思い出の中のあの歌この曲

メロディーとともによみがえるあの頃の・・・

♪ 「浜辺の歌」

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恋路ヶ浜(愛知県渥美半島

「浜辺の歌」   作詞:林古渓 作曲:成田為三
1
あした浜辺を さまよえば
昔のことぞ しのばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も 貝の色も
2
ゆうべ浜辺を もとおれば
昔の人ぞ しのばるる
寄する波よ かえす波よ
月の色も 星のかげも

3
はやちたちまち 波を吹き
赤裳(あかも)のすそぞ ぬれひじし
病みし我は すべていえて
浜の真砂(まさご) まなごいまは

 

林 古渓(はやし こけい、1875年〈明治8年〉7月15日 - 1947年〈昭和22年〉2月20日)は歌人、作詞家、漢文学者、立正大学教授、東洋大学講師。本名は竹次郎。東京・神田出身。哲学館(現・東洋大学)卒。

 成田為三

秋田県出身 明治26年(1893年)12月15日生 昭和20年(1945年)10月29日没
「浜辺の歌」「かなりや」「雨」などの作品で知られる作曲家。秋田県北秋田郡森吉町に生まれる。
 1914(大正3)年、上野音楽学校に入学し作曲を学ぶ。その当時に作られ、のちに彼の代表的な1曲となる作品が「浜辺の歌」である。同校卒業後、白秋ら雑誌『赤い鳥』の主要メンバーと交流がはじまり、「かなりや」「赤い鳥 小鳥」などの作品を残した。
その後ドイツに留学、帰国後は国立音楽学校や東洋音楽学校で教鞭をとった。著書に『作曲の基礎』『楽器編成法』などがある。

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「浜辺の歌」を聴いたことのない人は、まずいないのではないでしょうか。
私もたぶん小学生の頃から聴き知ってはいますが、長じて合唱をやるようになり、日本歌曲への関心を持つようになると、普段あまり歌われない3番の歌詞が気になるようになりました。

1番、2番もそれなりに難しい歌詞ではあります。
若い人たちに限らず、多くの人にとっては、例えば「もとおれば」(もとほる)は高校時代に古文でも習ったことがない言葉だと思われます。
まあ、普通は1番で「あした(朝)~さまよえば」とあるので、「夕べ(夕方)~歩き回る」ぐらいは推測できるでしょうが・・・。
YouTubeなどでいろんな歌唱を聴いていると、「もとおれば」ではなく「もとほれば」とそのまま歌っているのがあって、古文で言う「ハ行転呼音」(歴史的仮名遣いにおいて、語中・語尾のハ行の仮名がその本来の発音から転じてワ行音に発音されること)を知らないのか、お粗末!と思ってしまいます。

 

さて、問題の3番の歌詞ですが、いくつかこの難解な歌詞について解説しているサイトを見たところ、次のような解説が最も説得力があるようです。

「二木紘三のうた物語」    http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/01/post_e4b4.html

鮎川哲也編『唱歌のふるさと 旅愁』(音楽之友社 平成5年〈1993〉)に古渓の子息・林大へのインタビュー記事が載っています。そこで彼はこう語っています。

「(初出雑誌に発表されたとき)歌詞の三番の前半と四番がくっつけられていまして、これでは意味がとおらん、とおやじは言っていました。後にセノオ楽譜から出版されたのですが、版権なんかは無視された時代ですから、おやじのもとには連絡もきません。いつだったかおやじに、思い出したらどうかと言いましたら、忘れちゃったよ、という返事でしたがね」

実際、3番を見ると、前2行と後2行の内容には飛躍があり、不自然な感じがします。
もう1つの問題は、最後の行で「真砂(マナゴ) まなご」と同語を繰り返していることです。ここでトートロジー(同語反復)を使う必然性はまったくないし、それを使うことによって、1番・2番との修辞上の整合性がくずれています。明らかに編集者の誤記です。

このように、作者に断りもなく詩や文章を改編してしまうことは、現代ではほとんど考えられません。当時の著作権意識の希薄さがうかがい知れます。
また、学友会誌というアマチュア雑誌だったこともあって、校閲作業もほとんど行われなかったと思われます。

歌詞を現代語訳したものの中には次のような例もあります。

3番
 急に突風が吹いて波を吹きあげ
私の着物の赤いすそはびっしゃりとぬれてしまった
大病を患った私は 今はもうよくなったけれど あの子は今はいない
浜辺の小さな砂 私の小さなあの子は元気でいるのかしら 会いたい・・
 http://wwwb.pikara.ne.jp/cosmoon/hamabenouta.html

 

また、専門書にも次のような解説があります。

 「まなご。まさご」は、細かい砂のことで、永遠に絶えないもののたとえとしても用いられます。ここは、「自分は、これから先ずっと、昔の恋、昔の恋人を思いつつ、この浜辺の、寄せては返す波にさまよう砂のように、ここにさまよい続けるだろう」とうたっているのです。
 『日本名歌曲百選 詩の分析と解釈』(畑中良輔監修・黒沢弘光解説、1998年、音楽之友社、54ページ)

たしかにロマンチックな解釈ではありますが、元々のこの歌の成立の経緯を知ると、「ウーン、ちょっと無理があるかな!」と思ってしまいます。

 

まあ、そんなこともあって、普通は三番は歌われないのですね。

 

※日本歌曲を歌っているソプラノ歌手というと、YouTubeなんかではMMさんの動画が結構アップされているようです。

正直に言わせてもらうと、私にはあの方の「粘っこい」日本語の発音が気になって、あまり聴く気にはなりません。外国の歌曲、オペラなどで本領を発揮される方だと思っています。

その点、若い頃ファンクラブにも入っていた鮫島有美子さんの歌唱は、「柔らかくて」「あっさり」していて、それなのに「深み」のあるところが素晴らしいですね!!

♪ 「南国情話」

https://www.youtube.com/watch?v=vnRZ-YD6GvY

 

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「南国情話」  (若山彰・能沢佳子)
作詩:石本美由起 作曲:三界 稔
一、
 岬の風に 泣いて散る 浜木綿悲し 恋の花 薩摩娘は 長崎鼻の 海を眺めて 君慕う
 二、
 開聞岳の 山の巣に 日暮れは鳥も 帰るのに 君は船乗り 竹島遥か 今日も帰らず 夜が来る
三、
 悲しい恋の 舟歌を 歌うて一人 波枕 あの娘思えば 男のくせに 握る櫓綱(ろづな)も ままならぬ
四、
 逢えない人を 慕わせる 今宵の月の 冷たさよ 可愛いあの娘も 長崎鼻で 一人眺めて 泣くだろう

 

 

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何年ほど前になるでしょうか、年末(たぶん大晦日)にNHKの鹿児島放送局から中継していた音楽の特集番組をたまたま観ていたことがありました。
鹿児島は、高校二年の修学旅行、初任校時代の友達の結婚式、そして28年目の新婚旅行と三度にわたって訪れた土地です。
そういうこともあって、大晦日の忙しいときなのに、つい観入ってしまったものと思います。
その番組の中で、オーケストラと合唱による演奏があり、メロディーラインがすばらしく印象的であったために、すぐさま曲名を調べ、amazonでCDを注文しました。
それが、この「南国情話」だったのです。
CDは大手のお店ではなく、たしか鹿児島のショップから送られてきました。

 

特に頭から離れなかったフレーズは「薩摩娘は 長崎鼻の」の部分で、編曲もよかったのでしょうが、忘れられない旋律の一つとなりました。

この歌が紹介される際に、鹿児島民謡という前置きがついていることがあります。たしかに鹿児島県には違いないのですが、正確には奄美民謡」というべきでしょうか。
作曲の三界稔氏については、あの「島育ち」が有名で、子どもの頃バタヤンこと田端義夫さんの歌をよく聴いたものでした。

1901-1961 昭和時代の作曲家。
明治34年2月10日生まれ。昭和9年ポリドールの専属となる。13年「上海(シヤンハイ)だより」が上原敏(びん)の歌でヒット。戦後は郷里鹿児島県奄美(あまみ)大島をテーマとした田端義夫歌唱の「島育ち」などを作曲した。昭和36年6月13日死去。60歳。東洋音楽学校(現東京音大)卒。本名は実友(さねとも)。

レコードは若山彰・能沢佳子」のデュエットで発売され、昭和40年代の初めから50年代前半にかけて、指宿駅に新婚客を乗せた列車が着くたびに、次の曲が流れ歓迎していたそうです。
また、観光名所の長崎鼻では、四六時中この歌が大きな音で流され、初めて訪れた観光客が苦笑するほどであったとも。
私も、昭和47年(1972)秋の修学旅行では立ち寄ったとは思うのですが、すっかり忘却の彼方です。
今回、この歌を取り上げるに当たって、例によってネットで色々と見ているうちに、次のようなブログ(冒頭にリンク)に遭遇しました。
なんと筆者は私の高校の先輩(11歳上になりますか)!
この「南国情話」がきっかけで船乗りをめざし、それが実現したと書いておられます。

「南国情話」
 この歌は昭和36年(1961年)、兵庫県立小野高等学校の修学旅行で宮崎と鹿児島へ行きました。その時、地元のバスガイドさんが歌ってくれた歌です。彼女は宮崎交通のバスガイドさんで、年の頃は二十代前半、十七才の高校生には魅力的な年上のお姉さんでした。この歌を何度も歌って貰い歌詞もメロディーも覚えてしまいました。
 この歌の「竹島遥か(鹿児島県三島村竹島)」へ行きたいと思いその後、船乗りになってしまった思い出の曲です。この時もそうですが、自身の進路など重要な事柄を些細なことで決めてきた気がします。特に恋がそうです。これは年齢とは全く関係ありません。南国情話が筆者を船乗りにさせました。歌が人生を決定することもあるのです。
(筆者)「竹島遥か(鹿児島県三島村竹島)」の海図で地中海への船旅が出来ます。
 船はマラッカ海峡からインド洋へ、そして紅海からスエズ運河を通り地中海へ行きます。船が九州を離れる時、見送ってくれ、また帰って来た時、最初に迎えてくれるのが開聞岳(薩摩富士)なのです。

ブログ「万葉ジョーク」

 ちなみに、上のレコードで歌っている若山彰さんは映画「喜びも悲しみも幾歳月」の主題歌「おいら岬の灯台守は・・・」でよく知られている歌手ですが、私の大学の大先輩になります。(広島文理科大学卒業、その後武蔵野音大で声楽を学ぶ)
 

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その後、YouTubeをよく視聴するようになって、この「南国情話」をこまどり姉妹も歌っていることを知りました。
元の歌(昭和29年・1954)から10年後くらい後のことで、歌詞は下記のように変わり、舞台も薩摩半島から大隅半島佐多岬と移っています。
「漁師と娘の悲恋」を歌ったこの歌の内容からは、若山彰さんの朗々とした歌い方もたしかによろしいのですが、こまどりさんの哀愁を帯びた歌声も捨てがたいですね!!

作詩:石本美由起 作曲:三界 稔

  1 逢えなくなればなおさらに  逢いたさばかり増すという
      恋は心の灯台あかり    燃えて別れた人を呼ぶ

  2 南の風に泣いて散る 浜木綿悲し佐多岬
   おごじょ哀しや黒潮むせぶ 海を見つめて君を待つ

  3 開聞岳の夕映えは 誰ゆえ赤く燃えるやら
   君は舟人屋久島はるか 今日も帰らず夜が来る

  

♪ 「小樽のひとよ」(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)

 https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E5%B0%8F%E6%A8%BD%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%82%88&ei=UTF-8

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作詞:池田充男、作曲:鶴岡雅義
唄:三条正人〈東京ロマンチカ〉  昭和42年(1967)9月


1 逢いたい気持ちが ままならぬ
  北国の街は つめたく遠い
  粉雪まい散る 小樽の駅に
  ああ ひとり残して 来たけれど
  忘れはしない 愛する人

2 二人で歩いた 塩谷(しおや)の浜辺
  偲(しの)べば懐かし 古代の文字よ
  悲しい別れを ふたりで泣いた
  ああ 白い小指の つめたさが
  この手の中に いまでも残る

3 小樽は寒かろ 東京も
  こんなにしばれる 星空だから
  語り明かした 吹雪の夜を
  ああ 思い出してる 僕だから
  かならずいくよ 待ってておくれ
  待ってておくれ

 

前回は、小学生の心を捉えた歌謡浪曲の名曲を紹介しましたが、今回は小学校の終わりあたりから中学生にかけて(昭和42、3年頃)に流行したムード歌謡の1曲を取り上げました。
その頃、巷ではグループサウンズの爆発的流行がありました。若い人たちは、もちろんそちらになびいたわけですが、もう少し大人の年代が好んだのが、このムード歌謡というジャンルだったように思います。

 

鶴岡雅義と東京ロマンチカ、内山田 洋とクール・ファイブ、和田 弘とマヒナスターズ、
 敏いとうとハッピー&ブルー、黒沢 明とロス・プリモスなどが、今でも記憶に残るグループ名です。

そんな中で、後によく宴席やスナック(懐かしい響き!)カラオケでよく歌ったのが、この「小樽のひとよ」でした。

「小樽のひとよ」(おたるのひとよ)は、鶴岡雅義と東京ロマンチカの楽曲で、デビューシングルである。1967年9月25日に発売。累計売上は150万枚を超えた
 作詞は池田充男、作曲はリーダーの鶴岡雅義である。北海道・小樽のご当地ソングでもある。ボーカルは三条正人であった。オリコンチャートにおいては、1968年5月にトップ10に初登場した。

 歌詞にストーリー性があると思っていたら、やはり「曲は公演先の釧路で地元の女性と恋仲となった鶴岡雅義東京ロマンチカメンバーの実体験を元に鶴岡がまず曲を書き」ということがあったみたいですね。
随所に地名などを織り込んだのは、小樽市サイドから「もっと観光PRを」との要請を受けたことがあったとか。

 

この歌は、もちろん歌詞、旋律ともに魅力的なのですが、髭のリーダー鶴岡雅義さんが弾くレキント・ギターの澄んだ音色が一度聴いたら忘れられない響きでした。
また、三条正人さんの美声(後年、ちょっと喉を痛められたのか苦しそうでしたが)のファルセットも印象的でしたね。

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今改めて、楽譜を見ると歌い出しの「A」(低いラ)から最高音は「F」(高いファ)まで、甘い旋律ではありますが、歌いこなすには結構難しい形になっています。
1オクターブの(逢いたいきもちが ままならぬ)跳躍も練習が要りますし・・・

 

今の若い人には、どう思われるか分かりませんが、今聴いても50年以上前の歌という古くさい感じはしません。このジャンルの中で有数の、後世に歌い継がれる名曲ではないでしょうか。


 

♪ 長編歌謡浪曲「元禄名槍譜 俵星玄蕃」

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※このレコード家にあったような・・・

小学校3、4年生の頃から、歌謡曲に興味を持ち始めたことを、前々回に書きました。
「東京の灯よいつまでも」もその年代の子供には、ちょっと似合わない感じがしますが、もっと似合わない曲がありました。
それは、三波春夫さんが、前の東京オリンピックの年、昭和39年(1964)年に年末の紅白でも歌った俵星玄蕃でした。

 

この歌は、歌謡浪曲というジャンルに入るんだそうですが、明治37年生まれで若い頃から浪曲好きの祖父が、好んでテレビで視聴していました。
三世代が一家に一台のテレビを囲んでという時代で、もちろんチャンネル選択権は、家長にありましたから、ついつい孫も影響を受けてしまったのでしょう。

 

長編歌謡浪曲「元禄名槍譜 俵星玄蕃
  作詞:北村桃児  作曲:長津義司

槍は錆びても 此の名は錆びぬ
男玄蕃の 心意気
赤穂浪士の かげとなり
尽す誠は 槍一筋に
香る誉れの 元禄桜

姿そば屋に やつしてまでも
忍ぶ杉野よ せつなかろ
今宵名残りに 見ておけよ
俵くずしの 極意の一手
これがはなむけ 男の心

涙をためて振り返える
そば屋の姿を呼びとめて
せめて名前を聞かせろよと 
口まで出たがそうじゃない

云わぬが花よ人生は 
逢うて別れるさだめとか
思い直して俵星
独りしみじみ呑みながら

時を過した真夜中に 
心隅田の川風を
流れてひびく勇ましさ
 
 一打ち二打ち三流れ
あれは確かに
確かにあれは
山鹿流儀の陣太鼓

時に元禄十五年十二月十四日
江戸の夜風をふるわせて
響くは山鹿流儀の陣太鼓
しかも一打ち二打ち三流れ

思わずハッと立上り
耳を澄ませて太鼓を数え
「おう、まさしく
赤穂浪士の討ち入りじゃ」

助太刀するは此の時ぞ、
もしやその中に
昼間別れたあのそば屋が
居りわせぬか

名前はなんと今一度
逢うて別れが告げたいものと、
けいこ襦袢(じゅばん)に身を固め、

段小倉(だんこくら)の袴
股立ち高く取り上げて
白綾(しらあや)畳んで後ろ鉢巻
眼(め)のつる如く

なげしに架かるは先祖伝来、
俵弾正鍛えたる
九尺の手槍を右の手に

切戸を開けて一足表に踏み出せば
天は幽暗(ゆうあん)
地は凱々(がいがい)たる
白雪(しらゆき)を
蹴立てて行手は松坂町

吉良の屋敷に来て見れば
今、討ち入りは真最中

総大将の内蔵之助
見つけて駆け寄る俵星が
天下無双のこの槍で
お助太刀をば致そうぞ

云われた時に大石は
深き御恩はこの通り
厚く御礼を申します

されども此処は此のままに
槍を納めてお引上げ
下さるならば有難し

かかる折しも一人の浪士が
雪をけたてて
サク、サク、サク、サク、サク、サク、

「先生」
「おうッ、そば屋か」

いや、いや、いや、いや
襟に書かれた名前こそ
まことは杉野の十兵次殿
わしが教えたあの極意

命惜しむな名をこそ惜しめ
立派な働き祈りますぞよ

さらばさらばと右左
赤穂浪士に邪魔する奴は
何人たりとも通さんぞ

橋のたもとで石突き突いて
槍の玄蕃は仁王立ち

打てや響けや 山鹿の太鼓
月も夜空に 冴え渡る
夢と聞きつつ 両国の
橋のたもとで 雪ふみしめた
槍に玄蕃の 涙が光る
 

俵星玄蕃が架空の人物と知ったのは、後に成人したからのことでしたが、小学生の頃から子供向けの赤穂義士とか勝海舟とかいう歴史物の本や伝記などを読んでいたので、こういう内容の曲に親しみを感じていたのかもしれません。

 

しかし、何よりも子供心に印象深かったのは、三波春夫さんの美声もさることながら、途中のセリフ(「時に元禄一五年十二月の十四日~」※上の歌詞では赤字で表記)の部分
でした!

覚えようと試みましたが、なかなか言葉が難しくて・・・

 

中でも、「雪を蹴立てて さく、さく、さく、さく、さく、さく」
のくだりと、「先生」「おうっ、そば屋か!」の箇所は、まさに三波春夫さんの真骨頂ともいうべきものでしたね。

 

長いこの曲は、「歌謡曲の部分」、「浪曲で啖呵というセリフの部分」、「浪曲のフシの部分」という構成になっているそうです。
「歌謡曲の部分」はなんとか歌えても、それ以外の部分は相当なのど自慢でも歌いこなすのは難しいことでしょう。

(この曲をカバーしている歌手を見ると、島津亜矢さんとか、三山ひろしさんとか、やはり歌唱力に定評のある歌い手ですね)

大人になってから聞いても、ストーリー性があるので、難解な言葉は意味不明なままではありますが、ついつい引き込まれてしまい、曲の長さ(8~9分とか)も気にならないほどです。

毎年、年末に義士祭が話題になると、この曲が思い出されてきます。

 

今思うと、どうも子どもの頃から、同世代が好んで聞くような歌よりも、大人の歌のほうに関心があったみたいで、基本的にはその後数十年変わってないようです(😀)

 

そうそう、忘れていました。私の好きな落語家の一人。落語協会会長の柳亭市馬師匠が余興でたまにこの歌を唄っています。

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♪ 「双頭の鷲の旗の下に」(J.F.ワーグナー)

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前回は、小学3年生の頃に「東京の灯よいつまでも」が好きになって、歌に興味をもつようになったいきさつを書きました。

小学5年生になった頃(だと思うのですが)、今度は器楽合奏のメンバーに入って(入るように言われて)、ハーモニカを吹くようになりました。昭和41年(1966)の話です。

この器楽合奏はいわゆるクラブ活動で、5、6年生の寄せ集めだったと思うのですが、他にどんなメンバーがいて、そもそも指導の先生が誰だったのか・・・、残念ながら忘却の彼方です

そんなあやふやな記憶の中で、練習した曲目だけは、不思議と覚えています。
当時、器楽合奏の定番であった『双頭の鷲の旗の下に』ドナウ川のさざなみ』でした。特に、前者の場合、出だしが派手で子供心にインパクトのある曲でした。

まだ、体育館がなくて、普通教室3つぐらいの広さの講堂だったか(音楽室だったか?)で行われた音楽会で発表したように思います。

 

※写真はイメージです もっと編成も大きく人数も多かったですね。昭和40年頃は、まだ白黒写真でした(^0^;)

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『双頭の鷲の旗の下に』(そうとうのわしのはたのもとに、ドイツ語: Unter dem Doppeladler、英語: Under the Double Eagle)作品159は、ヨーゼフ・フランツ・ワーグナー1880年代(1902年という説も)に作曲した行進曲。『双頭の鷲の下に』と呼ばれることもある。

明快かつリズミカルな曲調でワーグナーが当時オーストリア=ハンガリー帝国の軍楽隊長であった時期に作曲したものであり、曲名にある「双頭の鷲」は同国のシンボルである。日本では運動会などの行進曲としてよく用いられる。 (Wikipedia

 

今、ネットで調べると小学校の器楽合奏はだいたい以下のような編成になっているようです。
 主な使用楽器:鍵盤ハーモニカ、グロッケン(鉄琴)、ビブラフォーン(鉄琴)、マリンバ(木琴)、シンセサイザー(電子オルガン)、 ベース(低音楽器)、スネアドラム(小太鼓)、バスドラム(大太鼓)、パーカッション、ティンパニー等 

 

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私たちの世代で、しかも田舎の学校ですから、主力の鍵盤ハーモニカ※はまだ登場しておらず、かわりにハーモニカが中心的な楽器でした。

※長らく「ピアニカ」と思い込んでいましたが、それは商品名でした😀

 

昭和40年頃でも、クラスに数名の女子はピアノを習っていました。(田舎の学校ではありましたが、町の中心部にあり、商店主、教員、サラリーマンの子供も多く、余裕のある家庭ではピアノを習わせていました)
そうした音楽的な訓練を経験している女子がオルガンアコーディオン、または木琴などをやっていました。
私たち男子の多くは、「その他大勢の中」でしたが、一応楽譜が読める(?)というのでハーモニカがわり当てられたのではなかったでしょうか。

 

高学年になっても、依然として歌のほうはあまり上達しませんでしたが、器楽のほうの評価で(?)通知簿は、少し上がったようです。
(6年生では評価が良かったでしょうか。中学に入ってすぐに後の恩師・音楽のI先生から呼び出しを受けて吹奏楽部に勧誘されたのは、そのことがあったからだと思われます。)

♪ 「東京の灯よいつまでも」(新川二郎)

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小学校に入った頃、歌が苦手でした。いわゆる音痴というやつでした。
音楽の時間に歌のテストがあり、自分の番が近づくと、心臓が口から飛び出しそうになるほどの緊張を覚えたものでした。
ただ、聴く方は学年が進むとともに興味を覚え始めていました。
昭和30年代の終わり頃、三波春夫東京五輪音頭」がテレビ、ラジオからさかんに流れるようになった時期で、今とは違い、テレビでは歌謡番組が盛んでした。

我が家では、明治37年(1904)生まれの祖父が、若い頃は浪曲が好きで、当時すでに大スターだった三波春夫や村田英雄の歌を好んで視聴していたように記憶しています。

(隣家のお爺さんから、私の祖父は小学生の頃、学芸会で独唱するほど歌が上手だった聞いたことがあります)

 

そんな時代に、音痴の私がたぶん初めて口ずさむようになったのは、新川二郎(後に二朗)の「東京の灯よいつまでも」でした。
ちょうど前の東京オリンピックのあった昭和39年(1964)のことで、私は小学3年生になっていました。

 

「東京の灯よいつまでも」
作詞:藤間哲郎、作曲:佐伯としを
昭和39年7月キングレコードより発売


1 雨の外苑 夜霧の日比谷
  今もこの目に やさしく浮かぶ
  君はどうして いるだろか
  ああ 東京の灯よ いつまでも

2 すぐに忘れる 昨日もあろう
  あすを夢みる 昨日もあろう
  若い心の アルバムに
  ああ 東京の灯よ いつまでも

3 花の唇 涙の笑顔
  淡い別れに ことさら泣けた
  いとし羽田の あのロビー
  ああ 東京の灯よ いつまでも

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60年代のレコードプレーヤー(もちろんモノラル)

新川 二朗(しんかわ じろう、1939年11月2日 - )は、日本の演歌歌手。旧芸名は新川二郎
経歴
石川県羽咋郡志雄町(現在の宝達志水町)出身。
金沢ヘルスセンターで歌っているところを、村田英雄にスカウトされ、1962年にキングレコードから『君を慕いて』でデビュー。
1964年、『東京の灯(ひ)よ いつまでも』が大ヒット(年末までに50万枚を越える売上し、当時では破格の400万円の年収を上げた。 また、この曲で同年の「第15回NHK紅白歌合戦」に初出場した。
2017年現在、石川県出身では唯一の紅白出場歌手である。その後は地方のステージをこなすなどし、現在も所々で懐メロ番組に出演している。
2014年1月26日放映の「BS日本のうた」(NHK BSプレミアム)に出演

Wikipedia

ジャンルは青春歌謡ということになるのでしょうか。
小学3年生に、正確な歌詞の意味、地名、背景など分かるはずもなく、ただ、新川さんの独特の鼻にかかった、あの歌い方を真似て風呂場などで歌っていました。

 

ネットで検索していて、こんな文章に出会いました。

 東京オリンピック直前に発売されて大ヒットしました。
東京との別れですが、その夜景、心に残るその「灯」を「いつまでも」永遠なれ、と歌った名曲。逆説的な東京讃歌とします。
 「雨の外苑 夜霧の日比谷」――風景は雨と霧にしっとり濡れています。羽田空港も別れの涙で濡れています。歌詞にも曲調にもやわらかな情感が流れます。
 東京との別れに恋人との別れを重ねるのですが、思い出の場所は銀座や新宿といった盛り場ではありません。だからその別れさえも「淡い別れ」。濃厚な油絵ではなく、パステル画のような淡い色調で描かれた淡い恋。しかし、「ことさら」泣けるほどに思いは深い。情感を抑えたこの淡さが青春歌謡の抒情です。
 新川二郎の少し田舎なまりを感じさせる演歌風の素朴さもかえってよかった。あんまり都会風に「小粋に」「ハイカラに」歌われるとこの清純な印象が損なわれてしまったでしょう。

ブログ「遊星王子の青春歌謡つれづれ」

 「逆説的な東京讃歌」という言葉が気になります。
それまでに多かったのは、東京に暮らす若い男女の恋の物語であったり、地方に住む青年の東京への憧れを歌ったりなどの歌謡曲ではなかったかと思います。

この歌が世に出た前後では、以下のような曲がよく知られていますが、これらとはまたひと味違って、上の引用文にもあるように、「少し田舎なまりを感じさせる演歌風の素朴さ」が播州の片田舎に住む小学生にも親しみやすく、さらにはメロディーが短く、覚えやすいということもあって、すんなりと受け入れられたのではと思ったりもします。

 

 「東京のバスガール」初代コロムビア・ローズ(1957)
 「東京だョおっ母さん」島倉千代子(1957) 
 「銀座九丁目水の上」神戸一郎(1958)
 「東京タワー」美空ひばり(1959)
 「地下鉄は今日も終電車井上ひろし(1959)
 「浅草の鳩ポッポ」こまどり姉妹(1961)
 「恋の山手線」小林旭(1964)
 「ウナ・セラ・ディ東京」牧秀夫とロス・フラミンゴス(1964)
 「新宿ブルース」扇ひろ子(1967)

今、YouTubeで聞き直すと、前奏から歌い出しにかけては、素人にも入りやすく、サビの部分の高い音も高すぎず、全体としてはシンプルな曲の作りになっているために、音痴の少年でもそれほど抵抗なく歌えたのではないでしょうか。

この3年後に鶴岡雅義と東京ロマンチカのデビューシングルとなった「小樽のひとよ」(1967年9月25日発売)が後に私の十八番で、現役時分にはカラオケでよく歌ったものです。こちらは、少し年季を積まないといけないような難しい歌でした・・・。

思えば便利な時代になったもので、ふと思いついてYouTubeで探すと、たいていの楽曲は視聴できますね。CDが売れないはずで・・・。
オリジナル歌手だけでなく、意外な人が歌っているのを見つけて聴くのも楽しいものです。

 

というわけで、何かのきっかけで気に入り、自ら歌ってみようと思った最初の歌は、この「東京の灯よいつまでも」なのでした(😀)

 

※いつもは日曜日の午前中に新しい記事をアップするのですが、明日は急に村の土木係の草刈りの仕事が入り、この殺人的な暑さの中で仕事をした後にたぶんアップは無理だろうと、一日早めて土曜日に書きました。

♪ 「フーテナニー Hootenanny」(ハロルド・ワルター)

www.youtube.com

山田一雄/東京吹奏楽

 

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*写真はイメージです

 

■ 大阪万博に出演 50年前の今日

先日は、一つの曲の練習に明け暮れた高校2年の夏の思い出を書きました。
今日はちょうど50年前の今日、昭和45年(1970)8月23日に出演した大阪万博の思い出をとりとめもなく綴ってみたいと思います。

 

「万博に出演」というとご大層ですが、会場の隅にあった野外劇場において、連日のように小中学生を中心とした様々な音楽披露の場(「青少年広場」だったか?)が設けられていました。
小学生の鼓笛隊から中学生の吹奏楽まで色々とあったことが、いまネット上の検索結果によってうかがい知ることができます。

 

播州の片田舎(旧加東郡社町)の、しかもそれまでにコンクール実績のないような中学校の吹奏楽部に信じられないようなチャンスが与えられた背景には、JC(青年会議所)の推薦があったものと思われます。
(顧問のI先生のお父さんが隣町の町長をされていたことから、ご縁があったのではないでしょうか)

 

写真をアップするのは恥ずかしいのでやめますが、保護者会が考えたユニフォーム(男子)は白のベレー帽に、赤い蝶ネクタイ。白いズボンには赤の側線が付いていました。

前日に出発し、まだ中国道が出来てない頃ですから、国道176で三田から宝塚へ、さらに国道171へと地道を行き、青少年向けの宿舎で一泊。
翌日の本番は夕方からで、地元からは保護者を始め大応援団(?)が!!
部長だったので、朝日だったかのインタビューを受け、地域版に載った記憶もあります。考えてみると、後にも先にも唯一の経験でした。

 

■ 「フーテナニー」のこと

演奏曲目は、資料が残っていないのですが、たまたま保存していた定期演奏会(9日前に開催)のプログラムから、万博においても、マーチ「ナイルの守り」、「祝典行進曲」歌謡曲「黒ネコのタンゴ」「ブルーシャトー」などの後、最後の曲がこの「フーテナニー」だったと思います。

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その頃は、意味もわからず、変な言葉だなという印象しかありませんでした。
このたび調べてみると「フォーク・シンガーが聴衆を参加させて行うコンサートで、非公式または即興で開かれるもの」という意味だそうです。
この曲にも「バンドのためのフォークソング・フェスティバル」という副題が付いていました。
アメリカ音楽の有名なメロディー(ジャズ、フォークソング黒人霊歌など)を、 次々といろんなパートのソロ(正しくはSoliでしょうか)がスタンドプレーで盛り上げていくという手法です。

 

わたしたちトロンボーン「Michael, Row the Boat Ashore」(こげよマイケル)でした。(今回初めて確認😀)
まさに、客席の手拍子と一体になって、場を盛り上げるに最適の曲ですが、
終盤になると、唇のほうがなかなかいうことを聞かず、音が割れるなどずいぶんと荒っぽく雑な演奏になったことでした。

 

そんなことで、50年前の夏も暑い練習の日々が続きました。(でも、35度以上などというのは聞いたことがありませんでした)
定期演奏会は市街地の外れにある小学校の体育館でした。もちろん冷房はありません。
音がするので、扇風機も置けませんし・・・。

夕涼みがてらに訪れた聴衆は、みな団扇や扇子でパタパタ扇ぎながら、中学生たちの演奏に聴き入る、そんな時代だったのです!!

 

※書きながら思い出しました。その夏、小学校の体育館に、朝比奈隆率いる大阪フィルがやってきました。狭いステージの前に卓球台を並べて、なんとか演奏できたのではなかったかと思います。

上で述べたように、冷房のない空間で、朝日奈さんは汗だくになり、「新世界」の途中でしたか、右手のハンカチで顔の汗を拭い、その間は左手の指揮棒が動いていたのを克明に覚えています。(当時62歳ー今の私よりはお若いですがー)まだまだ、ドサ回りといいますか、ご苦労されていたのですね。