子で歌った (典拠不明の記事ですが・・・)

 

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「海をこえて友よきたれ」
作詞:土井一郎、作曲:飯田三郎、編曲:冨田勲 1963年(昭和38年)

1. 海を越えて 友よ来たれ
   明け渡る 山に川に
   若さ溢れ 力溢れ
   より速く より高く より強く
   大地蹴る 響き高く 
   あぁ 東京 東京オリンピック

2. 空に駆けり 水に踊り
   花開く 技を競え
   若さ溢れ 命溢れ 
   より速く より高く より強く
   日本の 風は光る
   あぁ 東京 東京オリンピック

3. 聖火燃えて 誓う平和
   万国の 旗の下に
   若さ溢れ 夢は溢れ 
   より速く より高く より強く
   未来への 虹を架ける
   あぁ 東京 東京オリンピック

 

   前の東京五輪当時、私は田舎の小学校(といっても全校で800人はいた大きな学校でした)の3年生。前の年から、三波春夫さんの東京五輪音頭」がテレビラジオで盛んに流れていました。
 この「海を越えて~」は学校で教わった曲だったでしょうか、同世代の方のあるブログに次のような記事がありました。

 さて、この『海をこえて友よきたれ』(作詞:土井一郎、作曲:飯田三郎)は、1964年の東京オリンピックをテーマにした歌で、63年に発売されています。オリンピックと言えば先ず三波春夫の「東京五輪音頭」ですが、当時の小学生は学校で、この「海をこえて~」か、「この日のために」のどちらかを歌わされていたので、同世代の中にも「海をこえて~」派と「この日の~」派があります。 
 この「海をこえて~」はNHK関係の曲で各レコード会社競作だった様ですがYouTubeでは藤原良と高石かつ枝とのデュエットによる爽快な歌で、オリンピックの高揚感を伝えてくれます。特に、曲の半ばのより速く、より高く、より強く~♪のところでグッと盛り上がります。

https://ameblo.jp/novausagi0116/entry-11483870297.html

 

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高石かつ枝 藤原良

 この方のおっしゃるように、「曲の半ばのより速く、より高く、より強く~♪のところでグッと盛り上がります」というのは、私も全くの同感です。
 この旋律がここ二三日、耳から離れません(😀)
 その頃の私は、歌が苦手で(好きでしたが)とても人前では歌えなかったのですが・・・・

 子どもの頃の感性というか記憶というのは素晴らしいですね!

 あれからもう60年近くが過ぎようとしていますが、はっきりと脳裏に刻まれてしまっています。

 今度のオリンピックに関しては、大会に関係するマーチや歌などが、まったくどこからも聞こえてきません。

 コロナ禍の真っ最中とはいえ、寂しいことではありますね。

 

※冒頭の「東京五輪音頭」は多くの歌手が唄ったそうですが、藤山一郎さんのは初めて聴きました。やはり、藤山さんには、こういう音頭調の歌は似合いませんね(;。;)

♪ 「雨降りお月さん」

https://www.youtube.com/watch?v=FFPei6yDzvg

はいだしょうこ

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野口雨情作詞・中山晋平作曲/大正14年

1番(雨降りお月さん)
雨降りお月さん 雲の蔭
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
ひとりで傘(からかさ) さしてゆく
(からかさ)ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴付けた
お馬にゆられて 濡れてゆく

 

2番(雲の蔭)
いそがにゃお馬よ 夜が明けよ
手綱(たづな)の下から ちょいと見たりゃ
お袖でお顔を 隠してる
お袖は濡れても 干しゃ乾く
雨降りお月さん 雲の蔭
お馬にゆられて 濡れてゆく

  平年よりも20日以上早く、近畿地方梅雨入りしたようです。
 五月晴れの期間は短く、雨で黒くなった田んぼに雑草の緑が目立ち、気になるのは耕作者だけでしょうが、週明けは蒸し暑く、鬱陶しいスタートとなりました。
 「雨」にかかわる楽曲は、これまでにもいくつかとりあげましたが、今回はふと浮かんだ懐かしの童謡から「雨降りお月さん」です。
 幼児の頃は、「あめあめふれふれ かあさんが~」という出だしの「あめふり」のほうは歌ったでしょうが、こちらは歌詞も旋律も難しく、もっぱら聴くばかりであったように思います。
 今回、ネットで色々と調べてわかりましたが、なかなか「擬人法」には気がつきませんでした。(あなたは元々何の教師やったの!?と云われそうですが)

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野口雨情・茨城県北茨城市ホームページ

「野口雨情記念館 湯本温泉 童謡館」https://www.iwaki-cc.ac.jp/douyou/ame.html
ホームページの説明が歌の背景も含めて分かりやすかったので、以下に挙げておきます。 

雨降りお月さん

 「雨降りお月さん」は大正14年(1925年1月)にできた作品です。
詩を読むだけでも切ない感じをうけます。
 この歌詞は、太陽や月のまわりに見える輪のような光を暈といい、月の暈がかかることをお月さんが傘をさす、といいます。そしてお月さんが暈をさすと翌日は雨になるといわれています。この歌は、かさをさしたお月さんを現実に踏まえて、幻想的にうたったものです。
大好評
 最初に作られたのは1番だけでしたが、その後2番が新たに付け加えられました。1番と2番は別々に作られた違う曲で、旋律を微妙に変えているのです。  最初は、題名を「雨降りお月」としていましたが作曲者の晋平の要望で「さん」をつけて発表しました。 この歌は子供たちから大好評であり大人もじゅうぶんに楽しめる曲です。
しきたり
 雨情の孫、野口不二子さんによると、雨情夫人ひろから興入れの日は雨が降っていて、栃木県塩谷郡喜連川(きつれがわ)から馬で2日もかかって来たという話しを聞かされていたそうです。当時この辺りのしきたりでは、花嫁は馬に乗って婚家に嫁ぎ、花婿や村人たちは、家の前で行列を迎えたそうです。
ひろも、しきたり通りに馬に乗って野口家に嫁ぎました。しかし、その日は、あいにくの雨でした・・・。
 迎えた雨情は、白無垢姿の花嫁の濡れた綿帽子を心優しくはずしました。これが、2人の初めての対面でした。この詩はそのときのことを歌ったものです。
  お嫁さんは、新しい生活への希望に満ちて、凛として馬に乗って嫁いできたことからこの詩は、雨の中を、遠く長い道のりを濡れながらやってきた花嫁に対するねぎらいの思いを歌ったものなのです。

  作詞家・作曲家の俗にゴールデンコンビというのがあります。
 「北原白秋山田耕筰」とか、「西条八十古関裕而」とか、まだまだあると思うのですが、この「野口雨情・中山晋平という組み合わせも音楽史上に残るゴールデンコンビです。
 我々世代には懐かしい次のような歌があります。

「兎のダンス」(ソソラ ソラ ソラ うさぎのダンス~)
「証城寺の狸囃子」「あの町この町」(あの町この町 日が暮れる 今きたこの道 帰りゃんせ~)
「黄金虫」(黄金虫は金持ちだ~)
「シャボン玉」「波浮の港」(磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る~)

 

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中山晋平記念館ホームページより

 「雨」にまつわる楽曲が多いのは、やはり自由に外出もできず、家に籠もって内省的になり、そういう状況から詩想や旋律が浮かんでくるからなのでしょうか?
 古今東西を問わず、心に残る曲が多いように思います。
 この記事もタダタケさんの「雨」をYouTubeで聴きながら書きました(笑)

 

♪ 「モルダウ」初めて聴いた外国のオーケストラ

www.youtube.com

 日曜日の朝は、NHKラジオで「音楽の泉」を聴きながら朝食、と言うといかにも優雅な生活のように聞こえますが、いつもせいぜい初めの10分かそこらで、次の支度に。
 今朝は、ドボルザーク「新世界」ー(管弦楽ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、(指揮)小澤征爾ーが流れていました。

 ふと思い出したのは、初めて外国のオーケストラを聴きに行ったときのことでした。
 昭和49年(1974)か50年(1975)、広島での大学生活1年目か2年目の春でした。
 ヴァーツラフ・ノイマン (Václav Neumann, 1920年9月29日 - 1995年9月2日) 指揮のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団を聴きに行きました。
 懐に余裕があったのか、割と前の方の席でした。プログラムはおそらく、モルダウ」と「新世界」という、地方公演によくある定番の組み合わせだったのではないでしょうか。
 

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 会場は広島郵便貯金ホール。まだ出来て間もない、ずいぶんと音響効果の良いホールだったそうです。
 それまでに「生」で聴いたことがあるのは、中学生の頃に町の小学校の体育館で聴いた大阪フィル朝比奈隆指揮、これもたぶん「新世界」)と、高校2年の時に近くの中学校の芸術鑑賞で聴いたNHK交響楽団の小編成(20数名?)が演奏した「運命」ぐらいでした。

 

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 さて、モルダウは、「モルダウの最初の源流」を描写したフルート、クラリネットによる例の序奏から徐々に楽器が増えて、いよいよ弦楽器によるあの有名な主題が演奏されるわけですが、その瞬間の迫力のある弦の響きは、それまでに体験したことのない、体が震えるような感動的なものでした。 

 

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 古くほこりをかぶったファイルに綴じている昔のコンサートのパンフレットを探していたら、昭和63年(1988)にも姫路への来演時に聴きに行っているのですが、記憶に残っていません。
 それほど、初めてのチェコフィルの響きは印象深いものだったわけですね。

 長かった独身時代に、もっといろいろと聴いておくべきだったと今になって思います。
 暇も出来て、聴きに行こうと思えばいつでも(?)行ける境遇ではありますが、近年は音楽でも落語でもYouTubeで、というのが普通になってしまいました(笑)

 しかし、前期高齢者ともなると、なかなか没頭して視聴するということが少なくなります。

 やはり、安直に得られる感動なんていうものは、期待してはいけませんね(笑)

 

♪  「鯉のぼり」(甍の波と~)

www.youtube.com

 ゴールデンウィーク間近ではありますが、世間は3度目の緊急事態宣言で、行楽の自粛を余儀なくされ、たまの農作業の他はテレビやスマホ、パソコンに向かうことが多い日々が続いています。
 薫風香る好季節のこの頃になれば、広い村のあちこちに鯉のぼりが風に泳ぐ姿が見られたのもずいぶんと昔になりました。(今年30になる息子が幼い頃はうちでも上げていました)
 近年は近所に子どもの姿は見られず、聞くところでは地元の公立小学校への新入生はたった一人とか。(60年前の私の同級生は10人。さらに上の団塊の世代は20人ぐらいはいたそうです・・・)

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 この時期に思い出す歌と言えば、やはり「鯉のぼり」でしょうか!
 ただ、下のように同じ曲名で三つもあるそうで、最近は3の歌が歌われることが多いようですが、やはり我々世代には2が懐かしいですね。近年では混声合唱組曲「ふるさとの四季」(源田俊一郎)の中で歌いました。
(1については今まで知りませんでした)
1 作詞・東くめ、作曲・瀧廉太郎 『鯉のぼり』
2 作詞者不詳、作曲・弘田龍太郎 『鯉のぼり』1914年(大正3年
3 作詞・近藤宮子、作曲者不詳 『こいのぼり』1931年(昭和6年

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広島大学教科書コレクション画像データベース」より 

上は昭和16年(1941)の教科書


こいのぼり 作詞:不詳/作曲:弘田龍太郎

1

(いらか)の波と 雲の波
重なる波の 中空(なかぞら)
(たちばな)かおる 朝風に
高く泳ぐや 鯉のぼり

2
開ける広き 其の口に
舟をも呑(の)まん 様見えて
ゆたかに振(ふる)う 尾鰭(おひれ)には
物に動ぜぬ姿あり

3
百瀬(ももせ)の滝を 登りなば
(たちま)ち竜に なりぬべき
わが身に似よや 男子(おのこご)
空に躍るや 鯉のぼり
1913年(大正2年)に刊行された『尋常小学唱歌 第五学年用』が初出

  小学校5年生ぐらいに習ったでしょうか、1番の歌詞が印象深いのです。
 というのも、 「橘(たちばな)かおる 朝風に」というところを、休み時間に替え歌風に「森本(もりも~と)馨(か~お~る)」(同級生の男子の名前)と友達が歌っていたことが思い出されてくるからです。
 彼は家業の石屋さんを継いでおり、我が家のお墓でもお世話になりました。

 

 ちなみに、3の歌詞は鯉が滝を上って竜になる中国の伝説「登竜門」が元になっているといわれ、男の子が「こいのぼりのように雄大な姿に成長するように」という立身出世の願いが込められているということです。
 「登りなば」とか「なりぬべき」という文語調の歌詞から、戦後は歌われなくなったのではないしょうか。
 この歌を思い出すと、いつもこの部分のメロディー(ラララーソ ファラソファミ)と森本君のふっくらとした優しい顔つきが脳裏に浮かんできます。

 

 実は私の住んでいる加東市のうち、旧東条町域の一部では鯉のぼり作りやひな人形作りが今も行われているのです。

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加東市の鯉のぼりは「播州鯉」とよばれ、写実的で格調高く品質のよさが高い評価を得ています。明治30年頃から東条地域で始まりました。ひな人形とともに節句を祝う品としてこの地で定着しています。(加東市観光協会ホームページ)

  初めての孫(男の子・葵)の生まれたときに鯉のぼりをプレゼントしましたが、マンション住まいのために、ミニチュアのようなのをネットで探して送りました。

 本格的な鯉のぼりを買って上げられる家も少なくなってきています。

♪ 「ハイケンスのセレナーデ」

https://www.youtube.com/watch?v=8cXqwAJLQOo

(ウィーン管弦楽団)

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    今年に入ってから、昼食後の寛ぎの時間は、「家鉄」として全国各路線の前面展望動画を地図帳を片手に視聴しています。
 四国は一周して、今は九州は佐賀県筑肥線)あたり。
 あるとき、オススメ動画に上がってきたのは、今はほとんど絶滅した夜行寝台列車でした。
 かつての国鉄時代に、「銀河」(大阪ー東京)、「筑摩」(大阪ー長野)、「なは」(姫路ー西鹿児島)に乗ったことがありました。

ふと、思い出したのは車内放送のチャイムに使われているハイケンスのセレナーデの旋律でした。

 【車内放送】寝台特急はやぶさ(24系 ハイケンスのセレナーデ 東京発車前) - Bing video

 スマホの着信音はこれまではデフォルトの中から「発車メロディー」にしていましたが、昨夜少し手こずりながらも、この「ハイケンス」に変更したところです(笑)
 作曲家のハイケンスについては、下のような説明がありましたが、なぜチャイムに採用されたのかは不明です。

ジョニー・ハイケンス(Jonny Heykens, ヨハネス・ヤコブス・ハイケンス オランダ語: Johannes Jacobus Heijkens, 1884年9月24日 フローニンゲン - 1945年6月28日 ヒルフェルスム)は、オランダの作曲家。

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人物・来歴
ベルギーに留学し、ブリュッセル音楽院でウジェーヌ・イザイにヴァイオリンを学ぶ。その後、自ら楽団を設立し、指揮者としてヨーロッパ中で活躍した。
ハイケンスは、ナチスの忠実な支持者であった。新聞紙上などでアドルフ・ヒトラーを賞賛し、ユダヤ人や黒人に対する人種差別的な見解を表明していた。ハイケンスは、第二次世界大戦終結後までドイツで演奏家として活躍していたが、戦争末期にオランダに帰国後、連合軍にナチス・ドイツに対する協力的な姿勢を問われて、ヒルフェルスムの監獄に収監され、間もなくして獄中にて死去した[2]。60歳没。
以降、オランダにおいて、ハイケンスの名は重要な音楽家とは見なされることなく、忘れ去られた。
ハイケンスは「ハイケンスのセレナーデ」(Ständchen, Op.21-1)の作曲者として知られる。ハイケンスは他にも多くの楽曲を作曲したが、戦争などでほとんどの作品は消失し、現在ではハイケンスのセレナーデ以外は全くと言ってよいほど知られていない。
日本において、この曲は1943年に日本放送協会のラジオ番組『前線へ送る夕』(ぜんせんへおくるゆうべ)のテーマ曲として採用されたことで一般に知られるようになり、戦後は旧日本国有鉄道国鉄)の客車の車内放送用チャイムに第一主題の旋律の末尾部分が採用された。現在でもJR各社の客車やその譲渡車、JR北海道の特急列車、高速乗合バスJAMJAMライナーの新日本観光自動車運行便などに搭載・使用されている。(Wikipedia)

 太平洋戦争たけなわの頃に、連合国側のオランダ人の作った「敵性音楽」をNHKが流していたというのは、違和感がありますが、上記のように「ナチスの忠実な支持者であった」ということから、大目に見てもらっていたのでしょうか!? 

 

 いつ頃からか、あちこちの駅で発車メロディーを競うかのように設定するようになりました。

 関西では大阪環状線がよく知られています。贔屓の落語家の桂雀三郎さんのヨーデル食べ放題が鶴橋駅で使われているのを、ご本人がマクラでよく話していますね。

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 鉄ちゃんにも、ホントに色々なタイプがありまして、よく知らないのですがひょっとして「発車メロディー」あるいは「社内放送」専門の人もあるのでしょうね。
 私の場合は、家鉄、またはYouTube鉄とでも言うんでしょうか。

 なかなか、気ままに列車旅というような状況ではなく、日に日にコロナ陽性者が増えてきています((;。;))

 まだまだ「家鉄」が続きそうな予感。

♪ 「東京ラプソディー」(藤山一郎)

https://www.youtube.com/watch?v=mfB_UAwcXhA

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「東京ラプソディ」
門田ゆたか作詞・古賀政男作曲/昭和11年
1.
花咲き花散る宵も
銀座の柳の下で
待つは君ひとり 君ひとり
逢えば行く ティールーム
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

2.
現(うつ)つに夢見る君の
神田は想い出の街
いまもこの胸に この胸に
ニコライの かねも鳴る
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

3.
明けても暮れても歌う
ジャズの浅草行けば
恋の踊り子の 踊り子の
ほくろさえ 忘られぬ
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

4.
夜更けにひととき寄せて
なまめく新宿駅
あのこはダンサーか ダンサーか
気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

5.
花咲く都に住んで
変わらぬ誓いを交わす
変わる東京の 屋根の下
咲く花も 赤い薔薇
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

 

 

 平日の昼食時には、毎日のようにラジオでNHKのニュースの後、「昼のいこい」を聴いています。
 先日、藤山一郎さんの「東京ラプソディ」がかかっていました。
 ふと思い出したのは、4年前に所属する混声合唱団(コロナ禍で一年あまり活動を休止中)の定期演奏会でこの曲を歌ったことでした。
 改めて、歌詞を見ると1番2番は何と言うこともないのですが、3番では「恋の踊り子の」という文句がちょっと気になります。
 そして、一番気になるのが4番です。
 「夜更けにひととき寄せて なまめく新宿駅の~」という一節。
 「ひととき寄せる?」何を寄せるのでしょうか?
 「なまめく新宿駅?」
 その昔、地下鉄ネタで知られた東京漫才の三球照代さんのセリフではありませんが、考えれば考えるほど夜も寝られない(笑)

 こういう用語に意味的な飛躍がある(?)独特の歌詞は、あの西条八十さんかなと思って調べると、違っていましたが、作詞の角田さんは、西条さんの直弟子でした。
やっぱり、師の薫陶の成果でしょうか?

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門田 ゆたか(かどたゆたか、1907年(明治40年)1月6日-1975年(昭和50年)6月25日)は昭和期の作詞家。本名門田穣。
経歴
福島県信夫郡福島町(現・福島市)出身。早稲田大学文学部仏蘭西文学科中退。
西條八十に師事、後に作詞家となり、1933年(昭和8年)、ビクターレコードより「東京祭」でデビュー。 1936年(昭和11年)、藤山一郎の「東京ラプソディ」が大ヒット。 その他の代表作には、灰田勝彦・大谷冽子「ジャバのマンゴ売り」、岡晴夫「東京の花売娘」(佐々詩生名義)、藤山一郎「ニコライの鐘」、美空ひばり「私のボーイフレンド」、「ひばりが唄えば」、コロムビア・ローズ「プリンセス・ワルツ」、「ロマンスガイド」などを作詞。
ハワイアンを多数作詞したことでも有名で、「小さな竹の橋で」、「月の夜は」、「林檎の木の下で」などを作詞。(Wikipedia

  yahoo知恵袋では1件質問がありましたが、回答も1件であまりに馬鹿馬鹿しいので転載はやめておきます。

はてなブログ 日本百名曲20世紀編」(https://songs20thcentury.hateblo.jp/entry/2016/03/26/011049)にあった次のような解釈が無難なところでしょうか。

「夜ふけにひと時寄せて なまめく新宿駅

深夜にちょっと立ち寄った 夜の顔を見せる新宿駅
今も昔も新宿の夜はなまめかしい。

 【参考】なま‐め・く【▽艶めく】 の解説
[動カ五(四)]《「なま」は未熟の意》
1 異性の心を誘うような色っぽさが感じられる。また、あだっぽいふるまいをする。「―・いたしぐさ」
「このくるまを女車とみて、寄り来てとかく―・くあひだに」〈伊勢・三九〉
2 若々しく美しく見える。清新である。
「その里に、いと―・いたる女はらから住みけり」〈伊勢・一〉
3 しっとりとして、品がある。優美である。
「高麗 (こま) の紙の…色などは華やかならで―・きたるに」〈源・梅枝〉
4 物や情景などが、美しく趣がある。風流である。
「秋の野のいと―・きたるなど見給ひて」〈源・賢木〉
出典:デジタル大辞泉小学館

 

 歌詞もさることながら、昭和11年(1936)といえば、あの二二六事件のあった年で、殺伐とした世相からいうと、こういう明るい歌が大ヒットしたのが、ちょっと不思議ですね。

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