思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 「旅立ちの日に」 卒業式ソングの今

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(東京混声合唱団)

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 3月11日が近づいてきて、新聞、テレビ、ラジオなどでも東日本大震災の話題が多く取り上げられるようになってきたように感じます。特に、今年は10年という大きな節目でもあって、注目の度合いも高いようです。
 10年前のその時は、校区内の中学校の卒業式に来賓(校長代理)で出席し、10時から2時間半ほどの長い(失礼!)式が終わって帰校し、遅い昼食の後、ほっとしている時間帯でした。
 兵庫県の内陸部にある当地方でも、震度2を計測したようで、職員室の蛍光灯がしばらく横に揺れていたことをはっきりと覚えています。

 そういうわけで「思い出の中のあの歌」となると、「群青」(有名な合唱曲ではなく、若い人の間で流行っている曲もあるようですが)旅立ちの日にの二曲がどうしても思い出されてきます。
 「群青」のほうは、迂闊にも数年前に近隣の町の混声合唱団が歌っているのを聴いたのが初めてでした。YouTubeでいろんな団体のを聴き比べたりはしていますが、今回はパスしておきます。

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(パナムジカホームページ https://www.panamusica.co.jp/ja/appeal/gunjo/ 

 前述のように、校区内の中学校の卒業式には、50歳前後から毎年のように来賓で出席していました。公立高校入試の2日前に行われることが多いのですが、市内・郡内で同じ日に実施されるために、校長、教頭以下、部長クラスまで手分けして出席するのが通例でした。
 各中学校のぼんやりとした印象は残っていても、どこの学校でどんな歌を合唱していたかまでは思い出せませんが、この旅立ちの日にが一番多かったのは間違いないと思います。

作詞:小嶋登
作曲:坂本浩美

白い光の中に 山並みは萌えて
はるかな空の果てまでも 君は飛び立つ
限りなく青い空に 心ふるわせ
自由をかける鳥よ 振り返ることもせず

勇気を翼に込めて 希望の風に乗り
この広い大空に 夢を託して

懐かしい友の声 ふとよみがえる
意味もないいさかいに 泣いたあの時
心通った嬉しさに 抱き合った日よ
みんな過ぎたけれど 思い出強くだいて

勇気を翼に込めて 希望の風に乗り
この広い大空に 夢を託して

今 別れの時 飛び立とう 未来信じて
はずむ 若い力 信じて
この広い この広い 大空に

今 別れの時 飛び立とう 未来信じて
はずむ 若い力 信じて
この広い この広い 大空に

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 『旅立ちの日に』は、1991年に埼玉県の秩父市立影森中学校の教員によって作られた合唱曲である。作詞は当時の校長であった小嶋登、作曲は音楽教諭の坂本浩美(現・高橋浩美)による。編曲は、松井孝夫他、複数の作曲家によるものがある。近年では卒業ソングの定番として認知され、原曲の変ロ長調の他にハ長調などの様々な調で歌われている。また、混声三部版、混声四部版、女声三部版、同声二部版と複数のアレンジが存在する。

Wikipedia

  作曲されてから、もう30年にもなるのですね。 今や、「卒業式ソング」では定番中の定番と言ってもいいことでしょう。

 

 2011年に四国新聞社が香川県の300の小中高校で行った調査では、約三分の一の96校が「旅立ちの日に」で、二位の「YELL」(いきものがかり)18校を大きく引き離している。このほか5校以上が歌う予定として挙げたのは、「大地讃頌」「ありがとう」(いきものがかり)、「栄光の架橋」(ゆず)、「最後のチャイム」(山本恵三子作詞、若松歓作曲)、「大切なもの」(山崎朋子作詞作曲)、「ベストフレンド」(kiroro)、「手紙~拝啓 十五の君へ~」(アンジェラ・アキ)、「巣立ちの歌」、「道」(EXILE)(中略)一校だけが選んだものが三十二曲あり、オリジナルソングを歌う学校も十一校あった。特定の曲に集中する反面、実に多様な歌が歌われているのである。四国新聞によれば、「子ども主体」の選曲で、毎年固定はせず、子どもの意見を反映して決めている学校が多く、最近のヒット曲が目立つという。

有本真紀『卒業式の歴史学講談社メチエ、2013年より第6章「卒業式歌の現在」より

 

仰げば尊し」は歌わない “卒業ソング”今どきの人気番付

旅立ちの日に 18人
大地讃頌 7人
・証(flumpool) 6人
・道(EXILE) 3人
・群青 3人
・YELL(いきものがかり) 2人
・遥か(GReeeeN) 2人
・大空賛歌 1人
 ・道(GReeeeN) 1人
栄光の架橋(ゆず) 1人
・3月9日(レミオロメン) 1人
・最後の一歩最初の一歩 1人
・BELIEVE(NHK「生きもの地球紀行」テーマ曲) 1人
・ともだちはいいもんだ 1人
・明日の空へ 1人
・桜ノ雨(初音ミク) 1人
・COSMOS(アクアマリン) 1人
・手紙~拝啓 十五の君へ~(アンジェラ・アキ) 1人

 

2019/03/17  「日刊ゲンダイDijital」

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/249801/3

 記事から、32人がどういう人たちなのか読み取れませんでしたが、おそらく小中学生の保護者ではないかと思われます。私たちから見ると、子の世代です。 はっきりと知っていると言えるのは4曲(太字)だけでした。

 

■ 合唱指導は大変!?

 独唱でなら、そんなに難しい歌ではないでしょうが、これを学年全部でとなると、相手は生意気盛りの中3ですから、とても音楽の先生一人の手には負えないことでしょう。

 YouTubeにはパート毎の練習用の動画がありますが、これもその大変さを表しているのではないでしょうか。

 2,3年前に私たちの混声合唱団でも歌いましたが、なにせ半ばシルバーコーラスなものですから、例えば下のようなリズムになると、なかなか揃いません。(私は一応、背楽譜通りに歌いましたが😀)指揮者から何度も指摘されたことを覚えています。 

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  既に高校の卒業式は終わっていますが、新聞報道では式において歌唱はとりやめ、CDを流したというところも、結構あったようです。

 これからの小中学校でも、おそらく似たような実施形態になるのではないでしょうか。当事者にとっては、一生に一度のことですから、「こういう状況ではやむを得ない」とはいうものの、本当に残念なことです。

♪ 「祝典行進曲」(團伊玖磨)

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指揮:手塚幸紀
演奏:東京佼成ウィンドオーケストラ

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    日本の作曲家・團伊玖磨が、1959年に皇太子の成婚を祝して作曲した行進曲である。楽曲は吹奏楽編成で書かれている。同年4月10日の結婚の儀の一連の式終了後に行われた馬車による祝賀御列の儀の際に演奏されたと思われることが多いが、実際には当時の音楽隊の技術的問題で演奏されていない。

    戦後日本を代表する行進曲であり、海外の軍楽隊等が日本において演奏会を行う場合には、瀬戸口藤吉の「軍艦行進曲」とともに必ずといって良いほど演奏される。現在は入学式や体育祭、卒業式などに使われることが多い。また、テレビで皇太子明仁夫妻の成婚パレードが映る際にもよくBGMとして流れる(作曲者によれば、パレードで演奏されたとよく誤解されるのはこのためである)。

    1964年の東京オリンピック及び1984年のロサンゼルスオリンピックの開会式、1990年(平成2年)の即位の礼、1992年の天皇訪中の際、中国側の歓迎として晩餐会で、2005年(平成17年)の黒田慶樹紀宮清子内親王との結婚式で演奏された。(Wikipedia

 

    テレビで普通に番組を観ているよりも、YouTubeで音楽、落語、古い邦画、鉄道関連の動画などを観ているほうが長いというのが最近の生活です。
 あなたへの「オススメ」と次々にいろんな動画を紹介してくれている中に、この「祝典行進曲」がありました。
 中学3年生の時、ちょうど大阪で万博が開かれた昭和45年(1970)のこと、田舎中学のブラスバンド(当時は吹奏楽部とは言いませんでした)でも、この曲を夏の定期演奏会で演奏しました。
 1,2年生の間は、行進曲といえば君が代行進曲」「錨を揚げて」「士官候補生」など、以前からあった古い楽譜を使って練習していたものですが、この年、「ナイルの守り」(K. アルフォード)とともにこの曲を練習するようになって、よく分からないうちにも、「曲のレベルが違うな!」(自分たちも少しは上手になったのかな?)と思ったものでした。

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出だしのトランペット。切れのいいタンギングでないと、ぶち壊しですね(笑)
一転して、クラリネットとサックスの第一旋律に(ソ~~ラ~ド~ /シッソラ~ミ~~)つい引き込まれていきます。
全体は、なかなかに手の込んだ構成ですが、何よりも印象的なのは、トリオの部分の木管で演奏される旋律の美しさです。聴いているうちに、各パートの面々の顔と名前が思い出されてきます。

 

 この曲などは、実際の行進の場面で演奏されるよりも、コンサートマーチというのでしょうか、ホールでの演奏を主にした曲だと思います。
 「祝典」ですから、もちろん華やかさと気品は十分に備えているのですが、適度に抑制の利いた部分が、特に木管楽器の受け持つメロディーの部分に見られて、(それがその後も長らく愛される理由の一つかもしれませんが)大変素晴らしい曲です。

 古関裕而さんの東京オリンピックマーチ」と並ぶ、戦後の我が国の行進曲では「双璧」といえる傑作ではないでしょうか。
 後に「新・祝典行進曲」が平成5年(1993)に同じく團伊玖磨さんによって、皇太子徳仁親王今上天皇)と小和田雅子(皇后)さん のご成婚を祝して作曲されていますが、失礼ながら、やはりこの曲には及ばないような気がします。
 今度の東京オリンピック(現時点では、どうなるのか分かりませんが・・・)でも、使ってほしい名曲です。

 

團伊玖磨さんは、あらゆるジャンルに後世に残る作品を多数書いておられます。

童謡のぞうさん」(まど・みちお作詞)といえば、知らない人のない歌でしょう。

合唱をやった者には、「岬の墓」、それに筑後川が忘れられない名曲です。

♪ 「吉本新喜劇 もう一つのオープニングテーマ」

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    毎週木曜日の夜は、布団に入ってからラジコでラジオ大阪噺家の時間」を聴いています。

    木曜の担当は笑福亭鶴二さんと女道楽内海英華さんです。鶴二さんは、ああ見えて(失礼!)なかなか噺のお上手な方で、口八丁手八丁の英華姐さんとの掛け合いの面白さにハマっています。

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 毎回、番組の最後に、英華さんが「思い出の芸人さん」を紹介するコーナーがあるのですが、昨夜は、花紀京さんでした。

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 内容は、昔から関西のお笑いに興味のあった私にとっては、特に目新しいというものではありませんでしたが、その後にかかった吉本新喜劇のオープニングテーマ」が印象的でした。

 というのも、関西人なら誰でも知っている(?)あの『フンワカパッパ』の他にもう一つあるというのです。聴くと、確かに聞き覚えのある軽快なメロディーです。

 調べると、これは『生産性向上のためのBG音楽 工場向け第一集その5』(作曲:山根正義)というのだそうで、とてもコメディーのオープニングテーマとは思えません。

「生産性向上のためのBG音楽 工場向け第一集その5」(作曲:山根正義 演奏:コロムビア・オーケストラ 1962年ごろに日本コロムビアから発売されたアルバム「生産性向上のためのBG音楽 工場向け第一集」収録 1980年代まで)
※放送では、この曲をBGMに、吉本興業所属の漫画家・木川かえるの描くうめだ花月周辺の風景画(人物は蛙によって擬人化されていた)を背景に、出演者とスタッフ名がテロップで流された。
うめだ花月では、この曲が実際の舞台でも緞帳を上げるときに流れていた。 Wikipedia

 初任地が伊丹だったので、「うめだ花月」にも何度か行きましたし、テレビの生中継でも、この音楽を聴いた記憶がよみがえってきました。

 

 ご多分に漏れず、私も昭和40年代の小中学生の頃から、土曜日の昼下がりに放送されている吉本新喜劇を、よく観ていました。

 今でもお顔とお名前が懐かしく思い出されるのは、次のような方々でしょうか。

 花紀京  岡八郎 平参平  原哲男  船場太郎 桑原和男  間寛平等々

 

 さて、関西人なら誰でも知っているという「ホンワカパッパ  ホンワカホンワカ」のほうですが、これも意外でした。

 CMの作曲で知られる「浪速のモーツァルトキダタローさんあたりの作曲かなと思っていたら、元々は「Somebody Stole My Gal」(女を誰かにとられてしまった)という題名の1918年(大正7年)のアメリカの歌だそうです。

吉本新喜劇のオープニング曲として有名になったのは、トロンボーンプレイヤーであるPee Wee Hunt氏のデキシーランドジャズ・スタイルの演奏です。ベニー・グッドマンによるスウィングジャズの名演奏もあります。 https://www.music8.com/products/detail4616.php

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 話は、「もう一つの」ほうに戻りますが、あのコテコテのどぎつい関西風お笑い番組のオープニングテーマが、元は「生産性向上のための・・・」だったなんて・・・。そのギャップにちょっと違和感を覚えたりもします。

 ですが、考えようによれば、上演開始から60年以上にわたり関西人に親しまれているこの番組も、視聴者のストレス解消という意味では間接的に「生産性向上」に寄与しているとは言えないでしょうか!?

 

 今回は、「インダストリアルミュージック」というジャンルがあるのを知りました。

 直訳は「工業音楽」ですが、要するに生産性向上のためのBGMのことです。

 第二次世界大戦中、アメリカは戦備を整えるために、兵器開発の効率運営を追求しました。そのために実践された方法が「インダストリアルミュージック」(工業音楽)でした。工場員の作業能率を上げる目的で、アップテンポな音楽をBGMとして活用したのです。その効果により労働生産性は著しく上昇したといわれています。
 https://sound-design.usen.com/feature/office-bgm/office-bgm127.html

 この手法は戦後日本にも入ってきたそうです。

 1960年頃に松下電器(現パナソニック)でBGMと生産性の関連を研究した方の報告がありました。やはり、一定の効果が得られたそうです。

「BGM で生産性があがる ?というむかしの話」
『日本音 響学会誌 63 巻 7 号 』(2007)
   https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasj/63/7/63_KJ00004621130/_pdf

 今回は、思いがけず、「オープニングテーマ」から「インダストリアルミュージック」へと発展してしまいました。

 ちょっとネタ切れを意識していた最近ですが、「オープニングテーマ」なら、以前に「巨人の星」のそれをとり上げましたが、他にもたくさんありそうです(笑)

 

♪ 「椰子の実」~いづれの日にか国に帰らむ

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椰子の實     
 作詞:島崎藤村 作曲:大中寅二
1
名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の實一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月

2
舊(もと)の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ

3
實をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂(うれひ)
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙

思ひやる八重の汐々(しほじほ)
いづれの日にか國に歸らむ

 

歌詞の意味(現代語訳)
1

名前も知らない遠い島から
流れてきた椰子の実が一つ

故郷の岸をはなれて
おまえはいったい何ヶ月の間
波に流されてきたのか

2

椰子の実が成っていた元の木は
今も生いしげっているのだろうか

枝は今もなお
影をつくっているのだろうか

わたしもまた 波の音を枕に
一人寂しく旅している

3

椰子の実を胸に当てれば
さまよい歩く旅の憂いが身に染みる

海に沈む夕日を見れば
故郷を思い あふれ落ちる涙

遠い旅路に思いを馳せる
いつの日か故郷に帰ろう

(「世界の民謡・童謡」ホームページ)

 

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「椰子の実」歌碑:愛知県田原市日出町

 

 島崎藤村明治34年の昔出した詩集『落梅集』の中に載っている詩に大中寅二が国民歌謡の一曲として新たに作曲したもの。 国民歌謡のうちの最も広く愛され歌われた曲をこの曲と見ることに異存はないであろう。昭和11年7月13日から1週間東海林太郎によってJOAKで放送された*のがはじめで、以後、8月3日から二葉あき子により、11月9日から多田不二子により、12月9日から柴田秀子により放送された。(中略)レコードでは11年11月、ポリドールから東海林太郎が吹き込んで売り出された。(中略)今、伊良湖岬には、この詩の詩碑がある。(金田一春彦安西愛子編『日本の唱歌[中](大正・昭和篇)』講談社文庫、昭和54年7月15日第1刷発行)

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*NHKアーカイブズ「NHK放送史」に映像があります。
 https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060039_00000

 好きな日本歌曲はたくさんありますが、その中でベスト5に入ると言ってもいいのが、この「椰子の実」です。
 実際に歌ったのは、林光編曲の混声合唱組曲「日本抒情歌曲集」でした。独唱となると、いきなり1、2小節目から音程の跳躍があって結構難しい曲ではないかと思います。

 今回は、詩の締めくくりのフレーズ、いづれの日にか國に歸らむ」の意味を取り上げました。
 明治の文語詩ですから、見慣れない言葉も多く、少しは文語文法や古語の知識もないと正確な理解は得られないかと思います。
 とりわけ、いづれの日にか國に歸らむ」の解釈については、「yahoo知恵袋」にも質問がありましたが、ネット上で得られた訳には、「?」と思わせるものがあります。

 それらの解釈は「いつの日か故郷に帰ろう」世界の民謡・童謡」ホームページ)としています。
 NHKさんの教材用のホームページも同様です。

椰子の実が流れてきたはるかな潮(しお)の流れを思うと、わが身の人生の遠い道のりも思いやられる。いつの日にかふるさとに帰ろう」。(NHK for school「文語詩:椰子の実・おはなしのくにクラシック 」)
 https://www2.nhk.or.jp/school/movie/outline.cgi?_id=D0005150182_00000

   ここで、気をつけたいのはいづれの日に國に歸ら」、「~か~む(ん)」の係り結びです。
   上のような解釈では係り助詞「か」の働きが無視されており、「む」という助動詞の文法的意味を「意志」としています。
  ここは、やはり次に挙げるようなとりかたをすべきではないでしょうか。
 

いづれの日にか国に帰らむ……「か」は、疑問の意の係助詞。「む」は、推量の助動詞「む」の連体形。「か」の結び。「いつになったら、なつかしい故国に帰ることができるのだろうか」。  「小さな資料室」http://sybrma.sakura.ne.jp/

 
 付け加えて言うならば、「か」には「疑問」+「反語」のような意味合いもあるのではないでしょうか。

    つまり、「いつになったら、なつかしい郷里に帰ることができるのだろうか(いや、帰れないかもしれない)」ということです。

 「故国」というと、「かえり船」ではありませんが、外地にいる日本人が日本の国を思うというような捉え方になる恐れもありますので、ここは「郷里」としました。

 

※何気なく聴いたり歌ったりしている歌詞の中にも、前々からちょっと気になるというフレーズがあります。今回はそんな歌の一つを取り上げてみました。

 

 

♪  台湾老歌「雨夜花」☆聴けば聴くほど懐かしい☆

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(歌:テレサ・テン鄧麗君

こんな記事を見つけました。
https://mochizukisana.com/mere-exposure-effect/ 
 なぜ音楽は聴けば聴くほど好きになるのか? ~単純接触効果~  2020.10.02
音楽は聴けば聴くほど好きになる
先日web記事を読んでいて「単純接触効果」という現象についての文章を見つけました。この「単純接触効果」が原因で、人は「音楽を聴けば聴くほど好きになる」らしいのです。読んでてなかなか面白かったので、今日はその「単純接触効果」についての話。
単純接触効果(mere exposure effect)とは、何かの対象に繰り返し接すると、はじめは興味がなかったり苦手だったものが、接する回数が増えるたびに次第に印象が良くなってくるという効果のこと。
1968年、アメリカの心理学者ロバート・ザイアンスがによって知られるようになった心理学用語です。
ザイアンスの行った実験では、被験者に人物の顔写真を何枚か見せて、その印象を「すごく悪い」から「すごく良い」まで7段階に分けて採点してもらったようです。
実験の結果、同じ人物の写真でも、何回も繰り返し見ていくうちにその人物の印象がだんだん良くなっていくという結果が出たそうです。
「音楽は聴けば聴くほど好きになる」という現象は科学的に実証されているということです。

 上の記事の科学的な実証性について云々する知識はありませんが、こと私の台湾懐メロについては当てはまっているように思います

 2020年5月14日の本ブログで取り上げたのは、台湾老歌(または民謡と表記されることもあるようです)の中でも、今でも絶大な人気があるという「望春風」でした。

 

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 この歌の作曲者・鄧雨賢(1906~1944)には、もう一つよく知られた歌があり、それが今回取り上げた「雨夜花」です。手元にある「世界名歌選集」(ドレミ楽譜出版社には、台湾を代表する曲として掲載されています。

『雨夜花』(うやか、ウーヤーホエ、台湾語白話字:Ú-iā-hoe)または『雨の夜の花』(あめのよのはな)は、1934年に発表された台湾の民謡。作詞者は周添旺、作曲者は鄧雨賢で、日本統治時代の歌手・純々(劉清香)のヒット曲である。現在は台湾語歌謡のうち、『望春風』と並んで最も代表性のある名曲であると言われる。

 この歌の曲はもともと詩人・廖漢臣の童謡・『春』に鄧雨賢が1933年につけたものであるが、この曲を聞いた周添旺は翌年に新しい歌詞をつけた結果、ヒット曲・『雨夜花』が作り上げられた。歌詞は駆け落ちした恋人に振られた後、花柳界に堕ちたある女性の運命を雨の夜の花に喩えたものである。

 1938年に台湾総督府の下で、栗原白也が作詞する軍歌・『誉れの軍夫』(霧島昇歌唱)にも改編された。日本国内でも1942年に、西條八十が作詞する、渡辺はま子が唄う『雨の夜の花』に改編された。

 戦後はテレサ・テン、鳳飛々、胡美芳、夏川りみなどの歌手によりカバーされた。2002年11月29日に、プラシド・ドミンゴが台湾で開催するコンサートで、江蕙と一緒にこの曲を歌った。

また、この曲に大矢弘子が新たに作詞した歌を、こまどり姉妹が「南国哀歌」として1965年に発表している。(Wikipedia

 

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雨夜花 u ia hoe ~雨の夜の花 

(1934年) 周 添旺 詞 鄧 雨賢 曲

   

一、  雨夜花  雨夜花

    雨夜の花 雨夜の花

     siu hong ho chhoe-loh te

     受風雨  吹落地

    風雨に吹かれて地に落ちる

     bo lang khoaN-kiN mi-jit oan-chheh

     無人 看見   暝日 怨嗟

    振り返ってくれる人もなく日夜怨めしい
    hoe sia  loh tho'  put chai hoe

    花謝  落土  不再回

     花は枯れて地に落ち再び返らない

     hoe loh tho' hoe loh tho'

 

二、  花落土  花落土

    花は地に落ち 花は地に落ち

     u siaN lang thang khoaN-ko'

     有誰人   通看顧

    誰が顧みてくれようか

     bo cheng hong-ho' go' gun chian-to'

    無情  風雨    誤阮  前途

    無情な風雨が私の前途を誤らせる

     hoe-lui tiau-loh beh ju ho

     花蕊  凋落  欲如何

    花が枯れ落ちるのをどうすればいい

     ho' bo cheng ho' bo cheng

 

三、  雨無情   雨無情

   雨は無情 雨は無情
   bo siuN gun e chian-teng

   無想  阮的 前程

   私の行く手を思ってはくれない

    peng bo khoaN-ko' loan-jiok sim-seng

   並無 看顧   軟弱 心性

   もろくなった心も顧みてくれない
   ho' gun chian-to' sit kong-beng

   乎阮  前途 失光明

   私は前途の光を失った

   ho'-chui tih ho'-chui tih

 

四、 雨水滴  雨水滴

   雨水が滴る 雨水が滴る
   in gun jip-siu lan ti

   引阮 入受 難池

   私を受難の池に誘い込む

   choaN-iuN ho' gun li hioh li ki

   怎樣 乎阮   離葉 離枝

   なぜ私を葉や枝から離すのか
   eng-oan bo lang thang khoaN-kiN

   永遠 無人  通看見

   永遠に振り返ってくれる人はいない

 

 

雨の夜の花 (日本語) 西条八十 訳詞


一、雨の降る夜に咲いてる花は 
   濡れて揺られて ほろほろ落ちる

二、紅がにじんで 紫ぬれて
   風のまにまに ほろほろ落ちる

三、明日はこの雨 やむかもしれぬ
   散るをいそぐな 可愛い花よ

四、雨に咲く花 しんからいとし
  君を待つ夜を ほろほろ落ちる

 

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 さすがは天才詩人・西条八十さんですね。

 それに引き比べ、下の歌詞はWikipediaには「改編」とありますが、いくら軍の命令とは言え、とんでもない「改悪」でしょう。

 

 作曲者が、こうした無謀に対して心を痛め、死期を早めたのではないかと思われます。

誉れの軍夫 (時局歌)  栗原白也   詞

一、赤い襷に 誉れの軍夫
   うれし僕等は 日本の男

二、君にささげた 男の命
   何で惜しかろ 御国の為に

三、進む敵陣 ひらめく御旗
   運べ弾丸 続けよ戦友(とも)よく

四、寒い露営の 夜は更けわたり
   夢に通うは 可愛い坊や

五、花と散るなら 桜の花よ
   父は召されて 誉れの軍夫

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 YouTubeでは、同じ動画を視聴していると、「あなたへのおすすめ」という形で、類似した動画が紹介されます。ソロから合唱、オーケストラなどと様々なバージョンがあるということは、いかにこれらの老歌(懐メロ)が今でも支持されているかということの証拠となるでしょう。

 

■ そもそも、なぜ「聴けば聴くほど懐かしい」のでしょうか?

 隣町の日帰り温泉につかりながら考えてみましたが、よくわかりません。

 一晩寝て、ネット上に手がかりを求めていたところ、次のような記事に出会いました。

NHK国際報道2021
2020年10月7日(水)掲載

名曲に探る台湾のアイデンティティ
  研究者も注目!日本が統治していた時代の台湾音楽
林さんが注目してきた日本の統治時代の台湾の音楽。最近になって掘り起こされる資料も少なくなく、台湾の流行歌がどのようにして作られていたのか、2000年以降から現在にかけて、研究者の間でも調査も進められています。この分野で、約20年間、研究に携わってきた奈良教育大学音楽教育講座教授の劉麟玉さんによると、日本と台湾の人たちが協力をしながらレコードを作っていたことが具体的に分かってきたといいます。

奈良教育大学音楽教育講座教授の劉麟玉さん
「1930年代、台湾で発売されていたレコードの多くは、日本資本のレコード会社が発行したものです。当時、日本のレコード会社は日本のレコードをそのまま台湾で売るのではなく、台湾の人たちと一緒に台湾向けのレコードを作っていました。実際に、台湾の歌手や演奏家が東京の日比谷のスタジオまで出張し、レコーディングしていた記録が残されています」
 https://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/archive/2020/10/1007_1.html

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 上の記事を下に、想像を多分に交えて言うならば、日本統治下の台湾で作られた、今の「懐メロ」には日本人の好み(レコード会社の制作者など)が反映されているのではないでしょうか。

 特に、二大名曲の作曲者・鄧雨賢は日本の音楽学校に留学した経験もありますし、台湾で受けた音楽教育でも、日本人教師から指導されたことがあったかもしれません。

 

 日本の懐メロが好きな者にとって、戦前の台湾の歌に何となく懐かしいものを感じ取ってしまうというのは、歴史的なとらえかたをすると、むしろ当たり前のことだったのですね。

♪ 「かえり船」ーバタ臭い「バタヤンソング」ー

 かえり船/田端 義夫 - YouTube

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2020/7/6の「鉾をおさめて」の記事で取り上げたヴィタリ・ユシュマノフの2枚目のCDを買いました。

 「夢」探しながら-日本名歌集2-

【収録曲】
ふるさと  

花  

箱根八里

富士山見たら
富士の山  

鯉のぼり  

早春賦  

夏の思い出
ちいさい秋みつけた  

雪の降るまちを  

別れ船

かえり船  

赤とんぼ  

夕焼小焼  

月の沙漠
長崎の鐘  

上を向いて歩こう  

いつでも夢を
愛燦燦  

川の流れのように

昨夜の 夕食後、焼酎のお湯割りで「いい気分」になり、テレビでYouTubeの「スーパーはくと・前面展望」を見ながら、上の曲を順に聴いていました。
今回、意外だったのは、彼が田端義夫の「別れ船」と「かえり船」を歌っていることでした。いわゆる日本名歌とか童謡・唱歌、それにクラシックの歌手も歌っているような歌謡曲なら分かるのですが・・・。
おそらく、日本人のクラッシック系歌手でも歌った人はないだろうと思います。

ピアノ伴奏の塚田佳男さんが、こんな解説を書いておられます。

続く二曲はなんとも思いがけない選曲であるが、これは先刻ヴィタリが上梓した書籍の共著者である戸ノ下達也氏からの勧めだったという。(中略)クラシック歌手はまず歌うことのない「なつメロ中のなつメロ」であるこの二曲をヴィタリらが選んでくれたのはなんともうれしい限りである。(中略)
二曲ともヴィタリの歌い方には、どこか無頼派的でアウトローな男の哀しみがにじみ出ている。加えてサビの部分の、思いの丈をぶっつけるような哀切な叫び!この若きロシア人のヴィタリは、なぜ日本のこんな時代の歌をこんな風に歌えるのだろう・・・・・ふと涙ぐんでしまう私である。

著作権の関係で、このブログで音声を貼り付けて聴いていただけないのが、残念です。

田端 義夫(たばた よしお、1919年(大正8年)1月1日 - 2013年(平成25年)4月25日)は、日本の歌手、ギタリスト。本名は田畑 義夫(読み同じ)[1]。第二次世界大戦前から21世紀初頭まで現役歌手として活躍した。愛称はバタヤン。水平に構えて持つ、アメリカのナショナル・ギター社製エレキギターと威勢のよい挨拶がトレードマークであった。
代表曲​
「島の船唄」(昭和13年)[清水みのる作詞、倉若晴生作曲]
大利根月夜」(昭和14年)[藤田まさと作詞、長津義司作曲]
「別れ船」(昭和15年)[清水みのる作詞、倉若晴生作曲]
「梅と兵隊」(昭和16年)[南条歌美作詞、倉若晴生作曲]
「かえり船」(昭和21年)[清水みのる作詞、倉若晴生作曲]
「ズンドコ節(街の伊達男)」(昭和22年)[佐々木英之助作詞、能代八郎作曲]
玄海ブルース」(昭和24年)[大高ひさを作詞、長津義司作曲]
「ふるさとの燈台」(昭和24年)[清水みのる作詞、倉若晴生作曲]
玄海エレジー」(昭和26年)[大高ひさを作詞、長津義司作曲]
「十九の春」(昭和50年)[沖縄民謡](Wikipedia

 

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「かえり船」

作詞:清水みのる、作曲:倉若晴生、唄:田端義夫   昭和21年(1946)

1 波の背の背に 揺られて揺れて
  月の潮路の かえり船
  霞む故国よ 小島の沖じゃ
  夢もわびしく よみがえる

2 捨てた未練が 未練となって
  今も昔の せつなさよ
  瞼(まぶた)あわせりゃ 瞼ににじむ
  霧の波止場の 銅鑼(ドラ)の音

3 熱いなみだも 故国に着けば
  うれし涙と 変わるだろう
  鴎ゆくなら 男のこころ
  せめてあの娘(こ)に つたえてよ

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さて、「思い出」も少し書いておきたいと思います。
20代の前半の頃は、まだレコード全盛の時代。

同時代に流行している歌謡曲もたまに歌ったりしてはいたのですが、(例えば、細川たかし「心のこり」渥美二郎「夢追い酒」など)、その一方で、自分が生まれる5年も10年も前の流行歌も、気に入ったものはよく口ずさんでいました。

具体的に何年とは特定できませんが、初任の地・伊丹にいた頃ですから、昭和53から57年(1978~1982)のことになります。
当時、伊丹混声合唱団でコーラスをやっているということで、(コーラス部の顧問もしていました😀)忘年会などで、指名されて歌わされることがありましたが、あるとき、何を思ったか、この「かえり船」を熱唱(?)した記憶があります。
自分の親ぐらいの先輩教員・世界史のK氏(大学の先輩で色々ご指導いただきました。ご存命なら90歳ぐらいでしょうか)から、広島なまりで「若いのに、ようこんな古い歌知っとるな!」と云われたのも鮮明に覚えています。

昨夜、ヴィタリの歌を聴きながら、そんな40年ほど前のことがふと思い出されてきました。

※今日は、別の調べ事で図書館へ行き、参考資料室にあった「日本流行歌史」という本をパラパラめくっていると、この「かえり船」の説明があり、「引き揚げソング」というジャンルに属すとありました。初めて知った言葉でした。

 たぶん、今夜もこのCDを聴くことことになると思います!!

♪ 唱歌「灯台守」

~灯台守~NHK東京児童合唱団 - YouTube

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作詞:勝承夫

1
こおれる月かげ 空にさえて
ま冬のあら波 寄する小島(おじま)
思えよ灯台 守る人の
尊きやさしき 愛の心
2
はげしき雨風 北の海に
山なす荒波 たけりくるう
その夜も灯台 守る人の
尊きまことよ 海を照らす

1947年(昭和22年)、文部省発行の教科書「5年生の音楽」に掲載

灯台守の歌が2週続きます。

言うまでもなく、「喜びも悲しみも幾年月」からの単純な連想です。これという思い出があるわけではありませんが、小学校の高学年で習ったこの歌は結構好きな曲で、YouTubeでよく視聴していました。

すると、歌声サークルの動画が上がっていたりして、やはり中高年には好まれているんだなと再認識した次第です。

 

今回、この歌を取り上げるに際して、いつものようにネット検索から入りますと、上の灯台の画像にある「イギリス民謡」というのは、根拠不明のようです。

灯台守」:勝承夫作詞の学校唱歌。曲はイギリス民謡と言われていたが、「仰げば尊し」がアメリカの曲であることを発見した桜井雅人によって、この曲もアメリカの曲であったことが明らかにされた。
原曲は一般的に「イギリス曲」「イギリス民謡」とされるが、典拠は不明である。

一橋大学教授(後に名誉教授)の櫻井雅人は、ほぼ同じメロディの曲が、1881年にニューヨークで出版された『フランクリン・スクウェア・ソング・コレクション第1集』(Franklin Square Song Collection, No.1)に「The Golden Rule」として収録されていることを突き止めた。同書は作詞・作曲者はともに不明と記している。同書は初出の作品を集めた歌集ではないため他の歌集からの転載と推測されるが、それ以上のことは不明である。(Wikipedia

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「旅泊」その他 : 外国曲からの唱歌四曲
櫻井, 雅人
 2005-09-01
 一橋論叢 Volume 134

初めは、「鉄道唱歌」(汽笛一声新橋を~)で知られる大和田建樹の作詞により、大和田建樹・奥好義編 『明治唱歌第三集』 (明治28年・1895)に掲載されています。

このときは、「旅泊」というタイトルでした。

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 一 礒の火ほそりて 更くる夜半に
  岩うつ 波音 ひとりたかし
  かかれる友舟 ひとり寝たり
  たれにか かたらん 旅の心

 二 月影かくれて からす啼きぬ
  年なす長夜も あけにちかあし
  おきよや舟人 おちの山に
  横雲なびきて 今日も のどか
  (「明治唱歌(三)」明治22.6)

本当に、「こんな難しい歌詞をその頃の小学生は歌ってたの?」と疑いたくなるような歌ですね。特に、「かかれる友舟」とか「おちの山に」が耳慣れない言葉だと思います。

よく考えてみると、明治  20年代に小学校で西洋音楽を教えられる先生はまずいなかったはずで、この歌も実際には歌われてなかったとするのが妥当と思われます。

 

歌詞については、難しいはずです。

こんな論文がありました。

大和田建樹作詞の明治唱歌「旅泊」は、海辺での仮泊の旅愁を歌った名品であるが、曲自体はイギリスの曲と言われている。更にその歌詞は、唐の詩人張継の七言絶句「楓橋夜泊」をそっくり利用している。曲は西洋、歌詞は漢詩の利用、歌うのは日本人。両者の比較を通し切て当時の東洋と西洋との文化の融合蘇州寒山寺を詠んだ張継の「楓橋夜泊」はあまりにも名高い。この詩は中国でも愛唱されたが、現代日本でもNHKの「ゆく年くる年」などで除夜の鐘として放映されて名高く、時代劇の床の間などの掛け軸としてかかっていることも多い。その昔の流行歌「蘇州夜曲」にも「鐘も鳴ります寒山寺」とあった。

楓橋夜泊 張継

月落烏喘霜満天
江風漁火対愁眠
姑蘇城外寒山
夜半鐘声到客船

月落ち烏喘きて霜天に満つ
江風漁火愁眠に対す
姑蘇城外の寒山
夜半の鐘声客船に到る

(中略)

「旅泊」が「楓橋夜泊」を粉本としたことは、一目瞭然である。特に「月影かくれてからす喘きぬ」は「月落鳥喘」をそのまま訓読した感がある。現代の目からみると剰窃のようにも思えるが、明治時代には先行作品を利用することはごく普通に行われていた。歌詞が漢詩をそのまま翻訳しているだけでなく、うたわれている内容も起承転結の展開をしており、絶句の構成そのものである。

丹羽博之:大和田建樹作詞「旅泊」と唐張継「楓橋夜泊」
ー明治唱歌による和洋中文化の融合丹羽博之ー
大手前大学人文科学部論集』巻6、2005年

※現役時代に扱ったことのある教材(漢詩)ですが、仕事を離れて5年も経つとダメですね。明治時代の詩を見ても、全く想像できませんでした。

 

戦後の昭和22年に教科書に載ったときも、今、改めて見ると難しい言葉遣いになっています。

こおれる月かげ   寄する小島(おじま) 山なす荒波 たけりくるう

 

灯台無人化が進み、歌詞の文語調が時代に合わないということで、(いつ頃かは調べられていませんが)教科書から消えたのではないでしょうか。

 

作詞の勝 承夫さんについては、名前の読み方が長らく分かりませんでした。

一時、木山捷平さん関連の本を集めまくっていたことがあり、木山さんに影響を与えた人物ということは知っていたのですが・・・。

(かつ よしお、1902年(明治35年)1月29日 - 1981年(昭和56年)8月3日)は、東京市四谷区(現・東京都新宿区)出身の詩人。元日本音楽著作権協会会長。元東洋大学理事長。

 

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木山さんの師匠である井伏鱒二さんにこんな文章がありました。

その頃、田舎にいた木山君は、東京の若い詩人宵島俊吉にあこがれて、宵島の通学している東洋大学へ入るため上京した。宵島は本名を勝承夫と云い、若い天才詩人と云われて大変な評判であった。今で云えば、三島由紀夫太宰治を一緒にしたような人気があった、

井伏鱒二木山捷平の詩と日記」(『風貌・姿勢』講談社文芸文庫

 

知りませんでしたが、大正の終わりから昭和の初め頃には、人気のある詩人だったのですね。井伏さんの喩えはちょっとオーバーでしょうが(笑)

子どもの頃聞いた歌では、次のような歌の訳詞や作詞をされていました。

「故郷の人々」( フォスター作曲)・・・はるかなるスワニー河、その下(しも)~

「小ぎつね」・・・  小狐(こぎつね) コンコン 山の中 山の中~

「夜汽車」・・・ いつも、 いつも、とおる夜汽車

時代が変わっても、我々世代には、忘れられない歌の一つに違いはありません👌